番外編⑧『塔の書記』(???視点)
羽根ペンの先が、羊皮紙を擦る音だけが響いていた。
研究院の高塔、その一隅。窓のない小部屋に篭る自分を、誰も気に留めはしない。
──それが、この仕事の取り柄でもあり、呪いでもある。
私は、王立研究院の下級書記だ。
名は出さない。出せない。
我らはただ、記録する。残す。命じられた通りに。
そこに価値を見いだす者もいるだろう。だが実際は、ただの影だ。
それでも、あの日の光景は影にすら焼きついた。
公開小審査。
青と白の波が、講堂の中央でぶつかり合った。
王都正規の「規格瓶」を、無名の旅人の「白き滴」が飲み込み、観測陣が眩しく輝いた瞬間。
私は、筆を止めてしまった。
──規格に従えと命じられていた手が、震えて。
(白が、勝っていた……)
認めてはならない。
だが、目にしたものを「嘘」とは書けなかった。
だから私はただ、「波形、安定。記録保存」とだけ記した。
上の者がどう裁断しようと、私の責務は“見たものを残すこと”だ。
その夜。
塔の地下書庫にこもり、封緘台帳を整理していた。
膨大な羊皮紙の束。瓶の入出庫、印の押印、査察官の署名。
どの一行も、ただの数字と文字の羅列にすぎない。
だが、その羅列の隙間に、人が生き、人が死ぬ。私は知っている。
深夜の蝋燭が小さく揺れたとき、背後で音がした。
「──誰だ!?」
振り返った。
闇の奥から、燕尾服をまとった長身の男が歩み出る。
背筋はあまりにも自然に伸び、影と光が同じように纏わりついている。
その佇まいから、人間に似て、人間でないと直感した。
口が、勝手に震えた。
「……ま、魔人……」
男は微笑んだ。
「正解だ。だが正解である必要はない。名を与えられるほど、私は“制度”に組み込まれてはいないのだから」
声は柔らかかった。だが、深すぎる井戸を覗いたように背筋が凍った。
私は膝を突きそうになりながら、羊皮紙を抱えた。
「なぜ……ここに……」
男は、白い手袋の指先で台帳の束をなぞった。
「観察のためだよ。制度が揺らぐ瞬間は、美しい。──白と青。人の波が、新しい秩序を飲み込むとき、必ず“物語”が生まれる」
燕尾服の裾が、静かに揺れた。
彼の瞳は深い紫で、炎も氷も映さないのに、すべてを映している気がした。
「カイル。あの少年は、面白い。彼の波は“自足”している。有限の瓶ではなく、体内で無限に湧く。制度の価値を揺るがすに十分だ」
私は息を呑む。
「……なぜ、それを」
「見れば分かる。私は観察者・『ヴァルザ=レヴェラ』だ」
魔人──その男は、楽しげに笑った。
「だからこそ嫌われもする。私は何も売らず、何も奪わない。ただ“見る”のだから」
その声音に、私はぞっとした。
見るだけ──だが、それが一番恐ろしい。
誰よりも多く知り、誰よりも深く見ながら、決して手を貸さない。
「君は記す者だろう?」
ヴァルザが私を見た。
「ならば、記しなさい。青が飲まれた、と。白が芽吹いた、と。──そして、魔人が現れたことも」
「そんなこと、記せるはずが……!」
「記せばいい。残すかどうかは、君ではなく“物語”が決める」
言葉が落ちた瞬間、蝋燭の炎が消えた。
目の前から、燕尾服の男の姿も。
闇の中に残された私は、ただ震えながら羊皮紙に筆を走らせた。
記さずには、いられなかった。
──“白の波が、青を覆った。
その傍らに、観察者あり”
震える文字を見つめながら、私は理解した。
たとえ消されようと、たとえ焼かれようと、この塔に生きる影が見た真実は残る。
そして、いつかきっと、誰かが拾う。
鐘が夜明けを告げた。
私はペンを置き、まだ濡れたインクに手をかざす。
その震えは、恐怖か、それとも希望か。自分でも分からなかった。
ただ一つ分かるのは──
世界は、確かに動き始めているということ。
《つづく》
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