7.雌伏
瀬里奈は応急的にハンカチを新品のマスクで包み、頭の傷口に当ててヘアバンドで固定した。
出血は少し落ち着いてきた。
瀬里奈は血塗れのまま、美音と共に家に帰った。
美音は、壊滅的な顔でしゃくり上げつつ、
「…瀬里奈様を、お家までお送りします」
と、言って聞かなかったのだ。
仕方なく、瀬里奈は自分の自転車と燻り泣きを続ける美音の手を引いて、自宅を目指した。
これでは、どちらが送られているのか分からない。
学校など、もはや、どうでもいいような気がした。
2人とも、戦場を駆け抜けたかの様に血塗れで、これはもう親の手に委ねるのが正解だと諦めた。
そして、そう決めてしまうと、自分の体の中を、清々しい風が吹き抜けた。
本当に、本当に久しぶりに、瀬里奈は心が軽くなった。
ちょうど昼時で、人目につかないように裏道を通ったこともあり、誰にも見咎められることなく、家に辿り着く事が出来た。
「ただいまー!」
色々有り過ぎて、一周回って何だか楽しくなってきた瀬里奈は、明るい声を張り上げた。
「瀬里奈?」
両親は、丁度昼食を食べていた様子で、一緒にやって来た。
そして、娘達の姿を見て絶句する。
鈴香は、血塗れの我が子に声を失い、目を見開く。
その場にへなへなと崩れ落ちそうになる彼女を、春樹が慌てて支えた。
「詳しい話は後だ。兎に角2人を病院に」
春樹が、一家の柱として、今なすべき事を示す。
失神寸前まで行っていた鈴香は、力強い夫の声に我を取り戻した。
瀬里奈は、事の経緯を簡単に説明した。
真っ白の弁当のことは言わなかった。
春樹の見立てでは、出血は多いものの、意識もはっきりしており、深刻な怪我ではないと思われる。が、念のため、精密検査を受けさせるとの事。
あっという間に2人の着替えを済ませ、春樹の車で2人を先に病院に行かせた後、鈴香はまず、安達美音の母親に連絡を取った。
事情を説明し、うちが責任を持って娘さんを病院につれて行くと告げた。
安達母は恐縮したが、甘えてしまってすみません、と全てを任せてもらえた。
自分も出来るだけ早く病院に向かうと、安達母は言った。
それから、学校に連絡を入れて、2人を早退させる旨の伝言を、瀬里奈の担任宛てに頼んだ。
2人の血の付いた制服を抱き、台所へ行く。
鈴香は手早く大根をおろし、ガーゼで包んで血の染み込んだ部分を叩く。大根の酵素が、血液のタンパク質を分解してくれるのである。
この場合、お湯を使ってはいけない。
血液が凝固してしまうからで、鈴香はある程度血を拭うと、シミに洗剤を染み込ませてから普通に洗濯機をセットした。
そして、自分の車で病院に向かう。
春樹と共に待合で娘達の治療が終わるのを待ち続けた。
随分時間が掛かり、春樹と鈴香は気を揉んだが、次第に怒りが込み上げてくる。
「鉛筆削りを投げるなんて、どういう神経をしてるんだ」
静かに激怒する夫を宥めることなく、鈴香も荒れ狂う胸の内を晒した。
「必ず犯人を見つけ出して、謝罪させるわ。ここまでやられて黙っていられるわけない。出るとこ出ましょう」
剣呑な会話を交わしていると、若い女性の看護師が、診察室のドアを開けて2人を呼んだ。
瀬里奈と美音は、並んで診察用のベットに座っていた。
美音は、大きなガーゼを口元に当てられ痛々しいが、瀬里奈はもっと大変なことになっている。
包帯で、頭と右手をぐるぐる巻きにされ、交通事故にでもあったかの様な出立ちである。
鈴香は、万感の思いを込めて娘を抱き締めた。
そんな母娘を、春樹も抱き締める。
「瀬里奈様のお父様、お母様。私のせいです。ごめんなさい…」
そう言って、美音が泣き始める。
瀬里奈、様…?
2人とも微妙に引っかかったが、鈴香は美音の頭を撫でながら、
「美音さん。あなたのせいじゃ、ないわ」
と、優しく諭す様に言った。
医師から、詳しい説明を聞く。
MR Iを使ったが、脳に異常は見られないとの事だった。
こめかみの傷は4針縫う大きなものだが、ぱっくりと綺麗に切れており、逆に完治した後は目立たなくなるだろうと医師は告げた。
右手の拳の傷も2針縫ったが、こちらの方は怪我の場所が悪く、跡が残るかも知れないらしい。
瀬里奈は、クラスメイトがふざけて投げた鉛筆削りが当たったと、医師に説明した様だ。
「診断書を貰えますか?」
と、聞いたのは瀬里奈である。
彼女も、何事か考えがある様子だった。
春樹が、午後の診療の為帰っていくと、入れ替わりで安達母が駆けつけた。
4人はひとまず、青井家に戻ることにした。
鈴香は、皆をリビングのソファーに座らせると、紅茶とお菓子を準備した。
瀬里奈はさばさばした表情で、学校での出来事を、割と正直に話した。
いじめの内容までは言わなかったが、瀬里奈が美音を殴ったくだりで鈴香は驚愕した。
まさか、自分の娘が美音の加害者だったとは、夢にも思わなかったのだ。
「もう、何と言って良いのか…。安達さん、本当に申し訳有りません」
鈴香はそう言って、深々と頭を下げた。
「ごめんなさい」
瀬里奈も、神妙な顔で謝罪した。
安達母は、話の経緯から、自分の娘の言葉足らずも原因なのだからと、許してくれた。
「瀬里奈様は何にも悪くないの。瀬里奈様は、私の命を救ってくれたんだから。お母さん、私はこの命を、瀬里奈様のために使うから。いいよね」
唐突に美音が立ち上がってそう宣言した。
固まる3人。
瀬里奈がぷっと吹き出した。
「美音さん。命懸けでなくていいから、瀬里奈と仲良くしてあげてね」
鈴香が微笑んで言った。
何となく、様、はスルーされている。
「了解致しました」
美音が、直立不動で敬礼する。
安達母もそんな娘を黙認するつもりのようだ。
美音の屈託のない言動が、裁判沙汰も辞さじと息巻いていた鈴香を柔らかくほぐしてくれる。
今後のことはまた改めて話したいと安達母が言い、仕事があるからと腰を上げる。
「安達さん」
と、鈴香が呼び止めた。
「明日は土曜日ですし、もしよければ、今日は美音さんにうちに泊まっていって貰ってもよろしいですか?」
美音がぱっと顔を輝かせ、瀬里奈に抱きつく。
「とんでもないですよ。そんなご面倒お掛けするわけにはいきません」
安達母の言葉に、美音がしゅんとなる。
この子、こういうキャラだったっけ?
瀬里奈はそう思った。
鈴香は、2人をあるセミナーに参加させたいのだと安達母に説明した。
「合気道の先生が主催している、対人関係のセミナーらしいんです。受講された方々のコメントを読むと、ちょっと良さそうな感じなんです」
「対人関係のセミナー…ですか?」
安達母は、少し黙考する。
隣で、美音が、目を閉じて母を拝む様に手を合わせている。
「どうして私たちがセミナーを受けなくちゃならないの?悪いのは向こうでしょ?」
瀬里奈が予想外に強く反発してきた。
美音が、母を拝むのを止め、瀬里奈の言葉に、うんうんと頷く。
鈴香は、優しく瀬里奈を見つめた。
「もちろん、悪いのは向こうよ。それは間違いない。でもね、いじめられて転校した子が、転校先でもまた、いじめに遭うことが多いらしいの。環境や周りの人が変わったのに、何故またいじめが起こるのだと思う?」
瀬里奈は何か言おうとするものの、うまく言葉が出ない。
「瀬里奈の言うことはもっともだし、実際私も、いじめる側に問題があると思う。だから、そういう疑問点も含めてセミナーに参加しようと思うの。本当は、今日、私ひとりで参加するつもりだったけど、もし貴方達の体調が良いのなら、ちょうどいい機会だし、行ってみない?」
「…分かった」
瀬里奈は渋々ではあるものの、了承した。
瀬里奈が参加を決めた以上、美音に否やはない。
と、いうか、瀬里奈と一緒に居られるだけで、美音は幸せなのだ。
「…本当に、そこまで甘えてしまってよろしいのですか?」
安達母は済まなそうに言った。
「もちろんですわ」
鈴香は言った。
「これも何かの縁だと思うんです。連絡は密に取らせて頂きますので」
安達母はようやく納得した様子で、
「よろしくお願い致します」
と、頭を下げた。