30.効能
風雅は、週明けから、勤め先で、早速護心術を実践してみる事にした。
会社の駐車場で、風雅は、内臓が軋み、膝に力が入らなくなった自分の状況を、つぶさに観察した。
まだ誰にも会っていないうちから、この有り様である。
護心術に照らし合わせれば、明らかに、自らの陰の気に自己防衛反応が働いている状態である。
車の傍に立ったまま、風雅は、教えられたとうり、丹田を緩め、腹式呼吸を行った。
しばらくすると、内臓が柔らかくなり始めたが、まだ重く引き攣る様な痛みが残っている。
いつまでも駐車場にいる訳にもいかず、風雅は諦めて朝礼の場に向かった。
これまでは、会う人ごとに、少し声を張って挨拶していた。
無視されることもあるし、嫌そうに顔を背けてお情けの挨拶を返してくる者もいた。
風雅は、彼らの自分を軽んずる態度に、いちいち腹を立てていたのだが、今日はすべて会釈で済ませた。
ずっと自分の身体の中に集中し続けて、腹式呼吸を繰り返さなければならない為、余裕がなかったのだ。
朝礼の場では、ずっと、あの夜の一家団欒の様を思い浮かべてやり過ごした。
班長から、どうでもいい仕事を振られ、いつものように独り黙々と作業を行う。
10時の休憩の時、暖かな光景を思いだしてみた。
美咲の手作りの唐揚げ…。
あれは絶品であった。
またお呼ばれする機会は、訪れるのだろうか。
田中親子との縁は、どうやらしばらく続きそうだ。
と言うのは、風雅が、真理愛を澄岡道場へ送迎することになったのである。
人様の大事な一人娘を預かるのだ。
責任は、重大である。
澄岡道場では、月、水、金が、剣術。
火、木、土が、柔術の稽古が行われる。
日曜日や、連休、ゴールデンウィーク、お盆、年末年始は、道場は、お休みとなるが、様々なイベントや行事があり、実質、年中無休のようである。
風雅は、柔術、剣術の両方とも申し込んだ。
月謝は、月一万。
毎日通う事を考えれば、格安といえた。
真理愛も、両方とも申し込んだので、彼女の送迎は毎日やる事になった。
風雅はふと、自分が空腹を感じている事に気づいた。
それは、驚愕の事実であった。
風雅は会社では、腹が減らず、いつも車の中でコンビニのおにぎりをひとつだけ食べるのが常であった。
それも無理矢理口に押し込み、お茶で流し込むだけ。
腹がずっとしくしくと痛み続けるので、まともな昼食など、食べられなかった。
それが今はどうだ。
ラーメンと炒飯セットに餃子も付けてぺろりといけ
そうな腹具合である。
あの、鉛を飲み込んだように重く強張っていた内臓が、正常な機能を取り戻して、軽やかに働いていた。
風雅は、自分の腹を撫でながら、これが護心術の効果だろうかと思った。
5時になった。
与えられた仕事は終わらなかったので、明日も同じことをするのだろう。
風雅は、残業を命じられることがなかった。
いつも定時で上がっていたのである。
自分が期待されていない事も、道場に早く行けるのだから、都合が良いと割り切れる。
タイムカードを押しに事務所に行くと、数人が何やら顔を突き合わせて、相談していた。
どうやら、何かトラブルが発生したようである。
彼らは、風雅に気付いたが、ふいと顔を背けた。
風雅を無視したのに、彼らから陰の気が物理的な圧力を伴い、押し寄せてきた。
風雅の内臓が、自己防衛反応により、再び不調を訴える。
すぐさま、丹田を緩め、腹式呼吸を始める。
何度も繰り返すうち、条件反射のように出来るようになってきた。
自分の中に意識を向けていると、意外に早く、陰の気は薄れていった。
風雅が対抗してこないので、彼らはすぐに風雅から興味を失ったのである。
余裕が生まれた風雅は、しばらくその場に留まり、彼らの話に耳を傾けた。
国枝恭平が、製品の納入期限を間違えてしまい、今日と明日で、既定の数量を用意しなければならなくなった。
今夜は徹夜になるかも知れない。
動ける作業員を確保して、人海戦術で乗り切るしかない。
風雅は、断片的に聞こえる話から、大まかな内容を把握した。
役に立たないと思われているのか、誰も風雅に声を掛けて来ない。
これまでの自分なら、我関せずと帰宅しただろう。
だが今、ふと、手伝ってもいいような気がしていた。
陰の気を払うと、彼らの自分に対する傲慢な態度も、何故かあまり気にならなくなっていたのだ。
そこに、国枝恭平がやって来た。
彼は、風雅に気付くと、気まずそうに視線を外し、相談の輪の中に入った。
自分が、そこに声を掛けようとしている事に気付いて、風雅は、おいおいマジかよ…と胸の内で呟いた。
一体、どうなっているのか、自分が自分で分からない。
今までなら、恭平の姿が視界に入っただけで、身がすくみ、内臓が縮み上がっていたのに、今の風雅は、ミスを犯した恭平に、同情心を抱き始めていた。
「…あのう。すみません…」
結局、風雅は声を掛けた。
心の中は穏やかに凪いでいた。
その場の全員が、風雅を見た。
陰の気の圧が凄い。
丹田を緩め、腹式呼吸。
陰の気を出さないよう、自分の中に集中する。
「…なんすか?」
恭平がそう聞いてきた。
「自分にも、何か、手伝える事、ないですか?」
風雅は、そう言って、ぎこちなく笑みを浮かべた。
「まあ、あまり役立たないかもしれないけど…」
「あ。大丈夫っす。香妻さんはもう帰って下さい。いつも5時上がりだし、忙しいんですよね」
恭平は、不貞腐れたように言った。
本当に、自分は嫌われているんだなと、改めて思い知らされた。
だか、素気無くあしらわれても、彼を憎む気持ちはもう、どこにもなかった。
「やってもらえ」
と、班長が言った。
「人手は多い方がいい。シールの貼り替えなら、出来るだろう?」
「…はあ。了解っす…」
恭平は、そう答えると、工場の一角に風雅を連れて行った。
与えられたのは、別の取引先に納入予定の製品の、タグ貼り替え作業だった。
作業内容は、風雅でも出来る単純なものだったが、数が尋常ではなかった。
ひと通り、注意事項を伝えて、
「じゃあ、すんません。頼ります」
と、恭平が言った。
素直な男だなと、風雅は思った。
自分のミスを認める度量があるのだ。
彼に人望があるのも頷けた。
「…国枝さん」
と、風雅は声を掛けた。
「仕事をくれてありがとう」
恭平は、驚いて風雅を見た。
「いえ…。こっちが礼を言う立場っす。じゃあ、お願いします」
恭平は足早に立ち去ろうとしたが、ふと、足を止め、振り返った。
「これが片付いたら、飲み、行きましょう」
風雅は、彼の言葉に呆然としてしまった。
これが護心術か…。
風雅は心底感服した。
田中家には、万一仕事が終わらない時は送迎出来ないことがあるかも、とは伝えてある。
「…今日は道場、行けないかもな」
風雅は、真理愛の母親の美咲に連絡を取り、事情を伝えると、膨大な仕事に向き直った。