4月10日 曇り 最初の出会いとトマトの話
弥生と呼ばれた黒髪メガネ大学生は、訝しげな表情で、ただし決して声のボリュームは上げずに聞き替えした。
「西園寺よ、確認させてくれ、つまり君の言いたいことは、土は神奈山県だが、育ったのは百葉県のトマトがあった場合、標品表示はどちらの県にした方がよいかということか?」
「その通りだ弥生よ。確かに育った場所は百葉県だ、だがしかし、文字通り土台は神奈山県のトマトなのだ。トマトとしては神奈山県の土で成長しているんだ。これは何県産なんだ?」
吹田は手に持った荷物のひもをそっと手放した。これは確かに興味深い話だ。
トマトとしては根を生やしているのは神奈山県の土なわけだが、成長に必要な空気は百葉県から摂取している。2つの県がこのトマトには関係しているのだ。
だが、甘いな大学生2人よ。これは採取された場所を正とするべきだ。
よってこの複雑なトマトは百葉県産だろう。
吹田は心の中でフッと勝ち誇ったように笑った。決して表情には出さずに。
「西園寺、これは百葉県産だろう。なぜならトマトが実を付けたのは百葉県だ。であるなら最終的な結果が優先されるはずだろう。確かに神奈山県というのは気になるが、農家の視点に立てば簡単な問題だ。」
弥生は表情を崩さずにそう答えた。
「確かに私もそう考えた。だが、仮に神奈山県産のトマトが百葉県産のトマトよりも10倍の価格で売れるとしたらどうだ?農家の視点では、神奈山県の土で育っているのだから神奈山県産と表示したくなるのではないか?」
『それは産地偽造では?』吹田は思わず声に出しそうになった。
まさかこの大学生、闇の農作でも始めるべきなのか?
今まさに犯罪が生まれる瞬間に立ち会っているのではないか?
吹田は勉強そっちのけで、警察へ通報したことを想定し、大学生の特徴をさりげなく記憶していった。
「西園寺、確かにそうだ。第三者からしたら、より得をする方を取るに決まっている。」
「ではトマトから見たらどうだ?」弥生はニヤリとしながら続けた。
「トマトはどちらで育ったことを自慢すると思う?」
「それはもちろん、神奈山県の方が価値が高いのであれば、そちらを採用するのではないか?
…いや、待てよ? そもそも、これは感情を持たないトマトから見ると至極どちらでも良い話ではないか?トマトは単に実をつけ、食べられることで種を遠くに運び、子孫に残そうとしている、重要なのは産地ではなく、実をつけるまで成長出来たという結果だ。」
「そうなんだよ弥生!」
間髪入れずに西園寺が頷く。
「トマトは種を運んでくれるくらい美味しいトマトに育てば問題ない。これって実は人間もそうなのではないか?」
『西園寺よ、それはどういうことなのだ?』吹田はいつの間にか二人の会話の参加者のように口調を合わせていた。
勉強も通報も、もうしていなかった。
「なるほど、西園寺、それはつまり…」
弥生は何かを閃いたかのように図書館の天上を仰ぎながら言葉を続けた。
「今の俺たちのように、第三者からは高校や大学が産地のようにそれが評価の基準として機能することがある。
だが、俺ら自身は産地を借りているだけてあって、美味しいトマトになるように努力しなければならないという事だな。」
『最初の産地という所から随分と飛躍したな』吹田はようやく話に一区切り着いたと思い、長く中断していた勉強を開始した。
確かに産地は時にブランドのように機能する。
『〜県産のトマトであれば美味しいに違いない』と思い、高いお金を出してまで、手を出すこともあるだろう。
でも、それは同時に期待値を上げることにもなる。有名な産地のトマトを、いざ1つ食べたら美味しくなかった時、人はひどく落胆し、残りを捨てることもありうる。
ましてや自然界であれば、重視されるのは産地ではなくトマト自身の美味しさだ。
神奈山県の豊かな土地と百葉県の澄んだ空気はトマトを大きく育てる手段であり、産地は目的ではない。
もちろん、感情を持つ人間に高い値段で選ばれるためには、産地は時に重要なのだが…
吹田は何かスッキリしたように勉強を続けた。
ひたすら英単語を詰めていた苦痛な時間を少し忘れさせる、いいリフレッシュになった。
「ところで西園寺。」
弥生は何故か神妙な面持ちで口を開いた。
「お前、トマトは世界でいちばん嫌いなのではなかったか?」
吹田は思わず空を見上げた。
『トマトよ、俺が西園寺の分まで食べてやるからな』
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4月10日 曇り
本日の勉強項目
英単語の暗記
英文法のおさらい
英熟語の暗記
計7時間
帰りにトマトを買って帰る。少し産地を気にしながら。