第3章 「初めての宿屋」
夕方の街は、昼間の賑やかさが少しずつ影を潜め、橙色の光が建物を優しく染めていた。
レイは、日が傾く中で疲れを感じ始めていたが、それ以上に充実感が胸に満ちていた。
街を案内してくれたガルシアは、そんなレイの様子に気づいたのか、にやりと笑う。
「坊主、今日はよく頑張ったな。初めての街でこれだけ歩き回ったんだ、そりゃ疲れるだろうさ」
レイはガルシアの言葉に微笑んで頷いたが、自分の体に染みついた疲労感を感じるたびに、今日の出来事を鮮明に思い返していた。
初めての街、初めての買い物、初めて知る常識――どれも新鮮で楽しいことばかりだった。触れるもの、見るもの全てが驚きと喜びに満ちていた。
「でも、楽しかったです。こんなにいろんなことがあるなんて思いませんでした」
素直にそう言うと、ガルシアは再び豪快に笑った。
「それでこそ、坊主だ。まあ、今日は一日お前に街の基本を教えたが、さすがにこの時間になると宿を取らねぇと危ない。野宿はさせられねぇからな」
「宿……ですか?」
レイは少し不安げに尋ねた。
宿というものに泊まるのは初めての経験で、どうやって泊まるのか全く想像がつかなかった。買い物だって今日初めてしたのだ。
ガルシアはそんなレイの様子に気づき、安心させるように肩を叩いた。
「心配するな。俺の知り合いが営んでる宿があるんだ。銅貨7枚で泊まれるし、食事も簡単なものがついてくる。ここじゃぁ悪くない条件だぜ」
レイはガルシアの言葉に少しだけ安心した。
師匠と二人で暮らしていた時は、夜は森の小屋で眠るのが当たり前だった。
お金を支払って宿に泊まるなんて、自分にとっては贅沢すぎる気がしてならない。
だが、今日ガルシアの言ったこと全てに間違いは無かった。ならば、素直に従うのが良いだろう。
そう思い、ガルシアを見上げてコクリと頷くと、ガルシアはニコリと笑い、夕焼けの方向に歩きだしたのだった。
ガルシアに連れられて歩くと、街の通りも次第に静けさを帯びていった。
人々は自分の家に戻り、店も商品をしまい、一つずつ布のようなものを被せていく。
レイは歩きながらその様子を興味深そうに見ていたが、同時に少しだけ寂しさも感じた。
「こっちだ、坊主。そこの角を曲がればすぐだ」
ガルシアの声に導かれ、レイは小さな宿屋の前に立った。
看板には「月君の宿」と書かれており、木製の扉には三日月の形をした、古びた彫刻が施されていた。
建物全体が温かみを感じさせる雰囲気を持っていて、どこか懐かしいような気さえした。
見た目は似つかないが、森の小屋の雰囲気に何処か似ているようだった。
「いらっしゃい!」
宿の主人は優しそうな中年の女性で、ガルシアを見ると親しげに手を振った。
そしてその後ろにひょっこりとついている少年に目を見やる。
「ガルシア、今日はまた珍しいお客さんを連れてきたんだね。何用だい?」
「やぁカリナ、この坊主が初めて街に出てきたもんでな。しばらく世話になってやってくれ」
レイは少し緊張しながら前に出て、頭を下げた。
「あ、あの……お願いします」
カリナと呼ばれた女性はじっとレイを見つめてから、にこりと微笑み、優しい声で答えた。
「大丈夫、ゆっくりしていきな。銅貨7枚で、小部屋一泊と簡単な夕食と朝食がつくからね」
レイは財布から銅貨を取り出し、慎重に7枚を数えて差し出した。
宿屋の中ではあったが、ガルシアの教えを思い出しながら、なるべく目立たないようにお金を扱う。
カリナは笑みを浮かべながら受け取り、「どうもね」と言って部屋の鍵を渡してくれた。
◇
部屋は2階の1番奥だった。
カリナに案内されて部屋を覗いたレイは、思わず息を飲んだ。
木の床に小さな机、そしてベッドに柔らかそうな布団が敷かれた簡素な部屋だったが、山の小屋に比べれば豪華に思える空間だった。
「すごい……ふかふかの布団だ……」
彼は布団にそっと触れてみた。手のひらが沈み込むような柔らかさに、驚きと同時に少しだけ違和感を覚えた。
今まで硬い藁の上に寝ていたせいで、この贅沢な感触に慣れることができないのだ。
「豪華ってわけじゃあ無いけれど、布団の柔らかさにはこだわってるよ。気に入ってくれたならよかった。
また後で夕食を持ってくるからね」
じゃあ、と告げてカリナは部屋の扉を閉めた。
レイは部屋に1人になる。
背負っていた荷物を下ろし、レイは机の上に古びたノートを広げた。
このノートは、昔から師匠の教えや魔法の記録を綴ってきた大切なものだ。
今夜は、そのノートに今日教わった様々なことを、忘れないうちに書き留めていくことにした。
「スリに気をつけること……お金は見せないこと……傭兵は、お金をもらって戦う人のこと……」
一つ一つ、今日の出来事を思い返しながら、ノートに丁寧に記していく。
レイにとって、今日の経験はすべてが新しく、驚きに満ちていた。
普段、森の小屋で同じような生活を繰り返していた彼にとって、こんなに充実した一日は初めてだった。
しかし、ふと手が止まる。
楽しかったことの裏側に、微かな罪悪感が心に影を落としていた。
「……僕、楽しんでばかりでいいのかな」
師匠を探すという目的を持って街に出てきたはずなのに、今日の自分はその使命を忘れ、楽しんでしまっていた。
レイはペンを握りしめ、心が少しだけ重くなるのを感じた。
◇◇
数刻が過ぎた後、カリナが夕食を部屋まで持ってきた。
メニューはパンに野菜の入ったスープ、ホットミルクだった。小屋暮らしでも馴染み深い、定番メニューだ。
小屋から出てもこれは変わらないのだな、と少し安心した。
カリナが料理を置いて出て行った後、手をつける。
スプーンでスープを掬い、一口啜る。
それはレイの作るものとも、メイベルが気まぐれに作るものとも違う、少し甘い味がした。
レイは、スープは作る人によって味が変わるんだということを初めて実感した。
パンも想像していたより柔らかい。
知っているメニューなのに、知らないことだらけ。
そんな事実がレイにはとても新鮮だった。
「美味しいなぁ……」
ホットミルクを飲みながら、ポツリと呟いた。
数刻前に自分が考えた問いについて、思考を巡らせる。
楽しんでいていいのか?
師匠がいなくなって、師匠を探すために街に出てきたのに、自分一人で楽しんで。
胸がチクリと痛む。
今まで育ててくれた師匠に、何の恩返しもできないうちに、師匠はいなくなってしまった。
ここ最近は少しはなくなったと思っていた悲しみ、寂しさ、孤独感がレイの心を覆った。
きっとその感情は無くなったのではなく、考えないようにしてたのだ。
「でも……これは必要なことだ」
レイは自分に言い聞かせるように呟いた。街で生き抜く術を学ばなければ、師匠を探すことすらできない。
ガルシアが教えてくれたことは、決して無駄ではない。
自分の力だけではどうしようもなかった不安が、ガルシアやカリナのおかげで少しずつ薄れている気がしたのだ。
「明日も頑張ろう……もっといろんなことを知って、強くなって、師匠に会いに行くんだ」
ホットミルクを飲み終わり、コップを置いたレイは、再び布団を見つめた。
柔らかすぎる布団は、どこか落ち着かなくて不思議な感覚だった。
小屋で使っていた硬い藁の方が、自分にとっては馴染み深い。
しかし、ふと布団に体を預けてみると、思ったよりも心地よかった。
ふわふわとした感触が体を包み込み、疲れた体と心を優しく癒してくれるようだった。
「柔らかい……こんな布団、初めてだ」
その柔らかさは、レイの緊張をほぐし、少しずつ安心感へと変わっていった。
心が温かく包まれていくような感覚に、彼は目を閉じた。
部屋の中は静かで、街の喧騒が遠くにかすかに聞こえるだけだった。
レイは布団に包まれながら、今日一日の出来事をもう一度思い返した。街に出るまでは、不安と恐怖で胸がいっぱいだったはずなのに、今はなぜか明日への期待で心が満ちている。
「師匠……僕、頑張るね」
その呟きは、誰に聞かせるでもなく、小さな部屋の中に消えていった。
レイは、自分が前に進んでいることを信じたかった。
小さな冒険の一歩が、確かに自分を成長させてくれると感じていた。
やがて、布団の柔らかさがレイを優しく眠りへと誘った。
長い一日を終え、彼は安心に包まれながら、穏やかな眠りについたのだった。