29.命を捧ぐ
土曜日の午後、香妻風雅は、一人で暮らす自分の家に帰ってきた。
住み慣れた自分の棲家は、風雅を温かく迎える事も、冷たく拒絶する事もなく、ただひっそりと静まり返っていた。
風雅は、2階のベランダに出しっぱなしになっていた、冷たい洗濯物を取り込んでから、風呂を掃除して湯を張った。
腕立て伏せと腹筋、スクワット、それぞれ、100回づつこなした後、ゆっくりと風呂に浸かった。
そして、昨日の出来事を丁寧に思い返した。
合気道の精神をふんだんに盛り込んだ護心術セミナーは、空手しか知らない風雅には、本当に興味深いものだった。
敵を敵とは捉えず、相手の陰の気を、陽の気で包み込んで調和し、制する。
合気道の真髄とも言えるノウハウを、護心術に落とし込んだ叡山の手腕には恐れ入るが、実際の所、本当にこんな事でいじめから救われるのだろうか…。
叡山を疑うわけではなかった。
風雅は、澄岡叡山の、揺るぎない正中線を思い出し、感嘆の溜め息を吐いた。
一切の無駄な力みを排した、美しい立ち姿。
動作も華麗で、洗練され、ひとつひとつの動きには必ず深い意図があり、流れるような統一感があった。
何処か、祖父の演武に通底する、厳しくもまろやかな基盤を感じさせた。
護心術のことはともかく、風雅は、澄岡道場を選び取った自分を、褒めてやりたい気分だった。
セミナーの後、大勢の前で、大の大人の自分が、みっともなく泣いたことは、実はそれ程、後悔してはいなかった。
自分がこれまで築き上げた矜持は、おそらく、メッキだったのだ。
本当の苦悩も、本当の孤独も、自分は何も知らずに、ただ怠惰に、緩慢に暮らしてきてしまった。
そういう自分の不埒な性分が、ここに来て、もはや取り繕うことが出来ないほど、露わになっただけのことだ。
自分の、無意識のうちに他者を見下す悪い癖が、勤め先でも現れて、窮地に立たされている。
これが、自業自得というものなのだろう。
風雅は、この半年の苦悩の日々は、今まで無難に過ごしてきたツケを、払わされる為にあったのだと思った。
田中親子には、返し切れぬ程の、恩を受けた。
初めて会ったばかりの、正体不明の大男を、信頼して家に招き入れ、食事まで振る舞ってくれた。
そして、あろう事か、家に泊めてくれたのだ。
一宿一飯の恩というが、風雅は、田中一家が考えるより遥かに重大に、真摯に、心から彼らに感謝をしていた。
自分のこの先の人生を丸ごと掛けて、彼らを守りたいと思った。
久しぶりの暖かな一家団欒に、風雅の凍える心は、癒されたのだった。
真理愛は、不思議な子供で、風雅の目の奥を探る様に見詰めてきたのだ。
自分の中の何が、小さな彼女の心の琴線に触れたのかは分からない。
あの夜、真理愛が寝た後、風雅は、美咲から彼女の抜き差しならない事情を、詳細に聞かされた。
似たような事情を抱える風雅に、敏感に反応し、憐憫の情を持ったのかも知れない。
ただ、真理愛が居なければ、風雅は、あの独白をする気にはならなかった。
真理愛に見詰められることで、頑な自分の殻がぼろぼろと瓦解し、誰かに縋りつきたくなってしまった。
全くもって、情けないが、でも、あれが自分なのだ。
空手の全国チャンピオンの自分はもはや過去の栄光である。
初っ端に、全てを曝け出してしまったのだ。
澄岡道場を新たな居場所とするには、取り繕う必要もなくなり、却って良かったのではないかと、風雅は考えている。