25.麗しき武人
澄岡叡山は、板の間の床に正座し、微動だにしない。
剣術専用のその部屋は、照明をつけておらず、陽が落ちて辺りは薄暗い。
空気が冷たく張り詰めている。
顎を引き、肩を落とす。
丹田を緩め、背筋を伸ばす。
両手の指先を伸ばし、軽く腿の上に置く。
座してなお、正中線の厳しく屹立したその姿は、一切の隙がなく、静止しているにも関わらず、今にも飛び出しそうな躍動感に満ち溢れていた。
左の腰に拵え刀を差していた。
真剣である。
半眼のままに、呼吸を整える。
じりじりと、両の膝頭を近づけていく。
刹那、力強く右足を踏み出し、抜刀。
刀を片手で横に薙いだ。
1秒にも満たない時間。
そのまま刀を頭上に掲げ、両手で持って、見えざる相手に真っ向に斬り落とす。
刀は、正眼にぴたりと収まった。
血振りし、納刀。
何事も無かったかの様に、正座に戻った。
脳裏には、いつも、今は亡き祖父、澄岡涼山の姿が浮かんでいた。
祖父は、まるで小枝でも振っているように、真剣を操っていた。
祖父が刀を操ると、刀の重さが消えるのだ。
それはまるで、扇子を振るうが如きたやすさであった。
幼い叡山が、祖父に言った。
刀が、重いと。
祖父は応えた。
腕は、重いか、と。
自分の腕は、重くない。
でも、刀は重い。
ではまだ、刀はお前と一体ではない。
刀を持っているうちは、まだまだ駄目だ。
刀を、持つなよ…。
幼き自分に、祖父の禅問答のような言葉を理解することなど、出来るはずも無かった。
しかし、祖父の死後も、叡山の中に、その姿と言葉は、残った。
叡山は、祖父の姿と言葉を、身の規矩とした。
刀を持つな、とは、出来る限り指に力を入れない事だと気づいた時、刀は己の一部となった。
叡山が24歳の時、息子の演武を見た父、龍山は、易々と宗家を叡山に譲った。
自分は裏方に回り、それ以来、澄岡道場の運営を一手に取り仕切った。
叡山の母も、経理面で彼を支えてくれている。
自分はただ、澄岡柔剣道を極める事だけ、考えれば良い立場となった。
だが、遠い…。
祖父の背中は遥か先をゆく。
達者になればなるほど、祖父との差が、明確になって我が身に突き立てられる。
澄岡柔剣道創始者である初代宗家澄岡活山の姿は、神前の写真でしか、知らない。
祖父がいつか、独り言の様に呟いた言葉。
儂なんぞ、敷かれたレールの上をただ、落ちない様に走っているだけだ。
初代は、一体どれ程の高みにあったと言うのか…。
技の名はある。
動きも教えられている。
しかし、それが本当に正しいのかどうかは、誰にも分からない。
宗家はこの、澄岡叡山なのだ。
自分が正しいのだと、もう、信じるしかないのである。
「どうぞ…」
と、叡山が言った。
剣術部屋の入り口に気配があったのだ。
「失礼します」
1番の高弟である、片倉一が控えていた。
五十路の寡黙な男である。
彼は、父親の懐刀の様な存在だったが、今は叡山を支えてくれていた。
「琢磨さんから、電話がありました。いつでも良いので連絡が欲しいそうです」
叡山は携帯電話を持っていないのだ。
彼と喋りたければ、直接会いに行くか道場に電話するしかない。
片倉も、思うところはあるだろうに、真摯に叡山を立ててくれている。
彼の様な卓越した門人がいる事は、澄岡道場の誉れである。
「分かりました」
叡山は応えて、すっと立ち上がると部屋の入り口で一礼した。
片倉が両手を差し出してくる。
叡山は下緒を解き、刀を帯から抜き取るとその掌に置いた。
「ありがとうございます」
「まだ稽古をなさいますか?」
片倉の付き従いは完璧で、それ故に、暗に、叡山にもそれ相応の器量が求められる。
「いえ…。今日はもう、上がります」
叡山はそう答え、剣術部屋を後にした。
「悪かったな。稽古の邪魔をしたか?」
受話器の向こうに琢磨の声を聞き、叡山はほっと息をつく。
琢磨は、叡山が肩の荷を下ろして向き合える、数少ない友であった。
「いや、もう上がろうと思っていた」
琢磨とは、昼の稽古の時に顔を合わせていた。
用事ならその時済ませば良かった訳で、何か言い難い問題でもあるのか。
「実はな、お前には言っておこうと思ってさ。…昨日、包帯の女の子が来てただろ?あの子に、叡山の傷の事、話しちまった」
琢磨は、さらりと言った。
大問題である。
「お前が刺したことを、話したのか?」
叡山は溜め息を付いた。
「すまん。だけど、青井瀬里奈、だっけ。
彼女は大丈夫だ。
それが確信できたから、俺も話す気になったんだと思う。」
喧嘩で半身不随。その上、刃傷沙汰では澄岡道場を信じろと言う方がおかしい。
瀬里奈は、頭と腕に包帯を巻き、平然とセミナーを受けていた。
疑問を感じればすぐさま質問し、冗談を受け止め、ウィットな返しをする。
しかし、相手はまだまだ子供なのだ。
叡山と琢磨の因縁に巻き込んでいいはずがない。
「この件は俺が預かる。何か聞かれてもお前からは何も言うな」
「分かったよ」
琢磨との通話を終えた叡山は昨日、彼女達が帰った後の騒動を思い出した。