第3話:飼育される絶望
ターゲットに定めた男は、かつての青年を鏡に映したような存在だった。
名前は、聞くまでもなかった。記号のような男だ。青年は「親切な隣人」を装って男に近づいた。
悪魔から授かった「誰にも怪しまれない」という加護を持つ青年は、何を意識することも無く熟練の役者のように善良な男性像をターゲットに植え付けることができた。
「君、仕事を探しているんだろう? ちょうど僕の知人に、良い条件の紹介枠を持っている人がいてね。」
青年の差し出した毒入りの甘い蜜を、男は疑いもせず啜った。男は何度も頭を下げ、青年に感謝した。その卑屈なまでの感謝の言葉を聞くたびに、青年の胸の内では暗い愉悦が泡立っていた。
――バカな奴だ。これから自分が、どんな地獄に叩き落とされるかも知らないで。
青年は、男の人生を緻密に壊し始めた。
まず、紹介した「仕事」は、男の能力では到底こなせない過酷なものにした。さらに、裏で手を回して、男が職場で孤立するように仕向けた。
男がミスをして落ち込むたびに、青年は「君の味方だ」という顔で現れ、酒を奢り、話を聞いた。
「大変だったね。でも、まだやり直せるさ。あんな会社、やめてしまえばいい」
会社を辞め、金策に困った男に消費者金融から借金をさせてギャンブルを教えた。金がなくなれば、今度は闇金まで紹介した。
働かなくなった男がパチンコに入り浸っていることを心配している大家にまで、男を心配する友人を装い、怪しい宗教にハマり部屋で儀式をしているというデマを教え、住居を奪う事に成功した。
男は、目に見えてやつれていった。かつて自分が「なんとなく絶望していた」時とは違う。男の瞳には、追い詰められた獣のような、もっと鋭利で、もっと逃げ場のない「真の絶望」が刻まれていた。
――そうだ。これだ。この絶望こそが、僕の求める最高級の対価だ。
青年は、男を海沿いの崖へと連れ出した。借金の督促、失った信頼、明日の食費もない飢え。
男はもう、一歩踏み出す力さえ残っていないほどに摩耗していた。
「……もう、無理です。僕には、何も残っていない。あなたのような親切な人にまで、迷惑をかけてしまった」
男の震える声。頬を伝う涙。青年は、その姿を悪魔とともに見守っていた。隣に立つ骸骨のような姿をした悪魔は、歓喜に震えるようにカタカタと水晶の指を鳴らしていた。
『いいぞ。これだ、これこそが私が求めていた極致だ。さあ、この男の最期を、君の記憶に焼き付けろ』
青年は、勝利を確信した。この男が死んだ瞬間、自分には一生遊んで暮らせるほどの、いや、王のような生活ができるほどの大金が転がり込む。あるいは、永遠の若さや、さらなる超越的な力を手に入れられるかもしれない。
男が、崖の縁に立った。月光が、男の疲れ果てた横顔を照らす。青年は、最後のトドメを刺すべく、わざと冷酷な笑みを浮かべて口を開いた。
「ああ、死んでくれ。君の不幸は、僕の最高のご馳走なんだ」
男は、ゆっくりと振り返った。
その瞬間、青年は奇妙な違和感に襲われた。
男の顔が、歪んで見えた。 いや、歪んでいるのは、自分の視界だろうか。男の顔が、鏡を見た時のように自分と重なる。それだけではない。男の背後に広がる夜の景色が、まるで古いフィルムのように色褪せ、剥がれ落ちていく。
「……君は、誰だ?」
青年が問いかけた。男は、声にならない声で、しかしはっきりとこう言った。
「君が、捨てた記憶だよ」




