32.収束
「なんちゃって」
と、瀬里奈は言って、舌を出した。
「そんな事、しないわ。嘘です嘘」
確かに、クラスメイトから受けた仕打ちは、瀬里奈の自尊心を完膚なきまでに打ちのめした。
才色兼備、運動神経抜群。
いじめられる要素が、何ひとつ見当たらない瀬里奈が、皆から、奴隷のように扱われ、虐げられた。
クラスメイトに向けた憎悪の炎は、そんな簡単に鎮火出来るものではない。
瀬里奈の心の中には、未だ怨嗟の火が燻り続けていた。
しかし、護心術が、瀬里奈の苦悩を和らげてくれたのだ。
クラスメイトは、誰も反応しない。
瀬里奈は首を傾げた。
なあんだ。
冗談かぁ。
びっくりさせないでよー。
とか、そういうリアクションがあると思っていたのに、誰一人微動だにせず、固まっている。
瀬里奈の、内と外の気の操作が、余りにも優れていて、皆、彼女の雰囲気に飲まれてしまったのだ。
陰の気を封じ込めたまま、純粋な怒気を増幅させ、相手にぶつける。
武道で言うところの、気迫とか、闘気のようなものだが、丹田を練り続けた瀬里奈は、この短期間のうちに自分でも自覚ないままに、そんなものまで出せるようになっていた。
「青井さん。みんなを許してくれるって」
結城海斗が、助け舟を出した。
海斗がそう言っても、皆の疑心暗鬼はそう簡単に消えるものではなかった。
「本当だって。青井さんに怪我させたのは、僕だろ?
この前、僕は一人で青井さんの家に謝りに行ったんだ。
青井さんと親御さんは、僕の謝罪を受け入れてくれた。僕は許してもらえたよ」
海斗の言葉に、皆、顔を見合わせた。
「結城君の事、私は許したわ。
この傷、4針も縫ったけど、もう、わだかまりは、ないよ」
瀬里奈が言った。
すると、ようやく、クラスメイトが緊張を解いた。
瀬里奈は、海斗に目で礼を言った。
自分の席に戻ると、美音が笑顔で迎えてくれる。
瀬里奈に腕を絡めてきた。
もう、いつもの美音である。
美音って、凄いなあ…。
瀬里奈は、つくづくそう思った。
そして、瀬里奈は飯田沙織に目を向けた。
総仕上げだ。
つかつかと歩いて行って、沙織の目の前に立った。
ナンバー1とナンバー2の対峙。
クラスメイトが固唾を飲んで見守った。
「な…。何よ」
沙織が、一歩後ずさる。
瀬里奈は、相手の生殺与奪の権利を持った気分だった。
最低でも平手打ちか、髪を鷲掴みにして土下座させ足蹴りしても、瀬里奈はきっと許されただろう。
瀬里奈の受けた苦しみを考えれば、それでも足りないくらいだ。
しかし、その時、誰も思いもしなかった言葉が、瀬里奈の口から発せられた。
「…綺麗な髪」
と、瀬里奈は言った。
瀬里奈の身体から滲み出たもの。
それは、陽の気であった。
「濡羽色の髪、っていうのよね。
…私、ずっと前から飯田さんの黒髪が羨ましかったの。
私のは少し癖毛で、貴方みたいに長く伸ばすと纏まらないの」
瀬里奈は、そう言って、手を伸ばし、沙織の髪に触れた。
それは、本当の事だった。
飯田沙織を初めて見た時に抱いた印象。
黒髪の美少女。
惚れ惚れするような髪質。
沙織は、腰まで髪を伸ばしているのに、毛先まで艶があり、ぴっちりと纏まっていた。
あの時…、と、瀬里奈は思った。
あの時、勇気を出して話しかけていたら、もしかしたらまた違った未来が拓けていたのかも知れない。
沙織が、わなわなと震え始めた。
大粒の涙が、彼女の両目から溢れ落ちる。
「…本当は、私、青井さんと、仲良くなりたかった…」
沙織が、涙を指先で拭いながら言った。
「いまさらか」
美音が容赦なく突っ込む。
「うるさい、安達、何なのよお前は。瀬里奈様って何だよ」
沙織が、泣きながら喚いた。
美音は、瀬里奈の肩に顎を乗せて、沙織にべ、と、舌を出した。
沙織は、美音を睨み付けたが、ふと、頭を振り、俯いて、深く溜め息を吐いた。
そして、瀬里奈を見詰めた。
「…いいよ。私が、青井さんにした事、やり返して。謝ったって、許してもらえるとは、思えない」
沙織は少し、悲壮感を漂わせながら、言った。
その時、教室の前の戸が開き、数学の担当教師が現れた。
彼は、教室に満ちる唯ならぬ気配に気付くと、一瞬、気圧されたが、気を取り直し、
「はい、席に戻る。授業の準備して」
と、言った。
石像さながらに固まっていた生徒達が、魔法を解かれたように、三々五々、動き始めた。
放課後、瀬里奈は、沙織に、校舎の裏にひとりで来てと呼び出された。
自分だけで大丈夫だと言っても、美音はがんとして譲らず、結局ついて来た。
待ち合わせ場所には、沙織が一人で立っていた。
美音が、素早く動いて瀬里奈の前に立ち、沙織に向かってファイティングポーズを取る。
「ごめん。止めたんだけど、付いて来ちゃった」
瀬里奈が言った。
「…いいの」
沙織が、くいっと顎で美音を差した。
「どのみち、安達にも謝ろうと思ってたから」
そして、
「…わたし。土下座した方が、いい?」
と、確認してくる。
沙織は、もう、陰の気を出してはいなかった。
幾分、憔悴した表情だったが、こちらを力ずくに捩じ伏せようとする気配は、沙織には感じられなかった。
普通にしていると、ただの、美少女である。
瀬里奈は、首を横に振り、言った。
「いいよ、もう。 あなたから受けた傷は、多分ずっと残るだろうけど、恨み続けるのも、しんどいし。
謝ってくれれば、それで終わり」
沙織は、瀬里奈と美音を交互に見やると、深く頭を下げた。
「青井さん、安達…。本当にごめんなさい。
なんかもう、自分でもやめ方が分からなくて。
…本当は、少し怖くなってたの。
貴方達からすれば、ふざけるなって話よね」
それから沙織は、ぽつり、ぽつりと自分の事を話し始めた。
沙織の母親は、一人娘に全く関心を持たない人だった。
自分をここまで育ててくれたことには感謝する。
けれどそれは、社会通念的に、そうすべきなんだろうな、という母親としての務め、それの惰性みたいなものであることを、幼い頃から沙織は、敏感に感じ取っていた。
父親はいつも帰りが遅かったので、仕事を持つ母親は、沙織に毎日2000円を夕食代として渡していた。
沙織は、いつも、コンビニ弁当とか、牛丼とか、ハンバーガーなどを買って一人で食べていた。
お小遣いは、結構な額を貰えたので、不自由は無かったが、彼女の中にはいつも、拭い切れぬ潜在的な寂しさが降り積もっていた。
だから、沙織は、弁当の日を憎んでいた。
みんな、当たり前のように、母親がお弁当を作ってくれている。
自分は、自分だけは、自分で作ってきた弁当を食べるのだ。
その情けなさ、よるべなさがいつしか積もり積もって恵まれた者への攻撃性となって顕現する。
いつか、美音がお弁当を忘れた事があった。
その時、わざわざ美音の母親は、教室まで届けに来たのだ。
沙織は、2人の仲睦まじいやり取りを見て、理不尽な苛立ちを感じた。
それが、引き金だった。
「…羨ましかったのよ。安達のお守りとか、青井さんのバックとか。
お母さんの手作りなんでしょう?
私の母親は、娘の為に何か作るという発想が、そもそも、無い人なの。
全部、お金で代用が効くと思ってる。
…もう、慣れたから別にいいんだけど…」
沙織は、投げやりに言った。
うーん…。
と、美音が唸っている。
沙織に、同情すべき点があると感じたのだろう。
瀬里奈は、沙織に、両腕を広げてみせた。
「…?」
沙織が、その意図が読めず、困惑する。
「ハグしよ」
と、瀬里奈が言った。
沙織は、驚いて目を見張った。
行こうか、行くまいか、躊躇い続ける沙織を、瀬里奈は優しく抱きしめてあげた。
数日後の昼下がり。
瀬里奈と向かい合わせで給食を食べていた美音が、こっくり、こっくりと今にも寝落ちしそうになり始めた。
子供か…と、瀬里奈は思った。
最近、受験勉強の追い込みで、寝る間も惜しんで英語に打ち込んでいるのだ。
「美音、少し眠ったら?」
と、瀬里奈が言った。
美音は、箸を置いて目を擦った。
立ち上がって瀬里奈の元へ来ると、何の躊躇いもなくぺたんと床にアヒル座りした。
そして、瀬里奈の腰に抱きついて、太腿の上に顔を乗せると、すぐに寝息を立て始めた。
相変わらず、寝付きの良いやつ…。
瀬里奈は微笑み、美音の頭を撫でてやる。
なんか、日増しに美音が愛おしくて堪らなくなる。
頭を撫でてあげたいし、小さな鼻をつまんでやりたくなる。
瀬里奈様、瀬里奈様と、全身全霊で慕ってくるこの女の子のことが、いつしか、大好きになった。
その様子を見ていた沙織が、椅子を持って瀬里奈の隣にやって来た。
そのまま、何も言わずに、ただじっと瀬里奈と美音を見詰めてくる。
瀬里奈は、沙織に向かって手を伸ばした。
彼女が、全身で、自分も、自分もと言ってる気がしたのだった。
沙織は、椅子を置いて腰掛けると、引き寄せられるように瀬里奈に身を擦り寄せ、その首に抱きついた。
瀬里奈は、沙織の頭も優しく撫でてやった。
こっちはこっちで、愛しい。
1週間前の惨劇が、まるで嘘のようである。
それを見ていた何人かの男子が、胸の内で呟いた。
…と、尊い。
結城海斗が、周りの机を押しやり、瀬里奈の机の横で床に座り込んだ。
その机の脚に背を持たせ、コッペパンを齧る。
私の事を好きと言う男子…。
正直、瀬里奈は、男子への愛とか、恋とか、あんまりピンとこなかった。
だけど、その真っ直ぐなひたむきさは、瀬里奈の胸を打ったのだった。
瀬里奈は、彼の頭をくしゃくしゃっと撫でた。
「…お戯れを。瀬里奈様」
海斗がそう言うと、女子達が、歓声を上げた。
水沢という名の女子が膝をついて、躊躇いがちに瀬里奈の腕に触れてくる。
瀬里奈は、彼女にも、優しく微笑んであげる。
そして、椅子や机を脇に寄せ、じりじりとにじり寄ってくる他の女子を見渡して、等しく陽の気の波動を与えた。
1人、また1人と、女子達が瀬里奈を囲む様に床に座り込む。
男子も、なるべく近くに寄り添ってくる。
…それは、一枚の秀逸な絵画のような光景だった。
最後までお読み頂きありがとうございました。