4.激震
その日は、この冬1番の寒さを記録した。
「今日はマフラー、こっちの方がいいわよ」
母親の鈴香が、山吹色の厚手のマフラーを瀬里奈に差し出して言った。
「それとこれ」
小さな手提げ袋を掲げて見せる。
「?。何それ」
瀬里奈が首を傾げると、鈴香も真似して小首を傾げた。
「今日はお弁当の日でしょう?」
「あ。そうか」
瀬里奈はそんな事はすっかり忘れていた。以前なら、母親の手作り弁当が楽しみで、前の日から中身の献立を確認したりしていたのだ。
最近は、食欲がほとんどなくなり、体重計に乗らなくても、自分が痩せてきているのがわかる。
「ありがとう。じゃあ、行ってくるね」
瀬里奈がそう言うと、鈴香がハグしてくる。
いつからか、朝もハグして送り出してくれるようになった。
玄関を開けると、父親の春樹が、新聞を抱えて立っている。
「いってらっしゃい」
春樹はそう言って瀬里奈をハグした。かすかに、煙草の香りがした。いつから庭にいたのか、父の背は冷えていた。
「行ってきます」
瀬里奈は元気よく答える。
2人とも、もうきっと、自分が何かしらの大きな問題を、望まずに抱え込んでいることに気付いている。
それでも、何も聞かず笑顔で送り出してくれる。
今の瀬里奈には、その事が救いになっていた。
慌てふためいて、問い詰められでもしたら、もうどうすればよいのか分からず、当たり散らしてしまうかもしれなかったから。
両親には心配を掛けたくはない。
だけど、事態打開の糸筋は、全く掴めないままだった。
午前の最後の授業が終わり、瀬里奈が手を洗って戻ってくると、教室の空気が変わっていた。
重苦しい気配がとぐろを巻き、鎌首をもたげた。
今度は何?
皆が息を潜めて、瀬里奈の顔色を伺っているのが分かる。
自分の席に戻ると、何故かもう、弁当が広げられていた。
真っ白なお弁当箱。
瀬里奈は、すぐに理解した。
弁当の中身に、チョークの粉が、これでもかと振りかけられ真っ白になっていたのだ。
それを見た瞬間、瀬里奈の中で、ありとあらゆる負の感情が膨れ上がり、破裂した。
瀬里奈の後ろの机に座り、足をぶらつかせていた沙織が、
「青井さーん。ふりかけ、掛けといたよ」
と言った。
母親の鈴香が、早起きして自分の為に作ってくれた大事なお弁当だった。
食欲はなかったが、全部食べて、帰ったら、美味しかったよと言うつもりだったのだ。
瀬里奈の心の中で、大事な糸がぷつっと切れた。
どす黒い、憎悪という名の感情を、この時初めて知った。
いじめを耐え忍び、凝り固まった心に、怒りの炎が吹き込んだ。
お前らを、私は決して許さない。
粉まみれの弁当箱を両手に持つと、瀬里奈は手洗い場に向かった。
母親秘伝の唐揚げ、甘い卵焼き、タコの細工が入ったソーセージ、ブロッコリー、プチトマト、そのひとつひとつを丁寧に洗い、口に入れた。
白米も水でゆすぎ蓋を使って水を切ると、箸で一気に食べた。
「げえ。あいつ食ってるよ。頭おかしくなったぞ」
様子を見に来た1人の男子生徒が、そう言いふらしながら教室に戻った。
やばいって。
とうとう狂った。
ありえんでしょ。
これあかんやつ。
はい終了。
チーン。
無責任な言葉が飛び交う。
瀬里奈は、教室に戻ると自分の席に座り、弁当箱を包んだ。
そして手を合わせ、ご馳走様でした、と呟いた。
自分の一挙手一投足を、皆がつぶさに観察しているのを感じた。
それはまるで、自分の撃った獲物の生死を確認するハンターのようだった。
意志が指向性を持つ時、それが外へ吹き荒れるか、内に燻り澱んでいくかは、人による。
瀬里奈は外へ向かった。
瀬里奈は目の前にいた男子の目を睨みつけた。
顔を上げ、誰かの目を見るのは久しぶりだった。
彼の胸を、拳でどん、と突いた。
するとその男子生徒が驚いたように目を見開いた。
瀬里奈の殺気は本物だった。
もし今、この時、ナイフを持っていたとしたら一体、どうなっていたことか…。
クラス全員が、彼女の気迫に気圧されていた。
不意に背中に衝撃が来た。
沙織が蹴り付けたのだとすぐ分かった。
憎悪の鎖に絡め取られたまま、振り返り、沙織を睨みつける。
もはや抑えきれなかった。
人格が変わってしまったような剣幕を、どこか冷たく見つめる自分がいた。
どこからか、消しゴムが飛んできて、瀬里奈の肩に当たって落ちた。
その時だった。
瀬里奈の視界に赤い影がよぎったと思った瞬間、がんっと鈍い音を立てて、右のこめかみの辺りにそれが衝突した。
あまりの激痛に、一瞬、気が遠くなる。
投げつけられたのが、手動の鉛筆削り機だとわかった時、机の上にぽたり、ぽたりと、丸い血液がしたたり落ちた。
瀬里奈は手で当たった箇所を押さえ、見てみた。手のひらは血で真っ赤に染まっていた。
出血はかなりの量で、すぐに瀬里奈の右顔面、首、制服の肩が血で濡れそぼる。
女子生徒が悲鳴を上げた。
「先生呼んでくる」
男子生徒が1人、走って教室を飛び出していく。
この期に及んで、教師を頼るのか….。
血が流れたら、それでお開きか。
冗談じゃない。
瀬里奈は犯人の顔を見た。
それは結城海斗だった。
彼は、あっ、という感じで口を半開きにして、バツが悪そうに瀬里奈を見ていた。
初詣を断ったのが、そんなにも気に入らなかったのか。
分かった。
もう、全員、敵でいい。
瀬里奈が諦観に支配されたその時、1人の女子生徒が、傍に立った。
この災厄の元凶たる、美音が、特攻を決意した飛行隊員のような悲壮感を漂わせ、無言のまま、瀬里奈の学生鞄と弁当袋、そして濃紺のバックを胸に抱え込んだ。
瀬里奈は、美音の意図が読めず呆気に取られた。
「いいぞ、走れ。焼却炉に捨ててこい。それが出来たら友達だ」
沙織がそう叫ぶのと、美音が走り出すのはほぼ同時だった。
もし今、焼却炉に火が入っていたら…。
そう考えたとたん、瀬里奈は弾かれたように美音を追った。