第2話 「初めての街へ」
山を下りて初めて街に足を踏み入れたレイにとって、その景色は驚きの連続だった。
住んでいた小屋から街までは、半日ほど歩く距離にある。
山道を抜け、険しい坂をいくつも下りてきた。普段修行で山道を歩き回っているとはいえ、流石の彼も少し疲れてはいたが、それ以上に初めて見る街の風景に目を奪われていた。
活気に満ちた人々が忙しそうに行き交い、色とりどりの商品が並ぶ露店が通りを埋め尽くしている。
人々のざわめき、香辛料の香り、商人たちの威勢のいい声――その全てが、レイの心をわくわくさせた。
「す、すごい……こんなにたくさんの人がいるなんて……」
一歩踏み出すたびに、見たこともない光景が次々と目に飛び込んでくる。
レイは思わず立ち止まり、キョロキョロと周りを見渡した。しかし、そんな無邪気な行動が、すぐに危険を引き寄せることになる。
「おい、タラタラしてんじゃねぇよ」
突然、背後から低く響く男の声が聞こえた。驚いて振り返ると、そこには筋骨隆々の男が立っていた。
日焼けした肌に無骨な顔つき、そして重厚な剣を腰に下げている。
その男は、レイのぼんやりとした様子を鋭い目つきでじっと見つめていたが、やがて豪快に笑った。
「ガッハッハ、なんだ、ただの小僧じゃねぇか。見ねぇツラだな……こんなとこでボーっと、何してんだ?」
レイはその男の見た目から一瞬身構えたが、悪い人ではなさそうなことを認識し、男に向き直った。
そしてとあることを思い出し、すぐに慌てて服の裾を引っ張って左手首を覆った。
タグがないことを見られてしまえば、どんな人間でも何をされるか分からない――そんな恐怖が彼の胸を締めつけた。
無加護者だと知られたら、街の人々にどんな扱いを受けるか想像もつかない。
「い、いえ……ただ、道が分からなくて……」
男はレイの不自然な動きを見て怪訝そうに眉をひそめたが、すぐに興味を失ったのか、腕を組んで頷いた。
「ふむ……まあ、道に迷っただけか。まぁ、見るからに街のガキじゃなさそうだもんな……」
レイが困惑した顔で頷くと、男はため息をついて呆れたように頭を掻いた。
「まったく……こんな場所でそんな無防備にしてると危ねえぞ。俺はガルシアってもんだ。見たところ、お前はこの街のことを知らなそうだし、少しばかり手助けしてやるよ。なぁに、俺は街の傭兵をやってる。怪しいモンじゃぁないさ。」
そんなガルシアの言葉に、レイは本当に久しぶりに人の温もりを感じた。
じわりと涙が滲みそうな目を擦り、遠くで「ついてきな!」と言うガルシアの背中を、駆け足で追いかけた。
◇
ガルシアと一緒に歩きながら、レイは街の基本的な知識を教わっていた。
知らないことだらけでキョロキョロと付近を見回しながらも目を輝かせるレイを横目に、ガルシアはところどころでレイの異様な無知さに驚いていた。
「(まさか、傭兵も知らないとは……)」
ガルシアはレイに、傭兵であるということを名乗ったが、それが何かすら知らないようだった。
「(悪いヤツらに目をつけられる前に、しっかり教えてやらねぇと……)」
超がつくほどのおせっかい焼きなガルシアは、心の中でそんな決意を宿したのであった。
◇
「まず坊主。スリや詐欺師には十分注意しろ。街には金目の物を狙うチンピラがうようよしてる。お前みたいな田舎者は特に狙われやすい」
ガルシアはビシッとレイを指差す。それにびっくりしてレイは困惑した表情を浮かべたが、田舎者の世間知らずであることは否定できないため、うんうんと頷き、話の続きを聞いていた。
そんな中、ガルシアはふとレイの顔をじっと見つめて、溜め息をついた。
「それにしても……お前、本当に何も知らないんだな。どこから来たんだ?山にでもこもってたとしか思えねぇが……」
「えっと……まあ、そんなところです」
レイははぐらかすように答えた。
師匠と一緒に森の中で暮らしていたことを説明すると、とても長くなってしまう。それに、そんな不便なとこに住んでいた理由も答えられない。
「それにしても、坊主。お前、さっき堂々とカバンのなかを開けていただろ?あんなことするなよ。街中で金や貴重品を見えるようにするのは、盗んでくれって言ってるようなもんだ」
「えっ、そうなんですか?」
レイは驚いて目を丸くした。
「ああ、当たり前だろう。大切なモンは大事に隠しておけ。外で出す時は周りをよく見て、誰かに見られないようにするんだ。まったく、こんなことも知らねぇのか……」
ガルシアは再び呆れたように溜め息をつき、レイは顔を赤くして「すみません」と謝った。
自分の無知さに恥ずかしさを感じたが、それと同時に、街の危険さを改めて思い知った。
ガルシアはレイの無知さに驚きながらも、それに慣れてきていた。
知らないと分かったのだろう、親切にお金の価値についても説明してくれた。
ガルシアはレイを近くの露店に連れて行き、いくつかの商品を指さしながら話した。
「例えば、このパンは一個銅貨一枚だ。銀貨一枚は銅貨十枚分の価値があるから、パンを十個買えるってことだ」
レイは初めてその価値を理解し、目を輝かせた。
「すごい……お金って、すごく大事なものなんですね」
と感心した。
「お前、金をいくら持ってるか知らねぇが、街の生活は思ったより金がかかる。みだりに使うとすぐに無くなるぞ」
ガルシアの忠告に、レイは改めて自分の財布を握りしめた。
師匠から渡された銀貨は、決して無駄遣いしてはいけない貴重な物であると悟った。
◇
ガルシアに簡単にお金の扱い方を教わった後、レイは初めて物を買うことに挑戦することになった。
露店の一つに近づくと、そこには色鮮やかな果物が並んでいた。特に、みずみずしいリンゴが目に留まった。
ほかの果物は食べたことがないが、リンゴは何度か師匠が持ってきたことがあったからだ。
「これ……買ってみたいです」
レイは緊張した様子で、店主に話しかけた。
女店主は優しく微笑み、「銅貨一枚だよ」と言った。
レイは、周囲に誰も怪しい人が誰もいないことを確認しながら、銀貨と銅貨の入り混じる財布から、慎重に銅貨を取り出して渡した。
「ありがとう、坊や。美味しく食べなね」
と店主はレイにリンゴを渡し、レイはそれを手にして不思議そうに見つめた。
たった一枚のコインで、こんなに立派な果物が手に入るなんて――その事実に、彼は感動を覚えた。
レイが嬉しそうにりんごを抱え、ガルシアの元に戻ると、ガルシアはレイの頭をわしわしと乱暴に撫で回した。乱暴だが、温かい。
「坊主、よくやったな。これでお前も街の営みの一つだ」
うんうんと頷きながら、ガルシアが笑う。
その笑顔につられて、レイも自然と笑顔になった。