13.邂逅
大恩ある社長の手前、すぐには退職の決心もつかなかった。
とにかく、1年間は辛抱してみよう。
風雅は覚悟を決めた。
それからも、小さな嫌がらせや無視が続いた。
気にする必要はない。
言われたことだけ、ただ、淡々とこなしていけばいい。
そう、風雅は思ったが、子供のいじめのような仕打ちでも、じわじわと彼の心を削っていく。
他者から無視されたり、他者の悪意を毎日浴び続けていると、人の心は、どんなに強靭な者であってもじわじわと壊死していく。
風雅の見事な体躯が、日を追うごとに丸まって、猫背になっていった。
皆からの冷たい視線を、憎しみで払い除けた。
風雅は孤独感を募らせた。
天涯孤独の身であることが、更に彼を弱らせていく。
山鹿鉄工に入社してようやく半年が過ぎた頃、風雅は、何処かに会社とは全くかけ離れた別の居場所を見つけようと考え始めた。
空手は、実を言えばもう飽きていたので、風雅は、前からずっと気になっていた合気道の道場を探す事にした。
家から1番近い、澄岡道場にアポイントを取り、金曜日に見学の予約を入れた。
その日は今年1番の寒さで、心と身体の両方とも芯まで冷えていた。
風雅は仕事を終えるとトレーニングウェアに着替えて、夕食も取らず、車を走らせた。
澄岡道場は、広々とした敷地に、コの字型に建物を配置した、立派な佇まいの道場だった。
駐車場は満車に近く、かなり遠くに停める事になった。
風雅の前を、20歳前後の道着姿の女性が、歩いてゆく。
風雅は咄嗟に呼び止めて、彼女に見学の旨伝えた。
女性は、急な風雅の申し出に、嫌な顔一つ見せず中へ案内してくれた。
建物の中を、彼女に付いて歩く。
「何か武道の経験者の方ですか?」
彼女は、瞳に好意的な色を浮かべて聞いてくる。
「…空手を少々」
風雅は応えながら、悪意のない人間の暖かさを久しぶりに感じて、少し泣きそうになった。
自分でも驚き、慌てて視線を宙に彷徨わせる。
やがて、道場の入り口が見えて来た。
その四角い空間の向こう側で、大勢の道着を着た人々が、賑やかに稽古をしている。
中には、風雅が密かに憧れていた、袴を着用した有段者の姿もあった。
入り口のすぐ脇に、看板が立てられており、そこには、
(護心術セミナー、対人関係、いじめ、不登校の問題を武術で解決)
と、書かれていた。
風雅は、自分でも無意識のうちに、その看板に見入ってしまった。
「興味がおありですか?」
案内女性が聞いてきた。
「今日は参加者が少ないので、当日受付も出来ると思いますよ。もしよかったら、お手続きしましょうか?」
彼女もまさか風雅が会社でいじめに遭っているなどとは夢にも思っていない。
しかし、風雅は、何か見透かされているような、強迫観念を抱いてしまう。
「護心術ですか…。何だかおもしろそうですね」
風雅はそう言って、彼女にセミナー参加の手続きをお願いした。
セミナーは7時からだったので、まだ、40分程余裕がある。
「セミナーが始まるまで中で見学していて下さい」
そう言われて、風雅は、畳の前で一礼してから足を踏み入れた。
すると、1番手前で受け身の練習をしていた、小学校低学年くらいの一団が、風雅の姿を見ていろめき立った。
「でか!」
「おじさん、身長何センチ?」
「バスケのプロ?」
「彼女いるの?」
「ねえねえ、ちょっと座ってよ」
あっという間に足元を取り囲まれる。
「分かった。分かったから」
仕方なく、風雅はその場に胡座をかいた。
すると、大きな大人が言うことを聞いたので、子供たちは俄然調子づく。
頭をぐしゃぐしゃにされ、耳を引っ張られ、両手両足にまとわりつかれ、胡座の中に座られたりした。
壁際の保護者の集まりから駄目よ、とか、失礼だからやめてなどと注意が飛んだが、誰も言うことを聞かない。
程なく、袴姿の指導者の一喝が入り、ようやく風雅は解放された。
「見学の方ですね」
その壮年の指導者は、そう言って風雅を眩しそうに見上げてくる。
「うちは和気藹々の道場です。下は3歳から、上は87歳まで、幅広い年代の方々が稽古しています」
「みんな楽しそうに稽古されていますね」
風雅は、素直な気持ちで言った。
ここには、自分に敵対する者が誰も居なかった。
当たり前だが、その事の有り難さを、風雅は身に染みて感じていた。
「見学してみて、もし気に入って頂けたら、是非一緒に稽古しましょう」
その指導者は、そう言って会釈すると、子供達の輪の中に帰って言った。
風雅の腹が、本当に久しぶりに、軽かった。
ずっと、重い鉛を飲み込んだかのように固く凝り固まっていた内臓が、本来の役割を思い出して正常に働き出す。
風雅は、軽い空腹感を覚えた。
ここに来たことは正解だったと心底思った。