第20話『知の眠る場所』
扉を越えた瞬間、空気が変わった。
外とは別世界のように、書庫の中は静寂に包まれていた。
棚が迷路のように入り組み、無数の本がびっしりと並んでいる。天井近くまで積み重なったそれは、まるで書物の森だった。
(……なんだ、この空気)
カイルは思わず足を止めた。
空気は冷たく乾いていて、古紙と薬品の匂いが鼻をかすめる。光源は少なく、窓のない建物の奥では、青白い魔灯だけが微かに灯っていた。
「……誰か、いますか?」
声をかけてみるが、返事はない。
ただ、遠くで“ぱたん”と何かが閉じる音が聞こえた。
(気のせいか?)
足音を殺すように歩いていくと、不意に視界の端に白いものが動いた。
「……っ!」
咄嗟に身構えるカイル。しかし、飛び出してきたのは魔物ではなかった。
「……なに、勝手に入ってきてるのよ」
現れたのは、小柄な少女だった。
銀髪のロングヘア、淡い蒼の瞳。年端もいかぬ外見ながら、その瞳には年齢にそぐわぬ冷静さが宿っている。
古びた魔術服を身にまとい、袖は長くて手が隠れていた。手元には分厚い魔導書が抱えられており、顔を上げたまま、じっとカイルを見上げていた。
「……君が、この書庫の管理人?」
カイルが問いかけると、少女はつんと顔を背けた。
「来客は受け付けていません。退去をお願いします」
「ヴァンスの紹介で来たんだ。魔素水に関する“安定化魔法”を探していて」
その名を聞いた途端、少女のまぶたがぴくりと動く。
「……ヴァンス、ね。あの人、まだ生きてたの。しぶといわね」
「……知り合いっていうか、知り合いだったって言ってた。君の“知識”が頼りになるって」
「まったく、勝手に話を通すなんて……あの人、昔からそうなのよ」
そうぼやきながらも、少女はカイルを値踏みするように見つめた。
「で、あなた……名前は?」
「カイル。カイル・アルスター」
カイルは懐から一枚の封書を取り出し、少女に手渡した。少女はパッと受け取ると、パラパラと流し読みをする。
「これに書いてあるには、“カイル・アルスターという少年が、魔素水を生み出せる”。だって」
「……うん。それが俺だよ」
「正気かしら。ヴァンスのサインは本物のようだけど……」
フィノはじっとカイルを見つめる。懐疑の色は隠さない。
「魔素水は作るものじゃない。摂取するものよ。自然の中にある希少な資源。それを“生み出せる”なんて、常識ではありえない」
「なら、見せるよ」
カイルは静かに答え、掌を上に向け広げる。
両の掌からふわりと蒼い光が漏れ始め、空中に淡い魔素の粒子が集まっていく。
“ちゃぷん”。
小瓶一杯分の魔素水が、掌の上に浮かんで形成された。
フィノの目が見開かれる。
「……本当に、作った……」
彼女は両手でそれを受け取り、慎重に観察する。
「構成粒子が均一……魔力濃度も異常に高い。しかも、精製の揺らぎがない……完全に純粋な……」
「試してみる?」
「……言われなくてもそのつもりよ」
彼女は掌にある魔素水を口に含む。
その瞬間——彼女の身体から、薄く光があふれた。
彼女は目を閉じる。次の瞬間、指を軽く鳴らした。
「『空間整列』」
書庫の棚が、まるで意思を持ったかのようにガタガタと動き、道を空けていく。
積み上がった本が空中を漂い、規則正しく宙に並んだ。
「魔法……それも、見たことないタイプだ」
「そりゃそうよ。実用性がないって烙印を押された、いわゆる“変わり種”の魔法だもの」
少女は肩をすくめる。
「魔素がないから、ずっと“読んでるだけ”だった。でも——あなたのおかげで、ようやく動かせたわ」
彼女は小さく息を吐いたあと、静かに微笑んだ。
「自己紹介がまだだったわね。私はフィノ。フィノ・クレスト。この書庫の管理人で、元・魔導理論研究者の娘」
「フィノ……よろしく」
「こちらこそ。……まったく、どういう風の吹き回しかと思ったら、こんな化け物を寄越すなんて」
「……褒めてるのか?」
「最大級にね」
ふっと、どちらともなく笑いがこぼれた。
「で、本題だけど——“安定化魔法”について、協力してもらえる?」
カイルが尋ねると、フィノは考える素振りを見せたあと、うん、と頷いた。
「いいわ。その代わり……この魔素水、もう少し分けてくれる?」
「もちろん。どれくらい必要?」
「研究用に十瓶くらい。……いえ、最低でも三十。できれば百」
「……せめて二十で手を打とう」
「交渉決裂。三十」
「……わかった。三十で」
「いい取引だったわね、カイル・アルスター。では、あなたの魔素水で、私に魔法を“動かさせて”ちょうだい」
魔導書を抱えて歩き出すフィノ。 彼女の後ろ姿を見つめながら、カイルは思った。
(……本当にクセが強い。でも、嫌いじゃないかもな)
《つづく》
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