10.進言
木村諒太は、その日の朝、たまたま早く病院に出勤していた。
調べ物があり、午前の診察が始まる前に終わらせるつもりだった。
用事は、思いのほか早く片付いた。
若造の分際で看護師にコーヒーを頼むのは躊躇われたので、自分で淹れ、一息つく。
木村は、現在、小児病棟を担当している。
重症の子もいれば、軽度の疾患の子もいる。
木村は、1枚のカルテをパソコンの画面に映した。
田中真理愛のカルテだった。
彼女の病名は、心因性ストレスによる胃潰瘍である。
木村は、小さく溜息をついた。
本当なら、この種の案件は専門外なのだ。
胃潰瘍という明確な病状がある為、たまたま彼女の主治医になっただけの話である。
真理愛のことを考えると、いつも、自分の無力感に苛まされる。
治療方法は定まっていて、胃酸を抑える薬の投与と食事療法である。
痛みがつづくようなら痛み止めも処方する。
それで、安静にして、経過観察。
母親から、学校での出来事を詳しく聞いた木村は、最初、1週間の入院を勧めた。
真理愛のように、学校の対人関係でストレスを溜め込み、胃や十二指腸に潰瘍を抱える子供は結構いて、彼らは大抵、しばらく学校から離れれば快方に向かう。
真理愛の場合、心的外傷後ストレス症候群の発生が懸念されたため、心療内科医と相談の上、退院後も週一回のペースで受診してもらう事とした。
真理愛が吐血する原因となった女教師には憤りを感じる。
自分の意思は完全に無視され、抵抗も出来ないまま教壇の前に立たされて、クラスメイトの奇異の目に晒された。
一体、どれ程の苦しみを真理愛は耐えたのだろう。
ギリギリまで耐えに耐え、とうとう、力尽きた。
学校なんて、命をかけてまで行くところではない。
大人はそう思うかも知れないが、子供にとっては学校が自分の生活の全てなのだ。
当たり前のように、皆、登校している。
その当たり前の事が出来なくなると、子供は自分を信じ切れなくなってしまう。
自己肯定感を感じられなくなり、些細なストレスにも過剰に反応してしまうようになる。
まして真理愛の体験した出来事は、正常な大人であってもストレスの対処が困難であっただろうと思われた。
医者としての限界。
一個人としては、真理愛には、学校に行く事に拘らず、空気の清浄なところでのんびり暮らしてほしいと思う。
だか、今の人間社会において、そんな仙人の様な暮らしは、簡単に選択出来るものではないのだ。
本来なら、文科省を始めとする教育機関が、いじめや不登校の問題をまず率先して解決して行かなければならないのだ。
しかし、周知の通り、長年蔓延る問題であるにも関わらず、根本的な解決策は示されていない。
いじめの定義だとか、認定基準だとか、そんな、当事者からすれば、何の役にも立たない議論が交わされ、対策マニュアルも有効には機能せず、結局のところ、現場に丸投げの状況である。
専門家達でも対処不能の問題に、部外者の医師がどうこう出来るはずもなく、これまで、木村は自分の無力感をただひたすら噛み締める事しか出来なかった。
木村は、更にもう一枚のカルテを画面に映した。
藤塚千尋。
高校生の彼女は、ストレス性の胃炎で病院を訪れたが、いじめによるストレスからか、自分の髪を毟ってしまい、まだらの頭を隠す為、いつも帽子を被っていた。
真理愛もそうだが、千尋もまた、目に力がなく、終始俯いて、こちらの質問にも反応が鈍い。
心に傷を負った子供特有の、外の世界すべてを拒絶するような頑なな態度。
だが、先週診察に訪れた千尋は、まるで別人のような生き生きとした光を目に宿していた。
木村は、彼女を一目見た瞬間、何だか自分まで、暗闇から光の満ちた世界へ引っ張り上げられた気がした。
学校に行ってみたいと思う。
千尋は、希望に溢れた表情でそう言った。
彼女の母親は、娘の変化に歓喜していたが、その原動力となったであろう、自分達の参加したセミナーのことを教えてくれた。
それは、合気道の道場で行われる対人関係のセミナーであり、子供でも理解できる内容の、いじめ対策マニュアルとでもいうべき、かなり実践的なものだったという。
木村は、千尋の変貌ぶりに驚き、そしてそのセミナーに関心を抱いた。
彼は暇を作って、千尋の母の紹介という形で、そのセミナーに参加したのである。
木村は、セミナーの後、道場主に話しかけ、名刺を渡して参加させてもらった礼を述べた。
道場主はまだ若く、自分と同年代と思われた。
彼は澄岡叡山と名乗った。
右の目が、おそらく外傷の名残か赤く染まっていて、それが彼に老成した武道家の風格を与えていた。
お互いに簡単な自己紹介をかわし、木村は、もし良ければうちの病院の患者にこの道場を紹介させてもらえないだろうかと、尋ねた。
セミナーの内容は、医学的な見地からの考察はないものの、木村にはかなり効果的な方策であるように感じられた。
部外者の自分が偉そうなことを言うのは心苦しいのですが、と断りを入れ、
「澄岡先生のメソッドは、素晴らしいと思います。実際にいじめを克服出来た子供達も大勢いらっしゃるし、この際、護心術として、澄岡先生の継承される武術の一環に組み込まれてはいかかでしょう?」
と進言した。
「護身術…ですか?」
叡山は、右の人差し指を曲げ、下唇に当てた。
「護身術は、身体を護るものですが、僕の言ったのは、心を護る方の護心術です」
「ああ、なるほど。護、心、術」
叡山は噛み締めるようにその言葉の意味を推敲した。
「失礼ですが、澄岡先生に医学や心理学のご経験は?」
「申し訳ありません。全く、ないです」
叡山が、素直に頭を下げて言った。
木村は、そんな彼に親しみを覚えた。
「このメソッドが、後になって、横槍を入れられるのは面白くありません。
最初から、これは、武術であると宣言してしまえば、教育機関、医学関係者、そして心理学や臨床心理の関係者は、自分達の方が門外漢ということになります」
叡山は、感銘を受けた様子で息を吐いた。
傍らに控える高弟と軽く頷き合う。
「木村先生」
こちらを真っ直ぐに見つめて言った。
「是非そのようにやらせて頂きたいと思います。貴重な忠告有難うございます。厚かましいとは存じますが、もしよろしければ、木村先生にも、アドバイザー的にこのセミナーを見守って頂く訳にはいきませんか?」
その言葉に、木村はにっこりと微笑む。
「こちらこそ、宜しくお願いします」
2人は固い握手を交わした。
木村が、叡山とのやりとりを思い返していると、慌てた様子で看護師長が診察室に飛び込んできた。
「木村先生。田中真理愛さんが、急患で運ばれてきました。
今朝、道でパニックを起こして、倒れたそうです」
木村は、弾かれたように立ち上がった。
急いで救急外来へ向かう。
木村が到着すると、真理愛は、既に意識を取り戻しており、憔悴した表情でベッドに横たわっていた。
側で心配げに娘を見詰める母親の美咲が、木村に気付くと小さく会釈した。
事の顛末を聞き、木村は、優しく真理愛に声を掛けた。
「びっくりしたね。身体の具合はどう?」
「大丈夫…」
掠れた声で、真理愛が応えた。
全く予期せずクラスメイトと鉢合わせして、事件がフラッシュバックし、パニックを起こして倒れた。
PTSDの反応で間違いない。
木村は、隣にいた看護師長に、心療内科の医師が登院したら相談がある旨伝えてくださいとお願いした。
「先生、ご迷惑をお掛けして、すみません」
美咲が言った。
「迷惑なんてとんでもない。真理愛さんは少しも悪くないですよ」
月並みだが、きちんと言葉にして、真理愛の心の負担を軽減したかった。
念の為、点滴を用意し、それが終わるまで安静にしてもらうことになった。
入院までは必要ないだろうと判断する。
木村は、決心して、2人に言った。
「お母さんと、真理愛さんに、是非参加して頂きたいセミナーがあるんです」
藤塚千尋のあの、希望に満ち溢れる瞳を思い出しながら、真理愛の身にも奇蹟がおこりますようにと、木村は願った。