8.真里愛
田中真理愛は、現在小学6年生である。
彼女は、小学校に入学してすぐに、クラスメイトの男子から、些細なからかいを受けた。
「こいつ、何にも喋らねえ」
新しい環境に慣れず、緊張して、誰に話しかけられてもうまく返答する事が出来なかった。
それを見た一人の男子が、全く悪気なくそう大声で言ったのである。
だが、それだけで、真理愛の無垢な心は深く傷ついてしまった。
授業中、教師が黒板の問題を解かせようと真理愛を指名しても、彼女は、起立したまま俯いて両手の拳を握りしめ、無言を貫いた。
自分の意思で、喋らないわけではなかった。
本当はとても、とても喋りたい。
でも、焦れば焦るほど、言いたい言葉が口元で消えてしまうのだ。
真理愛はそのうち、学校での大半を、俯いて過ごす様になった。
肩まである黒髪が、俯くことで顔を覆い隠す。
その姿は、有名なホラーを連想させた。
「貞子が来たー!」
真理愛が登校すると、クラスの男子が騒ぎ立てる。
最初は女子たちも、真理愛を庇っていたのだが、何を言ってもぐっと貝のように固くなる彼女にやがて愛想を尽かした。
もうそうなると、教室に真理愛の居場所はなくなった。
仲のいい友達ができるといいな。
その友達が、自分の大好きな漫画を、同じように好きだったらもっといいな。
そんなささやかな期待を胸に抱いて入学したのに、現実は何と残酷で、無慈悲なものなのだろう。
(貞子)と不本意なあだ名をつけられても、トイレで苦い胃液を吐こうとも、毎日自分を奮い立たせ、王の墓に石を運ぶ奴隷の様な足取りで登校し続けた。
真理愛は頑張っていた。
両親は、学校に行く時間が近づいてくると、深呼吸を繰り返して不安そうにランドセルを担ぐ彼女に、もし、しんどいなら、少し休むかい?と尋ねた。
しかし、真理愛は本能的に分かっていた。
一度休んだら、もう、学校へ行けなくなるかも知れない…。
小学校1年生で、不登校になる。
それは、幼い彼女にとっても、何とか避けたい不名誉なことのように思えた。
教室では、ほとんど俯いて過ごした。
自分でも本当に嫌になるが、まるで、全身が高性能のセンサーみたいに敏感になり、遠くで喋るクラスメイトの話し声もクリアに聞き取れるのだ。
真理愛は、自分に関する話題を察知すると、目を強くつむって両手で耳を塞いだ。
うるさいうるさいうるさいうるさい…。
クラスメイト全員が、真理愛の敵だった。
真理愛は、閉じこもる貝の厚みを増大させ、皆を拒絶した。
そこまでくると、真理愛の存在感は不穏な重みを纏い、物言わぬ古代の塑像の様に、近くの者たちに緊張をしいた。
やがては、教師達も、真理愛を腫物扱いするようになった。
2年生に進級した時、学校側の計らいで、クラスメイト全員が入れ替わった。
しかし、真理愛はその頃には、学校では一切喋れなくなっていて、相変わらず教室では貝となり、重々しく俯いて、近寄るもの全てを拒絶していた。
結局、真理愛を取り巻く環境は、1年の時と何ら変わらないままとなった。
3年生も同じ。
4年生になった時、消しゴムの破片を投げつけられたり、机の中にゴミを入れられたりして、いじめが始まった。
真理愛の、貝の様に固くなる姿は、他人に不快感を与え、苛立たせた。
心無いことを言われたり、ゴミを投げられたりすると、真理愛は、貝の口をさらに強固に締め、周りに怨嗟の呪いを放出した。
この頃から少しづつ、保健室登校が始まった。
保健室には常駐のスクールカウンセラーがいて、真理愛を無条件に引き受けてくれた。
学校の授業はほとんど受けてなかったので、両親は、近所の顔馴染みの大学生に家庭教師のアルバイトを頼み込み、学力の低下を防ごうとした。
真理愛は、常に、両親に対しては申し訳ない気持ちを抱いていたので、勉強だけは懸命に励んだ。
5年生になると、中年の女教師が担任になり、地獄が始まった。
彼女は、自分のクラスに不登校児童がいることを容認出来なかった。
保健室登校は、不登校ではないが、彼女にとっては同じ意味だったのだ。
彼女は持ち前の正義感と、問題に怯むことなく立ち向かう自己陶酔感に後押しされ、何度もクラス会を開き、みんなで真理愛さんを助けようと先導した。
毎朝交代で、同じクラスのペアが2人、真理愛を迎えにいった。
真理愛は、毎朝、彼らに連行されて、教室まで連れて行かれた。
その担任は、自分の担当する国語の時間を使って、真理愛さんの話をみんなで聞く会を開催した。
真理愛を教壇に立たせて、言いたいことを言っていいんだよ、みんな静かにあなたの心の声を待ってるんだよ、と何度も何度も優しく語りかける。
彼女は、心の底から、真理愛を救いたいと願っていた。
不登校になるまで放任した歴代の担任教師たちに、失望もしていた。
自分が必ず、真理愛さんを不登校から這い上がらせるのだ。
彼女は不退転の決意を胸に真理愛と向き合った。
真理愛はある日、教壇の前で、身体の奥から込み上げる不快感に耐えきれなくなり、驚く程の量を吐血した。