20.護心術⑥
叡山は、皆を立たせると、初歩的な脱力の方法を伝える。
「脱力は、合気道では、基本中の基本にして、極意ともいえる重要な技術です…。
では、皆さん、両手を上に伸ばしましょう。
指をぴん、と、張ります。
ぐーっと、限界まで伸びてー。伸びてー。
ガンガンに力を入れてー。
はい!
力を抜きます。
落ちた腕が、腰をぱんっと叩いたら、上手く出来てますよ」
そのまま、数回、繰り返すと、腰を叩く音が次第に大きくなっていく。
「人間は、力が入ると、まず、肩や首筋が硬くなりやすいです。
腕を脱力した時の、肩がふわっと柔らかくなる感覚を覚えて下さいね。
どうです?肩周りが軽くなった気がしませんか?」
瀬里奈は肩をぐるぐる回してみた。
確かに、肩が軽くなった。
叡山は、次に、皆に仰向けに寝転ぶ様指示する。
「両膝を軽く曲げて下さい。両腕は体に添わせて脇を締めましょう。拳を握りしめて腹筋に力を込め、畳から両肩を離してそのまま全力で力んでください。はい、始め」
皆、叡山の言葉に素直に従う。誰も何の疑いも抱かず、ただ、言われた通り黙々と作業をこなしていく。
叡山の言葉には、一抹の迷いもなく、信念を持って指導している事が伝わってくるのだ。
「はい、止めー。そのまま、両手両足を畳に付けて楽にして下さい。この状態で、身体中の力を、さらに抜いていきますよ。
まず、首…。抜けましたか?意識をその部分に集中させるのが、コツです。
どんどん、行きます。
肩、ちゃんと抜けていますか?腕。手首。掌。指先。胸。お腹。腰回り。太腿。脛。足首。足の裏。足の指先。どうでしょう?このまま熟睡できそうな気がしませんか?」
瀬里奈は、身体に弱い電流が流れている様な、じりじりと痺れる感覚を感じた。
凍える手をぬるま湯につけた時みたいなくすぐったさ。
細胞と細胞が、その隙間を広げる時の小さな軋み。
瀬里奈は今、自分自身の内側に宇宙の様な奥深さを感じていた。
「どうです?もう、これ以上は、脱力出来ませんか?…。
それでは今から、橘さんが、皆さんに指でそっと触れて回ります。
皆さんは、触られた箇所に素早く意識を集中して、その部分を脱力してみて下さい」
橘女史は、叡山の合図で、思いのほか速いペースで皆の周りを歩きながら、額や肩、膝小僧、足の指先などをちょんちょんつついていく。
瀬里奈は額を触られた。
即座に意識を集中し、額をふわっと緩めると、眉間に僅かに残っていたしこりの様な力みが取れた。
まだまだ、脱力の余地は残されているのだ。
一体、私は、どれほど力んで、毎日を過ごしていたのだろうと、瀬里奈は感嘆の思いを抱きながら、脱力に没頭していった。
「はい。それでは皆さん、元の位置にお戻り下さい。楽に座ってもらって結構です。どうでしょう?身体がふわふわして、気持ち良くないですか?」
ところが、1人だけ仰向けのまま、起き上がってこない者がいる。
美音だ。
彼女は、ごっ、と鼾をかいた。
瀬里奈は思わず笑ってしまう。
全く、この子は癒しの天使だ。
今日は、いろんな事が立て続けに起こったから、きっと、美音は疲労困憊であろう。
考えてみれば、安達美音とは、まともに話したのも今日が初めてなのである。
何だか、不思議な感じがする。
10年来の友達であっても、ここまで気を許す関係にはなれないと思う。
人の絆は、長い年月を掛ければ、深まっていくというものではない。
共に生きた一瞬の濃密さが大事なのだろう。
瀬里奈は、死線を共にくぐり抜けた戦友を愛おしげに見詰めた。
皆が美音の爆睡に気付き、場が和む。
「強者が、居ましたね」
叡山がふふふ、と軽やかに笑った。
瀬里奈は、着ていたダウンジャケットを脱いで、美音に掛けてあげた。