2.胎動
いじめの描写が入ります。
苦手な方はくれぐれもご注意下さい。
その夜はずっと胃の辺りが重く、なかなか寝付けなかった。
ようやくまどろみ始めたのは、もう明け方だった。
スマホの目覚ましを一鳴りで止め、瀬里奈は、ベッドの上で仰向けのまま、長い溜息を付いた。
これほど憂鬱な目覚めは記憶にない。
学校に行くのが、残酷な苦行のように感じる。
自分の身に何が降りかかるのか。
死刑の執行方法を聞かされていない死刑囚の気分で身支度を整える。
家族3人で囲む朝の食卓と会話も、瀬里奈は上の空で、朝食を半分以上残し、家を出た。
学校に辿り着くと、脇目も振らず教室の自分の席に直行した。
クラスメイトの顔が直視出来ない。
瀬里奈は気付かなかったが、誰も彼女に朝の挨拶をしなかった。
瀬里奈は全身を貝のように固めて、時が過ぎるのを祈った。
だが、予想に反し、その日は何事もなく終わった。
身構えていた分、肩透かしを食った気分だった。
次の日もまた、何も起こらなかった。ただ、いつもと変わらないように見える教室の、空気だけが重たかった。
何かを期待するような、不安に怯えるような、そんな微妙な雰囲気が教室の上空に渦巻いていた。
そして3日目の朝、それは静かに始まる。
もうずっとしくしく痛み続ける腹を、瀬里奈は無意識のうちに手のひらでさすりながら教室の入り口に立った。
ほとんどの生徒が既に登校していて、そのほとんどすべての60個を超える目玉が、一斉に彼女を見た。
ついに来た、と、瀬里奈は震える心で思った。
自分の机に、椅子が反対向きで置かれている。
もちろん、今は掃除の時間ではなかった。
誰がこんな悪戯を…などと、瀬里奈は考える余裕がない。
そんなことぐらいで大袈裟なと、鼻で笑える人間は、幸福な人生を送っているのだろう。
瀬里奈は自分の意思とは関係なく、歩いて行き、自ら椅子を下ろし、そして座った。
身体の体温が低下し、魂が幽体離脱したように少し上の方から自分を見ている感じがした。
誰かがひそひそと喋り、隣のひとがクスっと笑う。
心がゆっくりと壊死していくのが感じられた。
「誰だー、女王様に悪戯したのは。お仕置きされちゃうぞ」
ちょっとお茶目な感じで声がした。
言ったのは沙織だろう。
こんな時、逃げ出すという行為を選択し、幸運にも身体が動いた者はまだ救いがある。
語弊があるかもしれないが、不登校という方法もまた、選ばれて然るべきなのだ。
逃げ出すことも叶わなかった者は、ただひたすらに嵐がすぎるのを待つしかない。
そしてそれは、何日、何ヶ月、何年続くのかは分からないのだ。
やめて許してやめて許してやめて許して…。
魂が叫び声を上げてもまず、救いの手は現れない。
ただただ、心と身体をかちかちに固めて自己防衛するしかない。
瀬里奈は、逃げ出そうと思えば、あるいは出来たのかも知れない。
しかし彼女はその場に留まることを選択した。
それは脆弱ではあったが、確かに瀬里奈の意志だった。
何故かは自分でもよく分からない。
出席日数は足りているだろうし、期末テストさえ受ければ、後は欠席しても卒業できるはずだ。
事情を話せば、教師らも便宜を測ってくれるだろう。
瀬里奈の魂の品格、そして愛情深い両親に育まれた彼女の自己肯定感が、そんな無様な真似をすることを拒絶したのだ。
それでも、辛く厳しい毎日が始まることに変わりない。