序章
サリアが去った境界北部、砂漠の入口の小屋の付近。
そこでは、今日も今日とてやんちゃな娘が一人で遊んで喧騒を起こし、見守る母親を心配させ、さらにそれを見守る猫の魔族を微笑ませていた。
豪快な父も、内気な姉も、明るい義姉もいなくとも、一家の太陽がいる場所はいつも賑やかだ。
姉と違って元気活発な妹勇者は、遊び相手の竜がいなくなった後も砂丘の上ではしゃいでいた。
一家が暮らしていた場所はこの境界の中でも特に豊かな土地だ。
オアシスの畔で何不自由なく育った妹勇者には、乾いた砂漠が珍しいのだろう。
きゃいきゃいと歓声を上げながら焼けた砂の上を裸足で歩いたり、斜面を転げてみたりとやんちゃ盛りだった。
「まぁまぁ、ソレルちゃんは今日も元気ねぇ」
「フェリアさん……でも、あんなにはしゃいで大丈夫でしょうか。こんなに暑いのに……」
そう言って娘を見守るシオリの額からは玉のような汗が流れている。
実際、ぼんやりと立っているだけで眩暈がするような暑さだ。
その中でああも元気に動き回っているのを見ると流石に心配にもなるのだが、人間よりは勇者に詳しい魔族からすればそれほど気にする事でもないという。
母親仲間に水の器を差し出しながら、猫の女は目尻を下げたままだった。
「平気よぉ……勇者は世界の声の代理人なんだから、自然に脅かされることはないわ。あの子もそうだったけど、問題は人間だけね……」
「………」
凍える吹雪の中、人間に裏切られて流れてきたあの少年。
灼熱の太陽の中、母に見守られて遊ぶ幼い少女。
遊んでいる方をのんびりと眺めながら、フェリアは対照的な二人の勇者を想っていた。
世界の危機を救うべく現れる勇者たち。
あの明るく無垢な妹勇者も、安否がわからない姉勇者も、いずれは大人たち、過去の人間たちが生み出した闇と戦わなければならない。
その原因が人間という種族であることは間違いないが、勇者の任に付けられた本人たちには何の責任もない。
勿論、その家族も同じことだ。
だが子の親、特に母親は我が子の身に起こる不幸には多少なり敏感になるもので、シオリも彼女らの行く末を思って暗い顔をしていた。
「……あの子たちの笑顔が陰ってしまうのは、怖いです。メイアのことも心配ないって、サリアもよく励ましてくれましたが……今は無事でいるでしょうか」
「あははは……サリアじゃないけど、それは絶対心配ないわぁ。勇者の力はシオリさんだって知っているはずよぉ。魔族が神気の加護を得たって大変な相手なんだから、人間に殺されるような事はないわ。もし捕まってても、捕まえた人間の方が大変な目に遭ってるかもねぇ」
最後の一言は半ば冗談だったが、実際『騎士団』は姉勇者に手酷く返り討ちにされている。
挙句ほとんど飼い慣らされるような形で開拓地の世話を任せられていたが、この場にいる母親たちには知る由もない。
とにかく、人間であるシオリは娘の安否を気にしていたが、勇者の力をよく知る獣の母子の反応は比較的楽観的なものだった。
サリアは不在だが、狩りはフェリアが担当し、この小屋には井戸もあるので、水が枯れない限りは残された三人が暮らしに困ることはない。
そもそもこの地は魔界に近く、僅かだが神気の加護も得ることができる。
そのためこの小屋は境界で育った、或いは生まれた子供たちが、魔界に帰化する際に神気の力を扱う修練場という側面もあった。あの少女が念話の術を使うことができたのもそのためだ。
そのため、三人はサリアと少女が帰るまで、ゆるりとここで待っているつもりでいたのだが、
「……ひぃっ!?」
「うん!?」
突如シオリが奇声を上げた。
フェリアが何事かと母親仲間の足元を見ると、拳大で黒光りする玉のような虫がぞろぞろと行列を作っていた。
この巨大な甲虫は、荒野や砂漠地帯に生息するスカラベという生き物だった。
水気を嫌い、他の動物の糞や死肉を喰らって生きる虫であり、境界全体では珍しくもないのだが、その特性から彼らの主な生息地は水場の貧しい境界の東側だ。
見慣れない巨大虫の姿に、シオリはあからさまに怯えた様子だったが、
「……あら、この人たち……」
「え……人?」
フェリアは早々にに警戒を解いた。
スカラベの行列はどういうわけか、砂丘で遊ぶ妹勇者に向かって伸びている。
フェリアは群れ為す中から一匹を丁寧に掬い取り、手の上で動きを止めたそれを、何故か自分の耳に当てた。
「フェリアさん、何を」
「しーっ、ちょっと黙ってねシオリさん……この人たちの声はものすごく小さいんだから……」
フェリアはシオリを黙らせると、虫の発する『声』に意識を集中した。
そう、彼らもまた魔族なのだ。
かつて境界の荒野に渡り、定住した虫族の末裔の一部は、この地に適応した姿になっていった。
魔神と戦うことはないが、生き物を狩らない彼らは境界の環境保全と『渡り』をしてきた魔族たちの案内役になっていたのだ。
かつて世話を受けた事もあるフェリアはその事を知っていたし、こうして群れて行動することの意味にも気付いていた。
だからこそ、通じるものと思って呼びかけたのだ。
「どうなさったの、東に住まう虫の同胞さん……こちらにおわすのは確かに勇者様ですけど、あの子に何か御用かしら……?」
すると思った通り、余りに小さな、囁くような声で虫が返事をしてきたのだ。
「会えて光栄だ、水場に住まう獣の同胞。いかにも私たちは勇者様に用がある。伝えなければならないことがあるのだ」
「伝える? 何を」
「……ご本人には今、仲間たちが申し上げるが……『騎士団』の長が倒れたのだ。勇者の片翼の手によって」
「……メイアちゃん!?」
フェリアの叫びに、シオリが身を乗り出した。
『騎士団』の長オグマは、姉勇者メイアに挑み、そして敗れた。
その事は自分の土地を追われ、境界東部に追いやられていた人々の耳にも入ったという。
その結果、これまで日和見をしていた人々は一斉に『解放軍』への集結を始め、自らの土地の奪還のために東から西へと大移動を始めたとの事だった。
劣勢で、更に団長を欠いた『騎士団』は新たな指揮官を立てたが、すでに窮状は覆しようもなく、自分たちが追い立てた人々の前に敗戦を重ねているという。
「え? ……えぇ?」
そして、『騎士団』を捕らえた人々が始めた事は、と。
スカラベの魔族たちは小さな妹勇者を取り囲み、狼狽える彼女に事情を告げると、まるで拝むように細い前脚を持ち上げた。
「……勇者よ、立ち上がる時が来たのです」
「人間たちは今、同族を相手に凄惨なる殺し合いを為しているのです」
「今も魔界の神々に向け、死せる魂たちが無数に向かっているのです」
「そして刻一刻と魔神の出現が近づいておりまする。されど人間はその事を知らぬ」
「血気に逸った愚かなる者共は、力により抑えられねば止まりませぬ」
「『審判の勇者』が動けぬ今、あなたがたしかいないのです」
「勇者よ、どうか」
「勇者よ」
今こそその力を持って人間を諫めよ、と。
あまりに幼く無垢な少女は、奇妙な導き手たちに囲まれながら、今はただ眼を白黒とさせるだけだった。




