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第31話『三日の猶予』

「やるしかないな」


 カイルは寝台の周りをゆっくり歩いた。空気の厚みを足裏で探る。

 黒い霧は彼の動きと同調するようにゆらめき、時折、針の先ほどの光点が内側へと吸い込まれていく。


(……針? 違う、“刻印”だ。層に、刺繍の返し縫いみたいに縫い目がある)


 カイルは部屋の四隅に目を走らせた。柱、壁紙の継ぎ目、床の目地──外部からの“杭”は見当たらない。ならば、糸口は内部、あるいはすぐ近くに。


「誰が……誰が母にこんなことを」


 リシェルが唇を噛む。涙が今にも零れそうなのを、必死に堪えていた。


 ラティナが一歩踏み出し、しかし言葉を選ぶように口を開いた。


「辛い話だけど、確認させて。屋敷に出入りできるのは誰?」


「……私と母、古くからの使用人、出入りの商人、神殿の司祭、医師……あと……」


 リシェルはここで言い淀み、視線を逸らした。


「兄が、います。今は領外にいるはずですが」


 室内の温度が、僅かに下がった気がした。


 フィノが寝台の脇で淡々と続ける。


「“返し”の縫い目は、術者が近くにいるほど精細にできる。遠隔でやるなら、もっと粗くなるし、祈祷で割れる亀裂が残る。でも、これは……滑らかすぎる」


「つまり」


ラティナが短く言う。


「屋敷の内側。少なくとも、近しい場所で編まれてる」


 カイルはリシェルを見る。


「身内に疑いを向けたくないのはわかる。でも、これは……外からの一撃じゃない。何度も部屋に“通った手”の仕事だ」


 リシェルは震える指で裾を握り、やがて小さく頷いた。


「……わかっています。母の容態が悪化するたび、使用人の入室履歴や食事の配膳を全て洗いました。でも、決定的なものは何も……」


「決定的な“物”は残らない」


フィノが言う。


「これは媒介を燃やすタイプ。痕跡は魔素の層にしか残らない」


 カイルは手を引き、深く息を吸った。体内の泉が静かに満ち、透明な流れが自分の中心を貫く。指先が温かくなり、周囲の黒がそれを嫌うように、ふわ、と後ずさった。


「黒いのの中心はどこかな?」


 ミリエルが尋ねる。


「いまは、“封”の奥。心臓と横隔の境目にあるはずだ。でも、直接触れるのは危険」


 フィノは器具の目盛りを指で叩きながら。


「ここからやるのが妥当。層を一枚ずつ“ほどく”。ただし、返しが噛みつくたび、母体に負担がかかる」


 カイルは頷く。


「じゃあ、俺が“道”を作る。泉の流れで、層の向きを少しずつ合わせていく。ミリエル、君の回復で母体を支えてくれ」


「うん。任せて」


「私は侵襲の波形を監視する。返しが噛んだら、すぐ切断指示を出す」


 フィノの声は落ち着いているが、額には汗が滲んでいた。


 ラティナは部屋の入口に立ち、短く指示を飛ばす。


「出入りを制限。衛兵を二重で。祈祷は中断、香は止めて。──それと、記録係をひとり。時刻と反応、発話、すべて書き留めるの」


 執事が深く一礼して散っていく。

 室内には、四人とリシェル、そして寝台の奥方だけが残った。



 静寂が降りた。


 カイルは寝台に手を置き、もう片方の手を空へ上げた。指の間に、透明な糸が張る。目に見えないはずの流れが、彼の手だけには輪郭を得る。


(ゆっくりだ。焦るな。層は薄く、しかししなやかで、返しは……ここ。縫い目を逆撫でしないように)


 そっと撫でる。水面を撫でるように。黒がさざ波を立て、ほんのわずか、向きが揃う。

 フィノの器具が淡い音を鳴らした。


「一層、右回りに三度。……いい、波がほどけてる」


 ミリエルが祈るように奥方の手を包み、柔らかな光を掌から零す。光は熱ではない。呼吸のリズムを整え、震える鼓動を支える“拍”だ。


 ラティナは扉越しに控える衛兵に目だけで合図し、再び室内を見回した。窓、額、絨毯の縁。どれも清潔だが、清潔すぎるものは何かを覆い隠す。彼女は内心で候補を並べ始める。


「二層、逆返し……噛むよ、気を付けて」とフィノの声。


「わかってる」


 カイルは、黒の抵抗が強まったのを指先で感じた。ちり、と痛み。皮膚の内側で、かすかな焦げ跡が走る。返しが噛みついた。だが、泉の水は枯れない。彼の中から湧き続ける。


「噛んだ──切る」


 フィノが符のように短く囁く。器具の波形が鋭く立ち上がり、黒がひゅ、としぼむ。

 ミリエルの光が一段、明るくなり、奥方の胸がわずかに深く上下した。


「よし……通った」


 カイルは低く息を吐く。


「核の“前庭”まで来た」


 リシェルの手が震えている。彼女は噛み締めた唇を緩め、涙を落としそうになって、必死に拭った。


「大丈夫。ここまで来たら、あと少しよ」


 ミリエルが微笑む。


「あなたの声、ちゃんと届いてる」


 リシェルは母の耳元に口を寄せ、かすかに囁いた。


「お母さま……聞こえますか。リシェルです。帰ってきて」


 黒の霧が、その声にほんのわずか、揺れた。


(声が届く。なら──)


 カイルは最後の層に指を添えた。ここが核の周りを囲う“封”。綺麗すぎる縫い目。人間の手仕事ではない緻密さ。


(この精度は……)


 嫌な予感が背筋を走った。指先に泉を集め、すぐに流し込めるよう構える。


「フィノ、最後は?」


「封を“ずらす”。無理やりは駄目。鍵穴に糸を通すように、ほんの一筋。──できる?」


「やるしかない」


 カイルは息を止めた。指が、空をすべる。縫い目が、音もなくほどけていく。

 封の奥で、小さな小さな光点──煤に塗れた真珠のような核が、怯えた心臓のように脈動していた。


 そのとき、室内の空気がきしんだ。黒が、牙を剥く。見えない鳴き声が響き、縫い目が反転する。針の雨が一斉にこちらへ飛んできた。


「噛む!」


 フィノの叫び。


 カイルは手を交差させ、泉を盾に変えた。透明な膜がぱん、と弾け、無数の黒い針が霧散する。

 同時に、カイルは核へと細い細い糸を伸ばした。真珠を包む繭の一点へ、触れずに“向き”だけを揃える。


「今!」


 ミリエルの光が一段と強くなり、寝台の上に温い風が吹いた。

 ラティナが扉を押さえ、外から走り寄る足音を遮る。


 刹那──黒が形を失い、核が一滴ぶん、内側へ転げた。

 器具が高い音を鳴らし、波形が一気に下がる。奥方の口元が、微かに震えた。


「──いける。封を跨いだ。これで、最悪の連鎖は止まる」


 フィノが荒い息を整え、安堵の笑みを見せた。


「ただ、核そのものは残ってる。抜くには、由来を掴まなきゃ」


 カイルは頷いた。背中に冷たい汗がつたう。


「三日は、稼いだ」


 リシェルはその場に崩れ落ち、泣きながら母の手を握った。

 ミリエルがそっと肩を抱き、ラティナは静かに室内の気配を改めて数える。


 カイルは黒が縮んでいった方向へ目を凝らした。縫い目の癖、封の精度、核の“質”。


(……人間の我流じゃない。体系化された、けれど禁じられた“書式”。昔、どこかで──)


 脳裏に、見たことのない文字列がかすめる。意味を持つのに読めない、あのいやな感覚。

 カイルは振り返り、リシェルに静かに言った。


「これを仕掛けたのは、ここを知っている者だ。部屋の呼吸、母上の魔力の癖、祈祷の手順……全部を“前提”にして編まれている」


 ラティナが続ける。


「外の敵もいるでしょう。でも、最初の手は“内側”から伸びてる。出入りの記録と同時に──家族の動線、鍵、合図、全部洗い直す」


 リシェルは涙に濡れた頬を拭い、震える声で答えた。


「……わかりました。やります」


 フィノは器具をそっと閉じ、立ち上がった。


「この封の書式、どこかに“手本”があるはず。書斎、資料室、私物──紙でも、刻印でも。見せて」


 リシェルは一瞬ためらい、しかし、決意の色を瞳に宿した。


「……兄の部屋を、調べてください」


 室内に、静かに緊張が戻った。


 カイルは頷き、寝台の女性の額にそっと手を当てる。


「必ず、助ける」


 奥方の睫毛が、かすかに震えた。沈んだ湖底から、遠い光が差し込んだように。


 扉が、わずかに鳴った。廊下の向こうで、誰かの足音が止まる。


(──内側に、敵がいる)


 カイルたちは視線を交わし、言葉を交わさずに次の場所──“兄の部屋”へ向かう準備を始めた。


 《つづく》


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※最新話は【毎日12時10分】更新予定です。

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