0.序章
「やめなよ」
と、青井瀬里奈は思わず言ってしまった。
後悔が、じわじわ込み上げてくる。
終会が終わり、担任が出て行った後、教室はいつものように処刑場と化している。
標的の安達美音という女子生徒が、絶望的な眼差しで、このクラスのヒエラルキーの頂点に君臨する飯田沙織を見上げていたが、その視線が瀬里奈に向いた。
「何か言った?青井さん」
沙織が、意外そうな顔で言った。
クラス全員の目が、自分に注がれたのが分かった。
その瞬間、少しだけ、地球の重力が強くなった気がした。
美音のバックに付いていた手製の御守り。
それを沙織は引きちぎり、言いなりの男子に墨と紙を用意させ、「書き初め〜」と言って墨汁に御守りを浸そうとした。
その御守りは手作り感があって、美音の近親者の気配が感じられ、その事が瀬里奈の琴線に触れた。
瀬里奈の母親が習字教室の講師であることも、少なからず影響したのかも知れない。
あと3ヶ月で卒業という時期である。
美音のことは気の毒だが、瀬里奈としては、クラスのこの状況に嫌気が差すものの、穏便に過ごすつもりだったのだ。
「馬鹿馬鹿しい…」
瀬里奈は尊大な態度を取り繕って言った。
自分でも驚いたが、膝に力が入らない。
いつも美音の様子にはうんざりして、どうして反抗しないのだと憤りを覚えていたのだが、いざ自分が矢面に立つと、胸の奥がざわついて、指の先からどんどん体温が抜けていくような心細さを感じた。
それでも、生来の負けず嫌いが現れて、瀬里奈は沙織から御守りを奪い取ると、美音に手渡した。
床にペッタリ座り込んでいる美音を引き起こして、
「早く帰れば」
と促した。
美音は瀬里奈と沙織を交互に見やってから、意を決したように荷物を取ると、足早に教室を出た。
静まり返る教室。
「おい。ふざけんなよ」
沙織が、憤怒の形相で瀬里奈を睨んだ。
瀬里奈は、怯む心を奮い立たせた。
もう後には引けないと感じた。
「くだらないことしてないで、受験勉強でもしたら。ああ、ごめん。今更、無駄か」
瀬里奈は学年で一二を争う才女で、5教科の得点はコンスタントに9割を超えていた。
対して、沙織はその半分も取れない。
県内でも有数の進学校を受験する瀬里奈に追随出来る者は、このクラスにはいないのである。
どうせ高校に入れば、クラスの誰も居なくなるのだ。
瀬里奈はそう思い、強気な態度を崩さなかった。
呆気に取られた沙織だったが、すぐさま体勢を立て直した。
「ふーん。そういう態度取る?」
綺麗に整った右の眉を持ち上げ、沙織は、ゆっくりと腕を組んだ。
頂点は沙織だが、瀬里奈は実質ナンバー2だった。
本人はクラスのヒエラルキーなど全く興味がないのだが、才色兼備の瀬里奈を、クラスの総意はナンバー2に押し上げていた。
ナンバー1とナンバー2の衝突に、これはどちらに転ぶのかと皆が固唾を飲んで見守っていた。
全くの想定外とは思われてなかった。
火種は燻っていたのだ。
沙織が密かに想いを寄せる結城海斗が、去年の終業式の後、瀬里奈を初詣に誘った。
年末年始は塾の特別講習が入っていて、あまり深く考えることなく、瀬里奈はその誘いを断った。
一連のやりとりは、教室の端で内密に行なわれたが、その日のうちに情報は共有された。
海斗は細面でクールな美男子だ。
クラスには彼を慕う女子が大勢いた。
ナンダカチョットチョウシニノッテル
バランスを保っていた天秤が微妙に傾いた。
誰とでも隔てなく接するものの、親しい友人を瀬里奈が持っていないこともマイナスに働いた。
そういう土壌が徐々に形成されつつあるなかで、この事件が起こったのだ。
沙織はそんな、熱を孕むクラスの気配を知悉していた。
「いいのかなあ?」
両手の人差し指と親指で直角を作り、カメラの焦点を合わせるように瀬里奈に差し向ける。
「ロックオン」
と、沙織が言った。
瀬里奈は流石に怯んだ。
すると、彼女の内側から押し返していた圧が弱まり、外からの圧に押し負けるようになった。
一度綻びが出ると崩壊は止めようがなかった。
あっと言う間に瀬里奈の心身は恐慌状態となった。
体内の内臓すべてが削除待ちのアプリのように揺れ始める。
自分の体なのに、まるでコントロール出来なかった。
怖い…。
瀬里奈は両手の拳をぎゅっと握った。