榮華之夢
「南周」
これが私の新たな呼び名だ。
館娃宮に集められた各国の美女――と自分で言うのは憚られるけど一応はそうした触れ込みで集められた一人だ――の内、同じ周の姓が二人いたので淮河の畔の村から来た方が「北周」、越の苧蘿村から来たこちらは「南周」となった。
もう展翅ではないし、もちろん翔子――これが二十一世紀の日本で生きていた時の名だ――でもない。「南から来た方の周さん」だ。
私たちの仕事は大王様の行くところに待機して昼間は宮殿の池で泳いだり広間で舞ったり夜は宮殿に集まった高位高官の殿方のお酌をしたりするものだ。
むろん、大王様のお目に留まれば床を共にする役目もあるが、幸か不幸か、今のところ、私はそのようなお勤めには与っていない。
大王様にとっては「宮殿に集めた諸国の美女たちの一人」という家財に埋没した一部であり、「寵姫の西施の背後に控えるその他大勢の一人」という背景なのだ。
個人としては村人というか村娘から宮殿の侍女に大出世したわけだが、この世界全体からすればモブだ。
元の未来――この春秋時代の中国からすれば二千五百年も先の世界だ――の日本でも単なる無名の子持ちの主婦でゲームでいうところのモブキャラだから、それが私の器というか力量なんだろう。
絶世の美女である西の施さんのバックで踊っているモブの南の周さん。
ブスで笑い者になる東の施さんより当時の女性としてはもちろん恵まれているけれど、名前が残るような個性などない。
甘いけれどどこか鼻の奥をツンと痛ませる香りを放つ蓮の花咲く池の水に半身は浸したまま、岸辺の岩に凭れて周りに気取られないように息を吐く。
大王様がお庭を散策されるので紗を一枚羽織って池に入ったものの今日はほんの少し水が冷たい。
薄物一枚で池で泳ぐか、盛装して酒や茶の給仕をするか。
これは宮女たちでも持ち回りだが、こんな風に微妙な天候の日に池に入るお役目をやりたがる人は少ないので結局は立場の弱い人間への押し付けになる。
宮女の中でも地元の呉国の出身の人たちがどうしても立場が上になるので、私のような他国でしかも長らく敵対関係にある越国の、かつ庶民の出で何の後ろ盾もない、おまけに年も幼い私が最下層ということになる。
池で泳ぐといっても髪を結い上げて朱塗りに花の形を透し彫りした簪を挿し、耳には白玉の耳環を着けた頭を水に漬けるわけにいかないので、顔はしっかり上げて纏った紗が水面に浮かび上がるようにして、服を蓮の葉や茎に引っ掛けないようにして水面下で低速バタ足して進むのが実際である。
その間も顔は楽しげに笑っていなければならない。
これを大王様がお庭を散策して茶菓を楽しむ二、三時間ずっと続けるのだから、重労働だ。
――バシャッ!
不意に顔に飛沫が掛かる。
「鈍っ臭え越人だ」
こちらに届くくらいの小声で呟きながら器用に泳いで池を遠ざかっていく、私と同じように髪を結い上げてこちらは灰青の瑪瑙を口づけた番の鴛鴦の形に彫り込んだ簪を挿し、翠が勝った玉の耳環を着けた後ろ姿にまたゲンナリする。
淮河の畔の村から来たもう一人の周さんこと「北周」は自分は楚人と言って憚らず、他国、特に越から来た私のような朋輩のことは目の敵にする。
年の頃は十六、七でこの世界の自分より二、三つ上だろうか。
宮女たちの中でも背がすらりと高く長い手足を持ち、滑らかな卵色の肌をした小さな顔に一際切れ長く端のやや吊り上がった目、やや尖り気味の顎が印象的な容姿だ。
話し出すとあまり教育は無いと判るのが難だが、そもそも口を開くことは少ない。
しかし、たまに言葉を発する時には大抵こんな風に毒を含んでいる。
所詮はこの人も私もこの世界での貧賤の出であるし、大王様の寵愛争いをするなんてご大層な立場にいるわけでもないのだから、普通に仲良くした方が彼女にとっても過ごしやすいのではないかと思う。
だが、簪の鴛鴦を陽射しに鈍く光らせながら向こう岸に真っ直ぐ泳いでいくこの娘にとってはそうではないだろう。
ふと、庭の向こうの見晴らし台から柔らかな琴の音色が響いてきた。
これは西施様が弾いていらっしゃるのだ。
そちらに目を移すと、螺鈿細工の鳳蝶の簪を挿した艶やかな黒髪の後ろ姿が見えた。
黄、青、赤、紫、緑……。
琴を奏でる上半身が動く度に簪の鳳蝶も照り返す色を変え、また、豊かな黒髪に生じた光沢も滑らかに移っていく。
包み込むような優しい音色と共に琴を奏でる後ろ姿全体から光が溢れるようだ。
この人の姿を目にする度に「美人」とか「綺麗」というよりまず「人間離れしている」と感じる。
装いはむしろ簡素で侍女の私たちの方が却って派手派手しいくらいなのだが、根本的な造りが違うというか、身に纏う空気が異なるというか、一般に美しいとされる人でも西施様の隣に立てば背景と化してしまうのだ。
つと、七割の黒と三割の朱の二色から成る影が呉王の寵姫の姿を覆い隠すようにして通り過ぎる。
黒揚羽だ。
それとも、その近似種や原種的な一羽だろうか。
素人の私には区別などつかない。
蝶の方でも私たちの越人、呉人、楚人、あるいは日本人、中国人といった識別などできず、一様に「ヒト」というか「巨大な外敵」という認識でしかないだろう。
こちらの思いをよそに琴の音色が流れる中、蝶は黒と朱を配した翅を翻して薄紅の蓮の花と青緑の実のあわいを飛んでゆく。
蓮池の向こう岸で一息ついていた北周もふと気付いた風に灰青の鈍い光を放つ鴛鴦の簪の頭を振り向けた。
卵色の肌をした全体に薄手の小さな横顔が去っていく蝶を見送る。
そうすると、吊り気味の目にも開きかけた小さな口元にも幼さが浮かび上がった。
北を目指して軽やかに飛び去っていく蝶と宮殿を囲む高い塀。
それらを見やる細く長い頸と水から抜き出た肉の薄い肩の後ろ姿はどうにも寂しい気配が立ち昇ってくるのだ。
自分もきつい気性の、明らかにこちらを嫌っているこの子(といってもこの世界では二、三つ年上だが)は苦手だ。
だが、憎み切れないのは、他人が見ていないと思っている時のこの子がどういう顔をするか知っているからだ。
「この前はまだ蕾だったが今は蓮の花盛りだ」
「見事ですね。芳い香りがこちらまでします」
不意に耳に飛び込んできた会話に私も池の向こうの北周もビクリとして振り返る。
大王様――現代日本人に馴染んだ言い方に即せば呉王の夫差だ――と西施様が連れ立って歩いてくるところであった。
――バシャッ!
向こう岸の朋輩はどこか固い笑顔を張り付けてこちらに泳ぎ始める。
私もそうすべきか。
迷っている内に視野の中で二人の姿が大きくなる。
虹色に輝く蝶の簪を頭に挿した西施様の方が黒玉じみた大きな双眸をふっと細めた。
「こちらの人魚さんは私たちと同じ苧蘿の出ですわ」
さりげなく出てきた“私たち”という言葉に妙に胸がどきついた。
大王様もこちらに眼差しを向ける。
「そなたたちと同郷の者か」
隣の発光するように白い肌の西施様に対しどこか鞣革じみた滑らかに浅黒い肌をした呉王夫差はこちらも円らな二皮目を細めた。
そうすると目尻に柔らかに刻まれた皺でもう若くはない人と知れる。
この人が二十一世紀の日本というかこの時代の基準でも美男子に該当するかは疑問だが、西施様と並んでも全く卑しく見えないという点で犯し難い風貌だ。
「南周にございます」
何となく名乗らなくてはいけない気がするので口にはしてみたが、自分の声がいかにもぎこちなく響くのを感じた。
「そうか」
西施様や今は居ない鄭旦様――会ったこともないのにこんな敬称を付けるのも妙な話だが、西施様や大王様に連なる人だと思うと何となく呼び捨てる気にならない――と比べても稚く、また恐らくは大きく見劣りするであろう侍女に頷く大王様は飽くまで穏やかだ。
決して“何だ、お前は醜い、下がれ”とか“同郷の娘というのに期待外れだな”などと言ったりはしない。
「そちらは」
大王様は少し離れた場所にやや紫に変じた唇に固い笑顔を貼り付けたまま体を浮かしているもう一人の人魚に問い掛けた。
「私は、北周にございます」
この子――といっても今の世界の私にとっては年上だが――は改まった口調になると、観ているこちらがハラハラするほど固い声になるのだ。
「楚の国より参りました」
まるでそこまでが名前のように付け加えた。
「そうか」
目尻に柔和な皺を刻んだままの笑顔で大王様は大きく頷いた。
「池の中の方が陸より平和であるな」
全員が笑顔のまま水面の上を微かに冷えた風が吹き抜ける。
ふと西施様が白く指も繊かに長い手で着物の胸を押さえた。
滑らかに白い面の眉間に切なげな皺が刻まれる。
「また痛むか」
大王様も痛ましげな面持ちで西施様の肩を抱く。
浅黒いその手は肌白く骨細い妃の絹で織られた衣の肩に置かれてはどこか獣じみて大きく見え、眺めるこちらの胸が奇妙にどきつくのを感じた。
「少しですが」
飽くまで澄んだ声で語りつつ苦しさを堪えて笑おうとする面持ちがまた観る者の胸を締め付ける。
「まだ風が冷たいからな」
まるで生まれたばかりの赤子を風から守るように愛妃の肩を抱いて大王様は立ち上がってその場を後にする。
「そなただけは大事にせねばならぬ」
後ろ姿になった大王様の顔はもう見えないが、その静かな声には深い苦みが潜んでいた。
「人魚さんたちも風邪をひかないように」
振り返って西施様はまだどこか苦しさを秘めた面持ちで微笑んだ。
――あたし、きれい?
顔をクシャクシャにした東施の大娘さんを何故か思い出す。
絶世の美女西施と村一番の醜女東施で面差しは似ても似つかないが、真っ直ぐで濁りのない瞳や温かな空気は不思議と似通っているのだ。
蓮の香りが池に取り残された私たちの間を漂い過ぎていく。
*****
「寒い」
乾いた布に体を包んで唇をまだ紫にした北周は消えかかった火に向かって手を擦り合わせる。
こちらもいちいち口にはしないが体が冷えるのは一緒だ。
「あ……」
向こうから現れた人影に思わず口から声が漏れる。
小さな体に薪を背負ってきた、粗末な身形の子供。
「薪をお持ちしました」
象牙色の肌にふっくりした頬をした面差しもいとけない声も玲羽そのものだ。
「遅んだよ」
向かいの北周が苛立った声を飛ばす。
自分より遥かに背高い相手の言いかけに子供はビクリと荷物を背負った小さな肩を震わせた。
「早くくべなっ」
怒鳴るだけでわざわざ動くのは寒いのか布で包んだ自分の体をより強く抱き締める。
「はい」
まだ七つにも届かない幼児は体の半分以上はありそうな量の薪を背中からあたふたと降ろす。
「火の扱い、大丈夫かな?」
こちらは西施様に倣う風に極力穏やかに声を掛ける。
「大丈夫です」
いとけない声に反して手慣れた様子で薪をくべる。
パチパチと火がまるで蘇ったように勢いを取り戻した。
初夏の暮れかかった暗がりの中で私たちの集まった場所だけが朱色の灯りに照らし出される。
「お名前、何ていうの?」
この世界でこの子は私の子ではない。
相手の目には自分より少し年上で身分もやや高いお姉さんといった立場だろう。
そうは知っていても、やはり他人とは思えなかった。
「翰児って呼ばれてる」
「そう」
この人懐こい、笑うと両の頬に小さな笑窪が刻まれる顔は玲羽だ。
頷く私に北周は鼻で嗤う。
「お母さんみたい」
パチパチと火が燃え上って、白い蛾が炎を求めて寄ってきた。