六角邸恋奇譚・外伝 ― 元伯爵令嬢と侯爵家の兄弟が奏でる、もうひとつの恋愛譚 ―
『六角邸恋奇譚・外伝』
― 元伯爵令嬢と侯爵家の兄弟が奏でる、もうひとつの恋愛譚 ―
※ 作品のイメージイラストです。
✧✦✧ 大正浪漫 × 愛憎劇 × ロマンス ✧✦✧
元伯爵令嬢の紗弥子は、女中として侯爵家の屋敷・六角邸で働くことになった。辛い日々の中、紗弥子に手を差し伸べたのは六角家の兄弟、真孝と葉月。二人は紗弥子を想うようになり……。
⚠ この作品は、短編『六角邸恋奇譚』の外伝になりますが、本編をご覧になっていない方にもお読みいただけます。
六角侯爵邸に、秋が訪れた──
しんと静まり返る、深紅の絨毯の敷かれた廊下。磨き込まれた赤茶の窓枠の向こうには、鮮やかな紅葉が舞い散る美しい庭が広がっている。
窓から差し込む午後の陽射しが、廊下を照らしていた。その中を、一人の少女が静かに足を進めている。
美しい漆黒の長い髪をひとつに編んで背中に垂らし、墨黒の着物に白い肌と薄紅の唇がよく映えている。ひだ飾りの付いた白い前掛けが、動きに合わせて微かに揺れていた。
その細い両腕には、大切そうに数冊の本が抱えられている。
「……紗弥子さん」
低い声に呼び止められ、少女が振り返った。
目に入った姿に、胸がどきりと跳ねる。
「真孝様……どうなさいましたか?」
廊下の陰から姿を現したのは、黒い詰襟を纏う端正な顔立ちの青年だった。その黒い瞳は、じっと紗弥子を見つめていた。
「書庫に、行くのか」
「はい。葉月様と、お約束を……」
答えた瞬間、真孝の瞳がかすかに揺れた。
次の瞬間、彼は一歩近づき、紗弥子の手首を掴んだ。
「真孝様──?」
驚く間もなく、すぐ脇の部屋の戸が開かれ、紗弥子は中へと引き込まれた。
背中が壁に押し付けられ、真孝の腕が紗弥子を閉じ込めるように左右に掛かる。
「真孝様……」
黒い瞳に見下ろされ、紗弥子は思わず息を止める。壁に真孝の腕が触れ、カタンと乾いた音が響く。
息がかかる距離──
間近に迫る端正な顔に、紗弥子は本を取り落としそうになった。
「……どうして、葉月と会う」
掠れた、普段よりも低い声。
その黒い瞳に、抑えきれない感情が揺れている。
「そ、それは……本を、貸していただくお約束を──」
言い終える前に、紗弥子の白い顔に影が落ちた。
真孝の顔がすぐ目の前まで近づき、視界いっぱいに彼の瞳が迫る。
「……紗弥子さん、私を見てくれ……」
囁くような吐息が頬をかすめた次の瞬間、唇が重ねられた。
短いけれど、確かな意志を込めた口づけ。心臓の音が耳の奥で大きく響き、紗弥子は動くことができなかった。
やがて唇を離すと、真孝は壁から腕を外し、深く息を吐いた。
「……すまない。こんな形で……貴女を引き止めるなんて……」
伏せられた瞳に、悔しさと後悔と、どうしようもない想いが入り混じっている。
その姿に胸が締めつけられ、紗弥子は思わず唇を押さえた。
「真孝様……」
それ以上何も言えず、顔を真っ赤に染めて一礼すると、紗弥子は本を抱き締めて部屋を飛び出した。
残された真孝は、壁に手を掛けたまま、しばらく動けなかった。
「……私は……どうして……」
唇に残る感触に、彼はそっと瞼を伏せる。頬を染めて走り去った紗弥子を思い出し、真孝は切なげに瞳を揺らした。
* * *
「紗弥子さん……?」
書庫に向かって歩いていた亜麻色の髪の青年が足を止める。色素の薄い美しい顔が、窓から差し込む日差しに儚げに照らされている。
その青灰色の瞳は、廊下を歩いてくる紗弥子の姿を見つめていた。口元を手で隠すように歩く彼女の頬が、紅く染まっているのに目を留める。
「あ、葉月様……遅くなって、申し訳ありません」
葉月の姿に気付いた紗弥子が顔を上げると、慌てて葉月の元へと急ぐ。
「待っていませんよ。僕も向かっていたところですから」
見上げてくる黒曜石の瞳に、柔らかく微笑んだ葉月。だが、いつもと違う紗弥子の様子に、胸がざわついていた。
二人は、並んで書庫へと続く廊下を歩く。いつもと違い、言葉はない。
「紗弥子さん、どうぞ」
書庫の前に着くと、葉月は扉をそっと開けて、紗弥子を先に通す。
その時──
(この香りは……)
葉月の鼻先に、微かな沈香の香りが感じられた。瞬時に浮かんだのは、黒い詰襟を纏う兄の姿。
胸を、ちくりと刺されたような痛みと、じわじわと胸を焦がすような熱が広がっていく。
「紗弥子さん……」
「葉月様……?」
扉を閉めた葉月は、振り返った紗弥子を抱き締めていた。
胸の中に閉じ込められた紗弥子が戸惑いに瞳を揺らす。
「兄様と……一緒にいたんですか……?」
耳元に落ちてきた切なげな声に、紗弥子は言葉を失う。答えない紗弥子に、その体を抱き締める葉月の腕の力が強くなった。
「……答えられない、ことを……?」
葉月の囁くような声に、何も返せない紗弥子は動くこともできなかった。
葉月の白い手が紗弥子の顎に触れ、青灰色の瞳が見下ろす。
「葉月さ──」
唇を塞がれた紗弥子は、それ以上言葉を紡ぐことができなかった。
柔らかな感触が離され、耳元に掠れた声が落ちる。
「兄様じゃなくて、僕のことを見て……」
葉月の腕に閉じ込められたまま、紗弥子の心は揺れ動いていた。
──だが、彼女の答えは、まだ胸の奥に秘められたままだった……。
真孝と葉月、六角家の兄弟に望まれた少女の選ぶ道は──
─ 外伝・終 ─