帝都の変 2
大公のヘルマンが執務室を訪れると、皇帝ヘンリーは執務机でなく応接用のソファーで宰相のアントンと書類の確認をしていた。
皇帝の広い執務室は、伝統的な色調の壁で覆われ、広い窓には臙脂の生地に金糸の刺繍で縁取られた分厚いカーテンがあるが、今は大きく開かれ室内に光を取り入れている。調度品はどれも繊細な彫刻が施され、その飴色の艶は長い年月を掛けて磨き上げられてきた証だ。足もとの毛足の長い絨毯は、皇族だけが用いることを許されたドラゴンの五本の鍵爪をモチーフにしたデザインが施されている。
「もうそのような時間であったか。よいぞ」
「ご多忙の中、お時間を頂き有難うございます。陛下」
「なに、丁度良いのだ。今年の収穫の状況を余も訊ねようと思っていたところだ。まあ、座れ」
「恐れ入ります」
アントンが、検討していた書類を片付けスペースを開けると、ヘルマンがその隣に腰を下ろした。メイドが、紅茶を入れ替えるのを待ってヘンリーが促す。
「して、どうじゃ。今年のフルフトバールの出来は」
「はっ、育成状況は大変良く、豊作になるものかと」
「それは、喜ばしい。これで民も一安心じゃな」
「これも、一重に陛下のご威光の賜物かと」
「そのようのことは良い。実際はどうなのじゃ」
「担当している者からの報告では、マチルダ殿下のご指導を頂いた区画の育成状況が良いとのことです。その区画はフルフトバールの中でも収穫量が少ない地域で、それならばと殿下の提案を適用したのです。普段は足を引っ張っていた地区の状況が良く、全体の底上げに繋がった模様です。その者が言うには、次年度はフルフトバール全域でこの施策を行えば一割近く収穫量が増えるであろうと」
「それほどか。実は先ほど、アントンからエーデヒーゲルの報告を受けていたのだが、麦とは行かぬが今年は収穫が見込めるそうじゃ。これまで、成果らしい成果が無かったのだが、ここへ来てようやく光が差してきた」
ヘルマンは、半節季前に報告にここを訪れた時よりヘンリーの顔色がよくなっている理由はそれかと思った。表情の険しさも幾分緩んだように見える。
「たしか、エーデヒーゲルもマチルダ殿下の差配に替わったのでしたな」
「そうなのじゃ。以前から、何やら始めておったのだが、まさかこのような事を進めていたとはの・・・。してそちの用件とは何じゃ」
「一つは、フルフトバールのご報告です。概要は、今お話しした通りですが、詳しくはこちらの報告書をご覧ください。それと、こちらが次年度にマチルダ殿下の施策を展開するための費用の見積もりになります。ただ、この中でエーデヒーゲルに提供された”聖女の恵”をフルフトバールの一部区画で試してみる計画を入れてありますが、”聖女の恵”は子細が分かりませんので、希望する使用量の試算に留めております。あまり費用が嵩むならば縮小を考えます」
「それが、閣下が”聖女の恵”と呼ばれた土壌改良材の費用ですが、マチルダ殿の私費で賄われております」
アントンが、片付けていた資料の一つを取り出しヘルマンに示しながら話しだした。
「どうやら、マチルダ殿下が行っている事業の儲けが原資のようで・・・」
「・・・事業」
「閣下もご厄介になっているのではないですか?あの二日酔いの薬の・・・」
「魔力薬カップか。あれはよく効く。マチルダ様が関わっていたのか。・・・たしかコーンブルーム商会と言ったか、急成長していると聞いているが。マチルダ様が出資しているのか?」
「表には出ておりませんが。実質的な主催者はマチルダ殿下のようです」
「なんと」
「研究や生産もそこを母体にしています。そこで生まれた技術や利益を民のために使っているようです」
「遠慮ぜず、余に申し出れば予算を付けたものを・・・」
「台所事情をよくご存知ですし、それに、マチルダ殿下に公な予算が回ると、何かと言ってくるものがおりますゆえ」
「結果を出しておるのだ。問題なかろうに」
「今であれば、そのように切り返せますが・・・いえ、そのように難癖をつける者は、資金を与えたから出来て当たり前と申すでしょう」
「あれの様にか・・・」
「・・・それは、皇太子殿下のお話しでしょうか」
「うむ。マチルダが手にした途端に回り出したエーデヒーゲルの件が面白くないようでの・・・。技術を独り占めして、己の功績をひけらかす行いは国のためにならぬと、子供のようなことを言い募っての」
「実は、もう一つお話せねばと思っておりました件は、皇太子殿下の事です。無暗にこのような事をお話しするのは憚られるのですが・・・」
「申してみよ」
「殿下が先ごろ、下級貴族を集めて何やら行っていたのは陛下もご存知かと思いますが」
「あぁ、自らの事は棚に上げて、不平ばかりを声高に言っておる連中だな」
ヘンリーは苦りきった顔を隠そうとしない。
「どうも、更に宜しくない者共とも会っているようなのです」
「・・・」
「陛下のフェネックたちがマークしている者の一人です」
横にいたアントンが、息を飲む。フェネックは皇帝直属の諜報部隊でその活動は秘匿されている。
「全く。お前は・・・」
ヘンリーがため息交じりに応える。
「これでも、この国の貴族では右に出る者はいないと、自負をしております」
「ふふふ・・・。して、その相手とは」
「レヴォルテでございます」
「レヴォルテか・・・。うむ、良く知らせてくれた」
「もったいなきお言葉にございます」
ヘルマンが下がると、アントンは大きなため息を吐いた。
「相変わらずでございますね。ヘルマン閣下は」
「あそこの家系は、自らの意思で従ってやっているのだとする態度を崩すつもりは無いようじゃの」
「しかし、皇太子殿下の件を伝えてきた意図は、どの辺にございましょうか」
「マチルダの評判が上がり、貴族たちの風向きに変化がある。儂が、ヨハネスへの皇権移譲を再検討する噂も流れたのであろう」
「・・・それは」
「お前は、すぐ顔に出るな。お前が陰で噂を流し世論を動かしていることは分かっておるぞ。いや責めるつもりはないのだ」
「御見それしました」
「だが、功を奏したと言うべきか。ヘルマンの下には、ヨハネス、マチルダ両者の手の者が接触している。しかし、先ほどの報告からすると、ヘルマンは旗色を決めたようじゃな」
「いえ、ヘルマン大公自身が立つと言う選択肢もございます」
「今更じゃな。それこそ、歴代の皇帝が杞憂してきたことじゃ」
辺り一面から響く槌音で恵は目覚めた。川辺に築かれた拠点には、大小のテントが立ち並び、その周辺では朝から地均しや建設など街づくりの活気に賑わっていた。
「お目覚めになられましたか」
「おはよう、アリス姉」
昨晩は、グレート・ウルフの九頭の群れが拠点に近づいているとの急報があり、久しぶりに恵も討伐に加わったので今日の朝は遅くなった。さすがにレベル50の魔獣群れは騎士団だけでは厳しかったが、恵とルシィ、カミーユ、リュカが参戦し事なきを得た。護衛隊の他のメンバーは、物資輸送の護衛に回っている。六頭を討伐し三頭は逃げた。落ち着いてきたとはいえまだまだ魔獣は現れる。
「おはようメグ。昨晩はお疲れ様」
「おはようシャーリー。頻度は減っているし、問題ないよ」
「先ずは、城壁ね」
「初めから、あんなに広くしなくて良かったんじゃない?」
「何言ってるの、すぐに手狭になるって。街づくりは百年の計とか言ってたのはメグでしょう」
「そうだけど」
「アクセル様は?」
「今日は朝から、フェリックス様と西地区の視察に行っているわ。殿下は本当に働きものね。明日には召喚に応じて王都に向かうと言うのに」
「フェリックス様も頑張ってるよね。結構息合ってるよねあの二人」
「昨日の夜も、貴方が討伐に向かった後も、進捗表を見て二人で議論してたわよ」
「フィアンセが、討伐に行ったのだから少しは気にかけてほしいところだけど・・・」
「心配するだけ無駄って知ってるんじゃないの?」
「なによそれ・・・っぷ」
「自分で笑っちゃダメじゃない」
「街づくりは、二人に任せておけば大丈夫そうね」
「そうね。それで、王都の方の情報は来てる」
「アレクシス様とライアン兄がヴォロンテヂュール侯爵を呼んで何か始めてるらしいけど、その後の情報は入ってないよ。この件は、エマ姉も知らないみたい。派閥の件がメインだと思うけど、それも今回のアクセル様の召還と関係しているのかな?」
「王権移譲が決定して、王家の守りも皇太子殿下の命に従うようになってから、情報が入らなくなったよね」
「結局、例の親書も公には受け取ったことになって無いしね」
「あの、ヨハネス皇太子からでしょう・・・絶対なんかある。私、聖都のパーティーの時に見たあの虫けらを見ているような眼差しまだ覚えてるよ。それに、側近の何とか云ったあいつの厭らしい目つきも。あれ見てさぶいぼ出来たもの」
「なんだかんだ言って、アリス姉がああなった大元だもんね・・・クロエお姉さまどうされるのかな」
「王妃陛下と一緒に、皇太子殿下の支援をしようと陰で動き出したんでしょう。その中で何とかするんじゃないの?」
「セリアちゃんが企画しているやつね。皇太子殿下の王権移譲をスムーズに行って、今起こっている貴族たちのざわつきを収めようとしてるっていう。それで私にも暫く自重しろって」
「今更よね」
「ヘルマンめ。余計なことをしおって」
「大公様が陛下の背中を押したようなものです。予測していた時期が随分と早まりました。これでは、こちらの準備が整いそうもありませんな」
ヨハネスの執務室には、相変わらず彼の不満の声が響いている。皇帝ヘンリーは、ヘルマンのもたらした情報を基に、ヨハネスが反逆を企てている過激派と繋がっている裏付けを取られてしまった。それまで煮え切らなかったヘンリーも、とうとうヨハネスを廃太子とする準備を進めはじめた。
「王国からの返事はないが、了承されたものとして、進めるしかないか」
「大公様が手を出さないのであれば、現状なら我々は勝利できるでしょう」
「廃太子の布告は、来節季に皇城で開かれる定例議会の席上と思われる。その時までに、王国からの返事が無くとも・・・いや、アレクシスが我が手を取らなくても、計画通り進めることとする」
「しかし、それでは王国からの動きが自然に陛下の耳に入るようにすることが出来ないので、計画に修正が必要となりますな。王国との窓口で得た情報として流しましょう。それにエンリコ司祭を追従させれば、皆も信じます。此方よりの貴族からも声を上げさせましょう」
「坊主どもを使うと、色々煩いぞ」
「この度は、すこし脅してみましょう。こちらには、エンリコ司祭から狂信者どもに聖都の会談日程が渡った証拠がありますゆえ」
「こちらから持ちかけたのだ、証拠も何もないだろう。あまり、派手にして後から騒がれぬようにしろよ」
「なに、事が済んでしまえば、企みがばれても痛くも痒くもありませんので、勝手に騒がせておけばよいのです」
「時間が無いぞ、準備を急げ」
「御意」




