31.決戦
月曜日の午前中、瀬里奈と美音は、鈴香に連れられて病院に行った。
傷口の消毒とガーゼ、包帯の交換。
見た目はまだ、重症者である。
美音の方は口元のガーゼが小さくなった。
「本当に、学校に行くの?」
薬を受け取り車に戻ると、鈴香が心配そうに聞いてくる。
「無理する必要、ないんじゃない?」
「大丈夫、心配しないで」
瀬里奈は、笑顔で答えた。
「お母様。私がついてます。ご心配には、及びません!」
後部座席から、ずいと顔を出して、美音が元気よく言った。
鈴香は、苦笑する。
「美音さん。瀬里奈の事、頼むわね」
「了解致しました」
美音が敬礼する。
瀬里奈は、鈴香と美音のやり取りに笑っていたが、実は少し、緊張していた。
クラスメイト全員を敵に回し、憎悪と憤怒の化身となった自分の事が、フラッシュバックのように脳裏をよぎる。
瀬里奈は、2人に気づかれないように、小さく溜め息を吐いた。
内臓が、ちょっと強張っていたので、丹田を緩め、腹式呼吸を始める。
大丈夫、敵は居ない、大丈夫…。
そう自分に言い聞かせて、瀬里奈は、身体の中に意識を向け続ける。
時刻は、12時を過ぎて、給食の片付けも済んだ頃合いである。
瀬里奈と美音は、教室の手前で顔を見合わせた。
条件反射のように丹田を緩め、腹式呼吸を行う。
「準備はいい?美音、行くよ」
「行きましょう。瀬里奈様」
瀬里奈は、意を決して、教室の後ろの戸を開いた。
賑やかな教室。
数人の生徒が、瀬里奈達に気付いた。
包帯姿の瀬里奈を見て、はっと息を呑む。
その気配は、一瞬にして、教室中に伝播し、皆がこちらに視線を向けた。
目に見えない陰の気の壁が、押し寄せてきた。
瀬里奈は、身体全体に物理的な圧を感じた。
これを、押し返してはいけないのだ。
瀬里奈は、瞬時に、丹田を緩め、自分の中に意識を向ける。
「…飯田沙織」
隣で美音が呟く。
彼女は、不穏な気配を纏い始めた。
見ると、沙織が、瀬里奈の机に腰掛け、上履きのまま、椅子の上に足を乗せていた。
彼女の取り巻きが、その周りに陣取っている。
沙織も、瀬里奈達に気付いたらしく、こちらを見た。
美音が、動いた。
手前にあった椅子を持ち上げると、助走をつけてそれを放り投げた。
沙織達が、ぎょっとして、蜘蛛の子を散らすように慌てふためいて逃げた。
次の瞬間、椅子と机のぶつかり合う、凄まじい衝撃音が響き渡った。
静まり返る教室。
「瀬里奈様の机に、座るな」
低い、ドスの効いた声で、美音が言った。
美音は、圧倒的な存在感を発揮して、歩いていく。
クラスメイトは度肝を抜かれ、声も出ない。
…美音さん。
流石の瀬里奈もドン引きである。
いきなり、何をするのだ。
緻密な打ち合わせも、護心術も、一瞬で消し飛んでしまったではないか…。
美音は、皆の視線を軽々と受け止め、堂々と瀬里奈の席に辿り着くと、机と椅子の位置を正した。
そして、瀬里奈の席の右側前方で跪き、
「瀬里奈様。どうぞ」
と、誇り高き聖騎士のように言った。
…どうぞ、って、何?
瀬里奈は、一体どうするのが正解なのか分からないまま、取り敢えず、しずしずと歩いて自分の席に座った。
一応、内臓の様子を確認してみるが、何の問題もなかった。
美音が、ものの数秒でクラスを鎮圧してしまったので、もはや、誰も陰の気を出して無かった。
いや…。1人いる。
瀬里奈の背後で、陰の気が湧き立ち始める。
そう感じたと思ったら、すぐ、右肩に衝撃が走った。
沙織が、瀬里奈に足蹴りしたのだ。
「貴様!」
美音が、今にも飛びかからんばかりに立ち上がるのを、瀬里奈は手で制した。
沙織に蹴り付けられたにも関わらず、瀬里奈は、怒りを覚えなかった。
自分は、陰の気を出してなかった。
内臓はオールグリーン、正常運転だ。
瀬里奈は、ゆっくり振り向くと真正面から、沙織の目を見詰めた。
沙織の瞳に、動揺が走った。
「飯田さん。もう、2度と私を蹴らないで。私は、貴方に蹴られていい人間じゃない」
瀬里奈は、怒りも憎しみもない、静かな海のような心でそう言った。
そして、何事もなかったように椅子に座り直し、前を向く。
もしかしたら、また、蹴られるかもと思ったが、衝撃はやって来なかった。
瀬里奈は、当初の予定通り、反撃を開始することにした。
落とし前は、付けなければならない。
ちょっと段取りが狂ったが、問題ないだろう。
「美音。ノート」
「はっ!」
瀬里奈の言葉に、美音が即座に反応する。
いちいち芝居がかっているが、まあ、いいか。
瀬里奈も段々、気分が乗ってきた。
手渡されたノートを机の上で開いて、これ見よがしにゆっくりとページをめくる。
クラスメイト全員が、瀬里奈の様子を、固唾を飲んで見守っている。
今の瀬里奈には、みんなの気持ちが手に取るように読めた。
「1月15日。私が登校すると、私の机に椅子が逆さにおかれていた。
首謀者、飯田沙織。
実行犯、前園光一、川瀬順平、伊藤紀之…」
瀬里奈は、自分を苦しめたいじめの数々を、朗々と読み上げた。
自分がいないときにやられた事は、半ば当てずっぽうだが、いい線行っていると思う。
「1月20日、私の背中に張り紙がされた。紙には…」
そこまで言うと、美音が、バックからビニール袋に入った紙片と、白手袋を渡してくる。
よしよし、段取り通り、ちゃんと覚えてるな。
瀬里奈は、白手袋を嵌めると、ビニール袋から紙片を取り出して、読み上げた。
「SMの女王様…。
ひどいわね。
首謀者、飯田沙織。
実行犯、前園光一、川瀬順平、伊藤紀之。
撮影者、豊田舞、佐久間佳奈子、宇藤遥香、向井直樹、桐山翔太」
その時、1人の女子生徒が叫んだ。
「私、撮影なんかしてない!」
「黙れ!今、瀬里奈様が喋っている。口を挟むな」
美音が一喝すると、佐久間佳奈子は、何も言えなくなった。
「撮影者、スマホを出せ」
美音が言った。
「動画はすぐ消すよ。悪かった」
向井直樹がそう言って、スマホを取り出した。
「あ。消さないで。それは大事な証拠だから」
瀬里奈が言った。
陰の気は出さないが、それとは別に、クラスメイト全員に圧を放った。
と、言うか、そういうイメージを持っただけだ。
しかし、その目論みは上手く行った。
皆が凍りついたような表情になる。
瀬里奈は、自由自在の心境だった。
「このノート、スマホの動画、私の怪我の診断書。全部持って、明日、警察に行くわ。
被害届も出すから、貴方達は警察の事情聴取を受ける事になると思う」
誰かが、マジかよ…と、呟く。
女子生徒が、1人、泣き出した。
「泣いて許されると思う?
貴方達、私に何をしたのか、忘れたの?」
瀬里奈が、駄目押しする。
「私の父の知り合いに弁護士がいて、今、民事訴訟の準備をしてもらってる。
1人500万の損害賠償請求の申し立てを裁判所にするつもりだから、覚悟して。
お金がないなら、家を売ったらいい。
私は決して許さないから」
瀬里奈の覇気に、クラスメイトが心底、怖気付いた。
誰もが、瀬里奈が本気で言っているのだと思った。
自分達は、決して怒らせてはならない人を怒らせてしまったのだ。
もう、取り返しがつかない。
…ごめんなさい。
誰かが言った。
すると、それに続く声。
本当に、ごめん。
許してください。
うちはお金ないから、訴えないで。
…。
頃合いである。
瀬里奈は、立ち上がると、教壇まで歩いて行き、皆を見渡した。