第1話:等価交換の始まり
人生とは、砂を噛むような味気なさが延々と続く作業に過ぎない。青年はそう思っていた。
彼は何かに秀でているわけでもなければ、目を引くような欠点があるわけでもなかった。学校を卒業し、社会の隙間に潜り込むように就職したが、そこには彼を必要とする居場所などなく、気がつけば仕事をやめ、六畳一間のアパートで窓から差し込む斜陽を数えるだけの日々を送っていた。
能力が低いわけではない。ただ、ほんの少し「運」の歯車が噛み合わなかっただけだ。だが、その微細なズレが、彼から「明日を望む権利」を奪い去ったのだ。
「……死ぬのは怖い。けれど、生きているのも面倒だ」
預金通帳の残高は、あと数回のコンビニ弁当でゼロになる。そんな絶望というにはあまりに平坦で、救いようのない虚無の中に、それは現れた。
音もなく、気配もなく、黒い霧を固めたようなマントを羽織り、透き通った黒水晶の骨格を持つ異形。
顔があるべき場所には、銀河の渦のような深い闇が渦巻いている。「悪魔」と呼ぶほかない存在が、気が付いた時には青年の目の前にあった。
『君にしか見えない私を、君は受け入れた。それこそが、取引の資格だ』
悪魔の声は、頭蓋の中に直接響く。
悪魔は提案した。青年に起きた「不幸」や、青年が目撃した「他人の不幸」を買い取ると。
そして、その対価として、金や、世界の理をねじ曲げる願いを叶えるというのだ。
「不幸を、売る……?」
『そうだ。売った不幸の記憶は君から消え、痛みは消える。残るのは、対価としての豊かさだけだ。』
それはやたらとニヤつくような声で、甘い商談の誘いをかけてくる。
青年は試しに、昨夜、空腹に耐えかねて泣きながら水道水を飲んだ惨めな記憶を売った。
瞬間、胸を締め付けていたあの震えるような空腹感と屈辱が霧散した。
――あれ? 僕はなぜ、今朝まであんなに落ち込んでいたんだっけ。
記憶としては「空腹で水道水を飲んだ」という事実を知っている。しかし、そこに伴う「感情」が一切抜け落ちていた。まるで、モノクロの古い映画を一度だけ見たような、希薄な情報の断片。
代わりに、畳の上には紙幣が三枚、無造作に転がっていた。三万円。
一月近くを凌げる大金が、わずか数秒の「嫌な思い出」と引き換えに手に入った。
青年の口角が、無意識に吊り上がった。この世界は嫌なことばかりだ。ならば、その嫌なことをすべて換金してしまえばいい。
その後の青年は、自分の過去を切り売りして生きた。
いじめられた記憶、親に勘当された日の言葉、就職活動で屈辱を味わった瞬間。それらを一つ売るたびに、青年の部屋は豪華な家具で埋まり、着るものはブランド品へと変わっていった。しかし、自分の不幸には限りがある。
「もっとだ。もっと効率よく、大きな不幸を……」
青年は、外へ出た。かつてはあれほど自分を拒絶した世界が、今や「商品」の溢れる市場に見えていた。




