夜明けのレモン
前に投稿した「のんと私のハーバーライト」の原型です。
さびしい漁港に、一匹のねこがいました。
そのねこは、レモンとよばれています。ある船乗りが、彼にそう名前をつけたのです。どうしてレモンと名づけたのでしょうか? レモンのひとみが、丸く黄色いからかもしれません。あるいは、あたたかい陽だまりで丸まってひるねをするレモンのかっこうが、色といい形といい、くだもののレモンによく似ていたからかもしれません。
船乗りは、漁港にいる間、レモンをかわいがってくれました。夜、ねむる時はベッドの中でレモンといっしょにねむり、朝昼晩の食事の時は、いつもレモンに魚や肉を分けてくれました。酒場に行く時も、レモンはいっしょです。船乗りがラム酒を仲間と飲んでいる間、レモンは皿に入れてもらったミルクをのみました。ひまな時は、手作りのねこじゃらしでレモンと遊んでくれました。
けれど、そのうち船乗りは、長い航海に出る船にのって、漁港から去ってしまいました。船乗りはレモンも船につれていこうとしたのですが、仲間たちが反対したのです。船酔いをしたり、海に落ちてしまってはかわいそうだと言って。
船乗りが港を出発した日、レモンははとばに立って彼の乗った船を見送りましたが、長いお別れになることには気がつきませんでした。その夜いつものように船乗りの元で眠ろうとして、どんなに探しても、彼を見つけられなかったのです。
それ以来、レモンは他のねこたちのむれには入らず、一匹でくらしていました。といってもねこたちからきらわれているわけではなく、ちょうどいい寝床の場所を教えあったり、いっしょに魚を食べることもありました。ただ、レモンはあの船乗りが帰ってきたらいつでも彼の元へ行けるようにしていたのです。むれに入ると、いつも仲間のねこたちと行動しなければなりませんからね。
おなかがすいた時は、港の魚をかっぱらって食べました。眠る時は空っぽの木の箱や、工場のとまった機械のすみっこにもぐりこみました。なんだかさびしくなった時は、他のねこたちがおしゃべりをしているところにまぜてもらうか、ねこのことが好きそうな人間の足に頭をすりつけて、かまってもらいました。時々漁港をうろちょろするドブネズミや海鳥をつかまえ、食べてしまうこともありました。レモンのことは、漁港で働く人間は皆知っています。たいていの人はレモンが好きでした。なかなかに人なつっこく、かしこかったからです。けれど、レモンを目のかたきにする人間も中にはいました。
レモンの天敵は、ボスねこでも犬でもなく、漁港で働くある男でした。海でとれた魚を箱につめる仕事をしている男は、レモンが魚のにおいにひかれて近づいてきたのを見つけると、きまって拳を振り上げて追いかけ回しました。レモンによく魚を盗まれるので、すっかりはらをたてているのです。くつろいでいる時も、男に見つかるとけとばされたり石を投げつけられたりするので、レモンは彼のことが大きらいでした。
ある時、レモンは港から家に帰ろうと急ぐ男を見かけて、ひょっこりと気まぐれをおこし、こっそりと後をつけました。いつもの男ならば、レモンがどんなに足音を忍ばせて近づいてもすぐに気がつき、怒り出すのですが、その日はちがいました。とくに寒い冬の夕暮れで、早くあたたかい家に帰っておいしい夕食とお酒を飲むことだけを考えていたのでしょう。
レモンはしばらく、歩く男の少し後を歩いていたのですが、びゅうと強い冬将軍が吹いたのに合わせて、たたたっとかけだしました。そして、冷たい風に身震いする男のそばをすり抜けていきました。
男は、レモンが近くにいることにまだ気がついていません。ようやく家にたどり着くと、かじかんだ手でとびらのかぎを開けました。その時、とびらのすきまからレモンは家の中へと忍び込むことにまんまと成功したのです。
家の中では、おかみさんが夕食を作っていました。男の大好物の、トマトスープでじっくりと煮込んだロールキャベツだったので、彼は大喜びです。
けれど、あたたかい暖炉のそばにやってきた時、男はおどろきと怒りの声を上げました。
暖炉の前に、あのいまいましいねこのレモンが、ごろんと寝転がっていました。男がその場に立ち尽くしていると、レモンは前足を上げて、ぺろぺろとなめました。
男はすぐに我に返り、どすどすと足を踏み鳴らしてレモンに突進します。レモンはさっと起き上がり、身をかわして台所に逃げていきました。
「ちくしょう!」
男がわめくと、おかみさんになだめられてしまいます。
「かわいいねこちゃんじゃないの。そんなに怒らなくたって」
おかみさんは、彼とちがってねこが好きなのです。かわいらしくみゃあとないてみせるレモンの頭をなでてくれ、あたためたミルクをくれました。その様子を、男は苦々しげにながめています。
その夜、レモンはロールキャベツの肉を少し分けてもらい、おかみさんのひざの上でのんびりとすごしました。男はずっとふきげんそうにたばこをふかしていましたが、レモンを追い出そうとしたり、らんぼうなことをするとおかみさんにしかられてしまうので、何も手を出せなかったのでした。
家の中でたっぷりあたたまると、時計が夜中を告げる前にレモンは二人にみゃあみゃあとお礼を言って、さっさと出ていきました。
ところで、レモンには、へんてこな習慣がありました。毎晩、真夜中を少しすぎたころに目を覚まし、はとばに行くのです。そして、まだ暗いはとばに座り込み、海の向こうをじっと見つめるのでした。
ある時、そのようすを見かけた友だちのねこが、レモンに近づいて言いました。
「どうして、いつもそこにいるんだい? 何かを待ってるの?」
レモンはにゃあとうなずきました。
「ここにいると、何かがやってくるんだ。僕はそれをみはっていなくちゃならないんだよ」
「ふうん、ま、がんばれよ」
そんなに興味もなかった友だちは、そう言ってレモンと別れ、その夜のごはんを探しに行きました。
それからどれぐらい待ったでしょうか。レモンのしっぽが、ぶわりとひろがりました。レモン自身も気がつかないうちに、けいかいすべきものの気配を感じたのです。
「来る!」
レモンは低くうなり声を上げました。まっすぐに水平線をにらみ、おしりを地面から上げて、足をふんばり、かぎづめをひそかに出しました。海の向こうから迫り来る何者かにそなえているのです。
レモンが毎晩はとばに立つのは、この瞬間のためでした。
悪しき者が、海をわたってやってきます。レモンには、それが分かるのです。ほうっておいたら、漁港も、レモンの大好きな魚も、ねこたちも、レモンをかわいがってくれる港の人間たちも、おいしいロールキャベツも、全てのみこまれてしまうでしょう。
レモンがまだこねこだったころから、毛皮に感じる海鳴りがやけに痛い時がありました。港でかぐ海のにおいが、ふいにげっとなるほどくさくなる時がありました。海から来る風が、魚をさばく包丁のようにするどく、おそろしく見える時がありました。そうした時には、きまって港で悲しいできごとがおこるのです。
ある時は、偉大なボスねこがとつぜん死んでしまいました。ある時は、漁港の魚がみんなくさってしまい、出荷できなくなりました。ある時は、大雨でいろんなものが流されてしまい、おまけに漁港で病気がはやりました。
その時、レモンは見ていました。海から上がってきた黒いけむりが漁港中を吹き回り、めちゃくちゃに荒らしてからやっと消えるところを。その黒いけむりが、港にわざわいをもたらすのでしょう。
黒いけむりの正体を、レモンは知りません。けれど、漁港で生きる自分にとって、けむりは敵でした。けむりが海の向こうからやってくるのは、きまって真夜中を少しすぎたころです。だから、毎晩彼ははとばに立って、恐ろしい敵を待ちかまえているのでした。
悲しみをもたらす不潔な気配が、レモンの鼻をつんとさしました。そして、レモンの目に、もやもやとした黒い煙が海上をすべり来るのがはっきりと見えました。
「来るな!」
レモンが一声さけぶと、煙は一瞬だけぴたりと止まりました。そして、ゆっくりとちぢんで、人の形になりました。
それを見て、レモンはおどろきました。目の前にいたのは、かつてレモンをかわいがり、名前をつけてくれたあの船乗りだったのです。
長い船旅の間に、彼は命を落とし、わざわいをもたらす悪霊となって帰ってきたのでした。
レモンののどが、自然にごろごろと鳴りました。悪霊は、そっとけむりの手をのばしました。影のような手にのどもとをくすぐられ、レモンはうっとりと目をつぶりました。船乗りとすごした楽しい日々が、昨日のようによみがえります。
『おいで』
船乗りの声に応えて、レモンは海の上に飛びだそうとしました。
けれどその時、力強い手が港の方から伸びて、レモンをつかみました。
「いけない!」
レモンを引き止めたのは、あの、レモンを追いかけ回す男でした。
彼は、船乗りの魂が、レモンをさらっていこうとするのを見ていたのです。
レモンの毛皮は、けむりをあびたせいか、黒く汚れていました。うでの中のレモンを優しくなでながら、男は船乗りの魂に向かって言いました。
「お前は、港に上がらせない。そのまま海の上をさまよっているがいい」
その時ちょうど夜明けがきました。東から昇る太陽が、真っ黒な海面を少しずつ、金色にそめていきました。
きらきらと辺り一面を照らす朝日をあびて、レモンはまばたきをしました。あの黒いけむりはどこにもありません。夜明けの光にあたってすっかり消えてしまったようです。
「あいつは、もういなくなった」
男は、ひとりごとのようにつぶやきました。
「あいつをそのまま港に上げていたら、わしらはいったいどんな目にあったことやら! レモン、お前さんのおかげだ。お前さんが、港を守ってくれていたんだな」
老人のうでの中で、レモンの黄色いひとみから、一粒のなみだが転がり落ちました。
他に誰も見ていた者はいない、静かなできごとでした。




