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28.流転

真理愛は、教室の後ろの戸を開けて、ダッシュで自分の席を目指した。 


クラスメイトの視線が、ちくちくと身体に刺さる。


(あー。あー)


真理愛は、心の中で大声を上げながら席に着くと、机の上にばっと顔を伏せ、耳を塞いだ。

誰かに何か言われたが、無視して、腹式呼吸を繰り返す。


お腹の中がかちかちだった。


お腹を引っ込めたり、膨らませたりすると、中でぼこんぼこんと内臓がひっくり返った。


…何だっけ。自己防衛反応か…。


真理愛は、セミナーで学んだ事を少しずつ思い出した。

叡山は、敵は居ないと呟けと言っていた。

それは心の中でも良かったのだが、真理愛は、声に出して呟いた。


(敵は居ない、敵は居ない、敵は居ない…)


ぼこん、ぼこん、ぼこん…。

無我夢中になって、腹式呼吸を繰り返す。


すると、少しづつ、本当に少しずつ、内臓が柔らかくなり、腹式呼吸に合わせて滑らかに動くようになり始めた。


真理愛は、楽しかった思い出を心の中に広げた。

それは、予め、決めていた。


金曜日の夜の、一家団欒の記憶。


母親の美咲は、夜9時を回っていたが、唐揚げを作ってくれたのだ。


それは、真理愛の大好物でもあり、ころころと出来上がっていく唐揚げのいい匂いを嗅ぐと、彼女のお腹がぐーと鳴った。


セミナーの前に、夕飯は済ませていたが、真理愛は食欲もなく、余り食べられなかったのだ。

余り物のポテサラを出し、小鉢に残っていた豚の角煮をレンジでチンした。

美咲は手際良くサラダを作ると、出汁巻き卵に取り掛かる。


真理愛は、配膳係だった。

何か手伝いましょうかと風雅が台所に顔を出した。

立ち上がると、頭が天井に擦りそうだった。


「いいから、いいから。風雅さんは座ってて」


真理愛は、風雅の腰を押してテーブルまで連れて行き、椅子に腰掛けさせた。4人掛けのテーブルなので、親子3人ではいつも一つ、余っていたのだ。


そこに、今、風雅が座っていた。


ずっと余っていたのは、この日の為ではないのか…。

真理愛は、自分の考えにはっとして、鳥肌が立った。

風雅がここに来る事は、ずっと前から既に決まっていたのかも知れない。

大きな、大きな、うねりのような定まり事を感じて、ぶるっと身体を震わせたのだった。


「風雅さん、まあ、一杯」


酒好きの康雄が、冷蔵庫から瓶ビールを出してきて、風雅にコップを渡す。


「いえ…。自分は車なので…」

「まあ、飲みましょうよ。明日は仕事休みなんだし、空いた部屋もあるから、今日は泊まっていって下さい」

「はあ…」


風雅は、結局、康雄の誘いを断れず、飲み始めた。

台所で、美咲と真理愛が顔を見合わせて、笑った。


ささやかな宴は、真夜中まで続いたが、誰も真理愛に寝ろとは言わなかった。

まるで、お正月が来たみたいだった。

真理愛は、空手日本一の風雅から、基本の型を習った。

くーちゃんが、俺にもエサをくれと元気良く吠えた。


先に寝てしまった康雄を、風雅は軽々と抱えて、寝室に連れて行ってくれた。


翌朝、真理愛が、散歩の支度をしていると、風雅が起きてきて、2人でくーちゃんを連れて公園に行った。


完璧だ、と真理愛は思う。


こんな日常が、自分に許されるなんて、ついこの間までは、全く想像すらしてなかった。

この幸せが続くのなら、自分はもうどんな困難にも立ち向かっていける、真理愛は心からそう思えたのだった。


いつの間にか、一限目の国語の授業が始まっていた。

男性教師が黒板に文字を書く、か、か、という音が響いていた。

真理愛は、暖かな心象風景から現実に戻ってきた。


あれっと、思った。


お腹の中が柔らかいのだ。

教室にいるにも関わらず、ずっと彼女を苦しめ続けた内臓の強張りが、綺麗さっぱり消えている事に気づいた。

真理愛は、恐る恐る顔を上げてみた。

真ん中の、1番後ろの真理愛の席からは、教室全体が隈なく見渡せた。


それは、真理愛が、初めて目にした光景だった。


クラスメイトが皆、一様に前を向いて、授業を受けている。

誰も真理愛の事など考えてない事を、肌で感じた。

真理愛は今、一切の不安から解き放たれていた。

危機感がないから、自己防衛反応も起こらず、陰の気を完全にシャットアウトしていた。


嫌な気を放出しない真理愛に、クラスメイトはいつしか興味を無くして、自分のことを始めたのである。


…うわぁー。何これ、凄い…。


真理愛は、自分の中で生じた革命とも呼べる変化に、ただただ驚いた。

叡山先生は、凄い、天才だ、と、真理愛は思った。

真理愛は、静かに、大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。


お腹が、軽い、軽い。


真理愛は、初めて月面に降りた人の様に浮かれて、クラスメイトの姿を一人一人まじまじと観察した。


敵は、居なかった。

みんなは、毎日、こんなにも安らかな気持ちで学校に来ていたのだろうか。


これなら、勉強だって集中してこなせるだろう。

友達だって、もしかしたら、出来るかも知れない。

真理愛は、浮き浮きしながら背筋を伸ばし、教科書とノートと筆箱を用意したのだった。


授業の後、濱口流星が、真理愛の元へやって来た。


「貞子、もう大丈夫なの?」


相変わらず、悪気のない顔をして、馴れ馴れしく喋り掛けてきた。


一瞬、真理愛は固まったが、すぐに切り替えて、自分の中の様子を確認する。

濱口流星のことは、ひとまず無視。

少しだけ、自己防衛反応が現れている。

すぐさま、丹田を緩め、腹式呼吸を開始した。


「なあなあ、聞いてるのかよ」


この男子は、敵ではない。

敵は、居ない。

心の中でそう呟く。


そして、朝の散歩の時、こっそり見上げた、風雅の横顔を思い浮かべた。


「おい。貞子。返事しろよ」

「私は、田中真理愛だよ。貞子じゃない。そう呼ばれるのは嫌いだから、もう、貞子って呼ばないで」


もう、陰の気は、出ていなかった。

真理愛は、小さな声で、しかし、はっきりと濱口流星にそう告げたのである。













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