04 うわさ話
こういう話がある。
その男は荒野の真ん中にいた。彼は商人で、町から町にかけて移動している途中だった。夜になったので道の脇で野営をしていると、そこに魔物が現れた。ライオンのような姿をした、恐ろしい魔物だ。
彼は魔物に襲われないように三人の護衛を連れていた。だが、魔物の力は想像以上に強大で、あっという間に彼らはやられてしまった。みな腕に自信のある戦士たちだった。
護衛を失った彼は逃げようとする。だが恐怖で竦んでしまい、思うように動けない。彼は様々な土地を渡ってきたが、戦いはいつも雇った戦士に任せていたので体力はあまりなく、魔物に立ち向かうだけの勇気も持ち合わせていなかった。
ライオンのような魔物が口を開き、その獰猛な牙で彼に喰らいつこうとした時、眩い光がどこからともなく降り注いだ。星々の浮かぶ空を昼のように明るく染め上げながら、純白の閃光は魔物の体を貫き、ほんの一瞬で跡形もなく消し飛ばしてしまった。
光が止み、夜の荒野に暗闇と静寂が帰ってくる。商人の男が恐る恐るといった様子で空を見ると、白い衣を纏った誰かが浮かんでいた。遠すぎて顔立ちなどははっきり見えないが、そこには確かに人が佇んでいたのだ。その白い『人』は背中から生やした大きな翼で空の彼方へ飛び去った。
「……そんなわけで、俺の故郷では羽の生えた人間に助けられたって言い伝えが残ってる。ラザム教の人らが来る前から語られてる話だけど、まあ天使のことなんだろうなって感じはするよ」
褐色肌の店主が話し終える頃には、リュードの目の前に置かれた料理はもう半分も残っていなかった。彼が食べているのはチェブ・ヤップという、皿に盛られた米の上に肉と野菜の乗った料理で、この店を経営するジェイゴという男の故郷で作られる米料理である。パラパラとした長粒の米はヤギ肉の煮汁で炊かれており、口に含めばヤギ肉の持つ特有の臭みがじわりと広がる。
リュードがこの店に来たのは昼食をとるためもあるが、どちらかと言えば天使について何か聞き出せないかと思ったからという方が理由としては大きい。そして、その狙いは達成できたと言える。
「お前が見たっていう天使はどんな翼の色をしてたんだっけか」
「赤」
「赤か、やっぱり天使にも個人差とかあんのかね。じゃあ青とか緑の天使もいるんじゃねえか?」
厳密には赤と黒の二色で構成された翼だが、あの配色を口頭で説明するのは少しばかり面倒だ。
「翼の色にはあまり興味ないかな」
「そう言うなよ、せっかく本物の天使ってやつを見れたんだろ? もっとこう、ありがたみとかないのか? 助けてもらったんだから少しはあるだろ」
「ないね」
リュードはそう言い、一口大に切られたヤギ肉を米と一緒に頬張った。
「僕は彼らを信仰していない。それに僕はバスター、魔物と戦うギルドの人間だ。目の前で獲物を奪われたことに対して感謝の気持ちなんか湧くものか。僕に芽生えた感情はせいぜい『なんだあいつ』と『邪魔しやがって』だ」
「そんなもんかね」
ジェイゴはリュードの若干冒涜的な物言いを特に気にも留めずに言う。
「俺だったら魔物から守ってもらったりしたら天使のことを本気でありがたいと思うぜ。なんせ命が助かってるんだから。なんだったらその場で入信してやってもいい」
「そうやって信者を増やしていくのが彼らのやり方かもしれない。ギリギリのところで救ってみせてこう迫るんだ……『次も救われたいならわかってるよな』って」
そう言って二人は笑う。この場にラザム教を信仰する人でもいれば卒倒されそうな会話だが、ジェイゴの店に集まるのは宗教圏の外の国から来た人々か、そこをルーツとしたいわゆる『現地生まれ』が主な客層である。決して信者たちを締め出しているわけでもないはずなのに、いつの間にか自然と偏りが生まれてしまっていた。今この店に来ている客もリュードをはじめとした『肌の白くない』人間が多く、彼らの会話に眉をひそめることはあっても、二人の間に割り込んできて本気で諫める者はいないだろう。とはいえ、この街には肌の色に関係なくラザム教の信者はいるし、この店に入ってくることもあるので、いつ彼らに聞かれてしまうか分かったものではないのだが。
リュードが皿に残っているチェブ・ヤップを食べきった頃、一人の男が店に入ってきた。男は今リュードが座っているカウンター席の二つ隣の椅子に腰を下ろし、ジェイゴと「よう」「おう」などと軽い挨拶を交わした。
「喉がカラカラだ、ココナッツ・ウォーターを頼む」
「残念だが今日は出せない」
「そりゃあどういうこったよジェイゴ。まさかもう全部飲まれちまったのか?」
「ココヤシの実が一個も入ってこないんだ」
「あんなのその辺にいくらでも転がってるもんじゃないのかよ」
ココヤシの実はその辺に転がっているものではない。
ただ、ココナッツ・ウォーターはこの店の定番メニューだ。数に限りがあるとはいえ実自体が最初から無いというのは珍しい。
リュードもつい気になって訊ねてみる。
「何かあったみたいだけど」
「ああ……いつもなら農家と話をつけてあるから、採れた実をいくつかこっちに運んでもらうようになってるんだが……」
ジェイゴは少しだけ言いにくそうだった。
「なんでも、うちに運んでくる途中変な奴に襲われて実を全部切られちまったらしい」
リュードは二つ隣に座る男と顔を見合わせる。
男が言った。
「切られたって、どんな感じに」
「そりゃもうスッパリ、綺麗に真っ二つさ」
「そいつはすげぇ!」男は感心するように笑う。
「笑いごとじゃねえっての。そのせいでヤシの実は全部ダメになっちまったし、だからココナッツ・ウォーターは出せなくなったんだぜ」
「なるほどそうか、やっぱ許せねえな」
拳を使ってカウンターテーブルを軽く叩く男を横目に、リュードが言った。
「それで、襲われた農家は無事だったのか?」
「ああ、無事だぜ。なんかヤシの実だけ切ったらそのままいなくなったみたいだ。金を盗んでいったとか、そういうのもない」
「なんじゃそりゃ」そう言ったのは隣の男だ。「切るだけ切ってどっか行くなんてどうかしてるぜ、悪霊にでも取り憑かれてるんじゃねえのか?」
「かもな」
ジェイゴたちは笑った。
「悪霊……ねえ」
二人をよそに、リュードは小さく呟く。