23.長い1日の終焉
美音は、今夜はうちに泊まる予定なので、車の中でも嬉しそうにはしゃいでいたのだが、家に帰って、リビングに結城海斗の姿を見た瞬間、激昂した。
「貴様が、どうして、ここにいる!」
美音は、リビングのドアの横に置かれていたゴルフバックから、アイアンを一本抜き取ると、瀬里奈と海斗の対角線上に身を置き、それを正眼に構えた。
「答えろ!」
瀬里奈のことを命懸けで守る。
その言葉が、嘘偽りのない真意である事を証明する、圧倒的な気迫であった。
海斗は、美音の殺気に一瞬で飲まれ、おずおずとソファーから立ち上がると、両の掌を見せた。
「待って、安達さん…。誤解だ」
一緒にいた春樹は、降って沸いた修羅場に、俄には対応できないでいる。
「瀬里奈様のお父様、お母様。こいつです。こいつが、瀬里奈様のお顔を傷付けたんです」
美音が、じわじわと間合いを詰め始めた。
本気で、海斗を打ち滅ぼすつもりなのだ。
「ちょっと、美音、落ち着いて」
瀬里奈が、宥めにかかった。
美音の変貌ぶりに軽く引いていた。
「そうよ。美音さん…。そんな物騒なもの、しまって」
鈴香も娘に加勢する。
海斗が、身の危険を覚えたのか、必死に釈明を始めた。
「本当に、誤解なんだよ。あれは事故。青井さんを助けるつもりでやったんだ」
「瀬里奈様に大怪我を負わせておいて、何が、助けるだ」
「だから、謝りに来たんだよ。咄嗟のことで、手元が狂った。
本当は、机にぶつけるつもりだったんだ。
…あのままではエスカレートする、そう思って、みんなを止める為に鉛筆削りを投げたんだ」
海斗は、意を決したように、言った。
「僕は、青井さんが、好きだ。わざとぶつける訳がないだろう」
突然の告白に、リビングが鎮まりかえる。
海斗は、思わず言ってしまい、なんとも居た堪れない表情で顔を伏せた。
「ストップ!美音、手を離して」
瀬里奈が、素早く動いて、アイアンのシャフトを掴んだ。
「ありがとう。もう、大丈夫だから」
「…」
美音は手を離さない。
瀬里奈が、シャフトを動かそうとするが、微動だにしない。
一体、この細い腕のどこにこれ程の膂力が潜んでいたのか。
「離せません。…身体が…固まって。動けない」
美音は、泣きそうな声で言った。
瀬里奈は鈴香と2人がかりで美音からアイアンを引き剥がした。
とにかく、一旦落ち着こうということになり、皆でソファーに腰掛けた。
鈴香が、お茶の用意をしてくれる。
瀬里奈は、美音の隣に座り、自分の肩に彼女の頭をもたれさせ、その髪を撫でてやる。
美音は、暴走の反動からか、しょんぼりした様子だ。
場が一旦落ち着いて、リビングに紅茶の甘く芳醇な香りが満ちる。
海斗は、立ち上がって、春樹と鈴香に頭を下げた。
「青井さんに怪我させてしまって、本当にすみませんでした。
さっきも言ったけど、悪気は無かったんです。
助けようと思ったのは事実です」
春樹と鈴香は顔を見合わせた。
病院で、娘の治療を待っている間、あれ程溢れ返っていた怒りも、今は鎮まっている。
大事な娘に傷を負わされた事には、正直、憤りもある。
しかし、話を聞く限り海斗の言い分も理解できた。
春樹は、ひとつ咳払いすると、落ち着いた口調で言った。
「結城君、だったよね。やり方はちょっと不味かったけど、瀬里奈を思っての事だから、今回は、君の謝罪を受け入れます」
「ありがとうございます。本当に申し訳ありませんでした」
海斗はもう一度頭を下げ、そして、瀬里奈を見た。
「青井…。ごめんな」
「いいよ。もう、気にしてない」
それは瀬里奈の本心だった。
事情が分かれば、逆に海斗の気持ちは嬉しい。
あの時、瀬里奈は、海斗に裏切られた気がして、悲しかったのだ。
「…瀬里奈」
と、鈴香が何やら思惑あり気な視線を寄越してくる。
「…何?」
「告白されてたけど、何も言わないつもり?」
瀬里奈は顔を顰めた。
うやむやにするつもりだったのに、何で蒸し返すかなぁ…。
鈴香を、恨めしげに軽く睨む。
「あ。僕は。全然…」
海斗はごにょごにょと言葉を濁した。
「貴様ごときが、瀬里奈様に告白するなど、100年早いわっ!」
美音が、小気味良く啖呵を切った。
「安達さん、キャラ変わってない?って言うか、瀬里奈様って、何?」
美音の剣幕に押される海斗が、何だか滑稽で、皆で笑った。
春樹が、海斗を車で送ってくれた。
あれだけの血が流れたのだ。
きっと彼も、気が動転して、兎に角謝りたい一心で、瀬里奈達の帰りをずっと待っていてくれたのだろう。
時間が遅かったので、鈴香は、2人に軽めの夜食を用意してくれた。
その卵雑炊を食べ、今日は入浴を控えて、寝る事にした。
鈴香が、瀬里奈の部屋に美音の寝床を用意してくれた。
明日は、春樹が、バーベキューをしてくれるらしい。
美音が、それを聞いて小学生の様に喜びを爆発させていた。
ベッドに入りしばらくすると、美音が、ごそごそと起き上がり、瀬里奈のベッドに潜り込んできた。
「私、誰かと一緒には寝られないよ」
瀬里奈がそう言ったのに、美音は、瀬里奈様…とか呟いて、あっという間に健やかな寝息を立て始めた。
もう…しょうがないなぁ。
瀬里奈は、美音の肩まで布団を引き上げた。
今日のMVPは、間違いなく美音だった。
あのまま教室に残ったら、どうなっていた事か、予測もつかない。
ありがとね、美音…。
これからも、よろしくね。
暫く添い寝してから、自分は美音の布団に入ろう。
そう瀬里奈は思っていたが、目を閉じるとすぐに睡魔に襲われて、朝までぐっすり眠ったのである。