第25話『広がる静かな包囲網』
翌朝。ベルダルクの広場では、今日も“ミリエル印の魔素水”の屋台が開店準備を進めていた。
「瓶の補充、完了っと!」
ミリエルが明るい声で両手を広げる。昨日の査察官による再審査の通告にもめげることなく、今日も元気いっぱいだった。
「さて、今日は商人の皆にも見本を配って──って、あれ?」
ミリエルが広場を見渡して首を傾げる。昨日までは顔を見せていた商人たちが、一人も姿を現していなかった。
「変ね……今日、声をかけたはずの人たち、誰も来てないわ」
ラティナが不審そうに周囲を見回す。いつもなら朝から集まってくるはずの露店の仲間たちが、まるで示し合わせたように姿を消していた。
そのとき、軽やかな足音とともに誰かが屋台に駆け寄ってきた。
「──みんな、大変よ!」
ラティナだった。彼女は片手に一枚の紙を握りしめている。
「これ、街角に貼られてたわ……見て」
ミリエルが紙を受け取って目を通した瞬間、言葉を失った。
『《ミリエル印》と名乗る魔素水に、粗悪品の混入が報告されております。安全が確認されるまで、当該商品の売買を禁止します』
署名:ベルダルク市場監察官 ヘルメス=グランセイル
「えっ……うそ……」
その内容に、ミリエルの顔が青ざめる。
「……昨日の、あの男の名前だ」
カイルが紙を覗き込みながら、低く呟いた。
「完全に狙ってきてるのね。根回しが早いわ……」
ラティナも顔をしかめ、紙を丸めて握りしめた。
◇ ◇ ◇
一方、ベルダルク西区にある石造りの邸宅。その広い応接間では、昨日広場に現れた査察官ヘルメスが、苛立った様子で紅茶を口にしていた。
「……まったく、あの下民ども。貴族専用の魔素水を安売りするなど、秩序の崩壊だ」
毒づく彼に、優雅にティーカップを傾けていた一人の女性が微笑む。
淡い銀髪に、涼やかな瞳。彼の妻──マルグリットである。
「だったら、奪ってしまえばよろしいじゃなくて? その“秩序”ごと」
マルグリットはそう言って、扇子をひらひらと仰いだ。
「……奪う?」
「そうよ。彼らの魔素水を“粗悪品”として市場から追放すれば、あとは別の商会に“改良品”として流すだけ。名前を変えて、値を吊り上げて……ね」
ヘルメスの目が細くなる。
「……やはり、君は恐ろしい女だよ、マルグリット」
「おだてても何も出ないわ、あなた。……ただし、今のうちに手を打たないと、本物の希望が根付いてしまう。そうなれば、我々の価値が揺らぐのよ?」
そう告げるマルグリットの笑みは、氷のように冷たかった。
◇ ◇ ◇
再び広場。
「……誰も、取り扱ってくれない……?」
ミリエルが、途方に暮れた表情で呟いた。
この日、彼女はミリエル印の魔素水を取り扱ってもらおうと、数人の商人に見本を配って回っていた。だが返ってきた言葉は、どれも同じだった。
「すまないが、今はタイミングが悪くてね……」
「もう決まった仕入れ先があるんだ、申し訳ない」
「関わると面倒がありそうでな……」
彼らは皆、どこか怯えたような目で、ミリエルを避けていった。
「そんな……昨日までは、あんなに……」
言葉が途切れる。ミリエルの頬が少しだけ震えた。
その肩に、カイルがそっと手を置く。
「ミリエル。今は、無理に追わなくていい」
「……でも」
「信じてもらうしかない。僕たちの魔素水が本物だって、証明できる方法があるから」
その静かな言葉に、ミリエルの目がわずかに揺れる。
「……うん。ありがとう、カイル」
そして──その時だった。
「おやおや、タイミングがいいな。今ちょうど、お前たちの話をしていたところだ」
皮肉を込めた声が響く。その声の主は、昨日の査察官・ヘルメス。そして彼の隣には、優雅な微笑を浮かべたマルグリットの姿もあった。
「“市場の平穏”を守るのが、我々の役目ですのでね」
ヘルメスが歩み寄り、屋台の棚から一本の魔素水を取り出す。
「これを見てみろ。見慣れた“ミリエル印”だが……これは市場で拾ったものだ。ある者が『効かなかった』と苦情を出した品だ」
「……!」
その瓶は、確かに“ミリエル印”のものとよく似ていた。だが、ミリエルの目はすぐに違和感を察知した。
「それ……私たちのじゃない」
「ふん、言い逃れか? 模造品であれ何であれ、“ミリエル印”として売られていた以上、責任は免れん」
ヘルメスが高圧的に言い放つ。
「そもそも、安物を売っていれば、いずれこうなるのは必然。庶民に魔素水を広めるなど、傲慢の極みだ」
マルグリットも冷たく言い添える。
「ならば──証明してみせよう」
そう言って、カイルが一歩前に出た。
「それが“本物”ではない証拠を、今ここで明かす」
言い切るその声は静かで、だが揺るぎない強さに満ちていた。
火種は、炎へと変わる。
《つづく》
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