5.機転
濃紺のバックは、母親の鈴香のハンドメイドで、贅沢な生地を使った一品物だった。
間近で見ると、格子状の緻密な柄が浮かび上がる。
正規の売物のように完成度が高かった。
中学校の入学祝いに、鈴香が、長い時間を費やして作ってくれたのである。
内側の目立たないところに、瀬里奈の好きな四葉のクローバーのアップリケを縫い付けてくれた。
間違いなくそれは瀬里奈の宝物だった。
そんな大切な宝物を、焼却炉に捨てさせる訳にはいかない。
瀬里奈は50メートルを、6秒台で走破する。
その運動神経を持ってしても、美音になかなか追いつけない。
美音は、脱兎のごとく階段を駆け下り、下駄箱を走り抜け、校庭に飛び出した。
大丈夫。捕まえられる。
瀬里奈がそう確信した時、美音が急に速度を落とし、走るのをやめた。
美音は、追いかけて来た瀬里奈に振り返った。
肩で息を吐きながら、美音は、イスラムの敬虔な信徒のように跪き、瀬里奈の荷物を胸に抱いたまま、額を地べたに付けた。
「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい…」
と、泣きながら謝り始める。
許せるはずがなかった。
瀬里奈は、美音の後頭部の髪を鷲掴みにし、邪険に顔を上げさせ、その頬を拳で殴った。
慣れないせいで拳が歯に当たり、中指の付け根がぱっくりと割れた。
またしても鮮血が飛び散った。
それでも躊躇わず、もう一発殴る。
美音の唇が切れ、歯列が血に染まる。
教室での鬱憤を有らん限りの力でぶつけた。
更にもう一発入れようと拳を振り上げる。
しかし、美音の、涙と洟水と血の混じったよだれで酷い有様の顔を見た時、すっと頭が冷えた。戦意のない、無抵抗の者を殴り続けることは難しい。
自分の中に、これほど攻撃的な側面があったことが、俄かには信じがたい。
「ごめんなさい。私の…せいで瀬里奈さ…があんな目に遭って」
号泣しつつ、合間に謝罪を繰り返す。
美音の、人目を憚らぬ本気泣きに当てられて、瀬里奈も少しずつ落ち着きを取り戻し、握った拳を下ろした。
掴んだ髪を離すと、指の間に、美音の髪の毛が束になって残った。
一体、どれほどの力で掴んだのか。
美音は、アヒル座りで地面に座り込み、涙を拭おうともせずに、泣いた。
道に迷い帰れなくなった幼子のように大きく口を開けて、嗚咽と号泣を繰り返す。
「あのまま、教室に居たら駄目だと思って…。瀬里奈…様を絶対助けなきゃって…」
…瀬里奈、様?
何故に私を様で呼ぶ?
安達…。変なやつね。
瀬里奈は自分のハンカチを差し出した。
ふと気付いた。
この子もしかして、私をあの場所から救い出してくれた?
「涙を拭いて」
と瀬里奈は優しい声で言った。
ハンカチを受け取ったものの、美音は首を横に振った。
「瀬里奈様のハンカチが汚れちゃうから。拭けない」
「気にしなくていいよ。それと、瀬里奈様はやめて。呼び捨てでいいから。恥ずかしいわ」
「私は瀬里奈様に命を助けてもらったから…」
「大袈裟よ」
「本当なの。きっと、私のことなんて誰も助けてくれないって、諦めてた。瀬里奈様は私の救世主。救ってもらったこの命を、今度は瀬里奈様をお守りする為に使います」
美音はそこで初めて瀬里奈の目を真っ直ぐに見た。
起き上がって片膝をつくと、右手を心臓の上に当てた。
「生涯、瀬里奈様に忠誠を誓います」
そう言って、真摯な熱い眼差しで瀬里奈を見つめた。