番外編⑦『セリーヌ・ラフィネの王都行』(セリーヌ視点)
幾つもの村を渡り歩いた。
施療院のない辺境で、子どもの熱を冷まし、老人の寝床を整え、行き倒れの者を看取った。
魔法は出ないまま。それでも「できること」を探し、両手を動かし続けた。
けれど、どこへ行っても突き当たった。
傷の化膿は薬草をすり潰すだけでは追いつかず、肺を病む子は温布を替えても呼吸が戻らない。
「魔素水があれば」「回復魔法が効けば」──そう言われるたび、胸の奥に黒い穴が広がった。
(どうして、私だけが魔法を失ったの……?)
問いは夜ごと胸に積もり、答えはどこにもなかった。
やがて耳にしたのは、王都で新しい魔素水が現れたという噂だった。
その言葉に足が止まった。
──王都。
生まれ、育ち、そして仲間を裏切った場所。
戻れば、あの日の影と再び向き合うことになる。
でも、怖さと同じくらい、「確かめたい」という思いも膨らんでいた。
光を失った理由も、贖罪の意味も。
すべての答えが、そこにあるような気がして。
(もう逃げない。贖いきれなくても、向き合わなくちゃ)
小さく息を吐き、私は荷をまとめた。
村の人々に別れを告げ、旅装を整える。
歩き続けて、王都へ。
──赦しを得るためではなく、罪を抱えたまま生き直すために。
◇ ◇ ◇
夜明け前、宿の薄い壁越しに、隣室の咳が聞こえた。
私は胸の上で指を組み、静かに詠唱の形をつくる。
声は正しく出る。息も乱れない。けれど、掌は暗いままだ。
(また、灯らない)
失った光は、戻ってこないまま、朝が来る。
安宿の一階では、宿の女将がスープを配っていた。湯気に混じって、パンと薬草の匂いがする。私は器を受け取り、口に運ぶ前に奥の席に目を留めた。
若い母親が子を抱いている。子の額は熱く、身体は重い眠りに沈んでいた。
私は立ち上がり、そっと声をかける。
「おでこ、触らせてもらっても?」
母親は驚いたように私を見たが、すぐに頷いた。
濡れ布を替え、脈を測り、水を少しずつ飲ませる。
「ここ、冷やし続けて。朝になったら施療院へ。……“予診券”がなくても、門前で頼んで」
私は布を整え、席に戻った。
光らない手でも、できることはある。あの日、私がしなかったことを、今はする。それだけ。
外に出ると、王都はすでに忙しい。
石畳の照り返し、早足の靴音。青い旗の前には長い列ができていて、「予診券、売り切れだ」という声が飛ぶ。
私は列の端を過ぎ、露店の並ぶ小路へと入った。白い布ものの店で足が止まる。
「庇帽は?」
「あるよ、白布のが人気だ。顔が隠れて陽も避けられる」
私は白布の庇帽を受け取り、鏡の前で深さを確かめた。
(顔を隠すために被るんじゃない。──見たくない自分を、少しだけ覆うため)
紐を結ぶと、視界が細くなる。息は苦しくない。歩幅も変わらない。
ただ、ほんの少しだけ、外と自分の間に布の距離ができることに少しの安堵があったことは嘘ではなかった。
広場では、吟遊詩人が竪琴を鳴らしていた。布幕の上に幻影が踊り、歓声が上がる。
「聴けや、英雄の物語──」
私は足を止めた。
舞台の上に、白銀の剣と炎の獣、そして“名もなき少年”。
彼は皆を庇い、光になって消える。
拍手。嘆息。
私は胸を押さえた。
(名も、告げずに)
露店の脇に積まれた廉価本《レオン一行討伐記》を一冊手に取る。紙は薄く、文字は軽い。
めくるほどに、私の知っている現実は削られて、整えられていく。
最後の頁を閉じると、指先が震えていた。
「一冊、ください」
金を置き、白布の庇帽の庇を下げる。顔に落ちる影の中で、私は本を抱えた。
正午の鐘が鳴るころ、別の噂が耳に入った。
「三日後、研究院で“公開小審査”だとさ。噂の新しい魔素水、どこまで効くか見せるらしい」
「規格外だとか何とか。怖いよなぁ」
「いや、もし本物なら……」
言葉が人から人へ渡される。
私は立ち止まり、空を仰いだ。白い雲が塔の尖りを流れていく。
(“本物”)
その響きは、胸の深いところで痛む。
彼が信じていたもの。彼が選んだもの。
名前を口に出すことはできない。口に出せば、涙になるから。
◇ ◇ ◇
午後、施療院の脇道で、少年が偽物の瓶を撫でているのを見た。
「効くの?」と尋ねると、少年は笑った。「気がする」
私はしゃがみこみ、瓶を受け取って光に透かす。
とろりと鈍い色。
思わず、少年の手を包んだ。
「明日の朝、早く起きられる? ここ、鐘が一つ鳴る前に並べば──」
言いかけて、言葉を飲み込む。
偽物では、気がする以上のものは来ない。
でも、気がすると言って笑ったその顔は、今日を生き延びるための勇気でもある。
私は瓶を返し、少年の頭をそっと撫でた。
「温かいものを食べて、早く寝て。……手を洗ってね」
少年は頷き、駆けていった。
夕方、古い礼拝堂に入った。
ひと気のない石床に跪き、私は低く祈った。
何に向けての祈りなのか、うまく言えない。
赦しでも、救いでも、懺悔でもない。
ただ、同じ過ちを繰り返さないという、小さな誓いだけ。
祭壇の脇に“無名の石板”がある。名前を刻むお金のない者が、そっと祈る場所。
私はそこに手を置いた。
(あなたに届くはずのない言葉を、ここに置いていくね)
声にならない声が、石に染みる。白布の庇帽の影が、石に落ちる。
礼拝堂を出るころ、空は薄紫に変わっていた。
研究院の前には仮設の掲示板が立てられ、三日後の審査の告知が貼られている。
「誰でも入場可。検証は公開。──」
私は紙を目で追い、指先で縁をなぞった。
(見に行こう)
そこに真実があるなら、私の足で確かめる。
“信じたい”ではなく、“向き合いたい”。
逃げなかったと、せめてそれだけは自分に言えるように。
市場の端で、白布の庇帽の紐を結び直す。
布はやわらかく、軽い。
うなじに触れる感触が、少しだけ心を落ち着ける。
私は抱えていた本を胸に押し当て、視線を上げた。
通りの先で、人の波が途切れる。角を曲がった先に、別の通り。研究院へ向かう近道。
足が自然にそちらへ向いた。
私は小さく息を吸い、歩き出した。
──公開小審査まで、あと二日。
贖罪は、まだ終わらない。
終わらせないまま、私は王都で生き直す。
《つづく》
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