第44話『白き逆転 ―本物の滴―』
セリーヌの肩が大きく揺れた。
赤黒く腫れた右手を抱え込み、膝をつき、それでも彼女は顔を上げていた。
「次は……カイルの……水を……」
掠れた声が講堂の隅々まで響き、場を静寂で満たした。
観客たちは息を呑む。
「もう十分だろう!」
「火傷で死んじまうぞ!」
同情と恐怖と怒りが入り混じり、公開小審査は崩壊寸前だった。
だが、その只中で、カイルは一歩を踏み出した。
「ここからが、本番だ」
懐から小瓶を取り出す。
淡い透明の液体。
だがただの透明ではない。光を受けてきらめき、揺れるたびに小さな星を宿すように見える。
観客席からざわめきが広がった。
「……これが噂の……」
「ミリエル印……?」
カイルは瓶の口を開き、視線をセリーヌに落とした。
「ここまでよく耐えた。……あとは任せろ」
セリーヌは息を詰め、涙で濡れた頬を震わせた。
「わたし……もう、一歩も引けなかったから……」
「その勇気に報いる。一滴で、十分だ」
セリーヌの手の上に、透明の液体が落ちる。
──リィン。
──鈴の音が鳴った。
フィノの観測器が震え、澄んだ音を響かせる。
観測水晶の奥で、白い波紋が一気に広がり、三重の測定陣がまばゆい光に包まれた。
眩しさに観客席の人々が目を覆う。
次の瞬間、熱は消え、空気が澄み渡る。
「……っ!」
セリーヌの喉から、驚きの声が洩れた。
腫れ上がっていた右手の赤が、みるみるうちに引いていく。
ひび割れた皮膚が閉じ、炎症の跡さえ残さず、肌が白く戻っていった。
痛みに歪んでいた顔が、嘘のように緩む。
「……あ……」
涙が、ぽろぽろと零れた。
「痛くない……痛く、ない……!」
観客席から、息を呑む音。
次いで、爆発のような叫び。
「見ろ!」
「治ったぞ!」
「正規品より早い!」
驚愕、歓声、怒号。
空気が一気に揺れ動く。
◇ ◇ ◇
舞台袖で、ミリエルが胸に手を当て、涙ぐみながら小さく笑った。
「よかった……!」
フィノは観測機の指輪を握りしめ、飛び跳ねながら叫んだ。
「ノイズゼロ! 完全反応! Q.E.D!」
ラティナは鋭い目で観客席を見渡し、鼻息を荒くする。
「これで商会も認めざるをえないわ……!」
セリーヌは震える手をカイルに差し出した。
「ありがとう……わたし……生きて、償う……」
その声は震えていたが、確かな光を帯びていた。
カイルはその手をしっかりと取り、短く答えた。
「生きろ。それが一番の償いだ」
◇ ◇ ◇
会場のざわめきが収まりきらない中、進行役の研究員は必死に声を張った。
「こ、これにて検証終了……! 記録は研究院が責任をもって公開する!」
「待て!」
鋭い声が遮った。
黒衣の査察官が立ち上がり、片眼鏡を光らせる。
「この結果は偶然かもしれん。仕込みだと断定できる! 第一、被検者は地方貴族のラフィネ家の娘だ。偏った証言になる恐れがある!」
ざわつく会場。
「仕込み……?」
「でも、実際に治るのを見たよな?」
空気が再び揺れ始める。
その時、シリルが前に出た。
「研究院は三重記録を取っている。幻影師による映写、外部写し、そして観測器の実測値。改竄は不可能だ」
淡々とした声に、ざわめきが次第に収まる。
観客たちの顔は、確かに「本物」を見たと語っていた。
◇ ◇ ◇
空気が、完全に傾こうとしていた。
規格と資格に縛られていた王都の秩序が、いま一滴によって崩れかけている。
貴族の檻が、軋む音を立てていた。
その時。
──扉が、轟音を立てて開いた。
講堂の入り口から、堂々と歩み出る人影。
金糸の外套、鋭い眼光。
背後に従者を従え、剣を佩いたその姿は、群衆の視線を一気にさらった。
「茶番は終わりだ!」
雷鳴のような声が会場を震わせた。
その顔を見て、カイルの胸に冷たい痛みが走る。
──レオン・エルヴァン。
「真の魔素を知る俺が、証明してやる! お前の水など偽物だとな!」
観客席が揺れ、悲鳴と怒号が交錯する。
兵たちが慌てて前に出るが、レオンは一歩も止まらない。
腰の瓶から青い光が漏れ、剣が鈍い輝きを放つ。
ミリエルが絶望に似た声を上げる。
「カイル……!」
ラティナは歯噛みして吐き捨てる。
「最悪のタイミングね……!」
フィノは震える声で、それでも叫んだ。
「でも……これで、全部はっきりする……!」
セリーヌはその場でへたれこみ、蒼ざめた顔で息を呑んだ。
そして、カイルは静かに前へ出る。
胸の奥で蘇る痛み──心臓を貫かれたあの日の感触。
けれど、もう苦しむ必要はない。
ここが、因縁に決着をつける場所だ。
観客も、研究員も、商会も、王都のすべてが固唾を呑む。
──死闘の幕が上がろうとしていた。
《つづく》
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