7話
樹海の中は、時と共に白い霧に満たされていくようだった。
明らかに超自然的な気配を持つ白い霧は、どういう原理なのか発光していた。それは日の暮れた森の足下を薄らと照らし、行くべき道を示してくれているようだった。
それでも、なぎ倒された倒木の道は歩きやすいとは言えない。
苦労して歩く少女の足に合わせ、少年と妖精は急いだ。
霧に阻まれ周りの様子は見えにくいが、少し視線を上に上げると大猿の姿はより鮮明に見える。
山のような巨躯の魔神は相変わらず暴走していた。
腕が振るわれる度に距離の空いた少年少女たちの所まで烈風が吹き付け、足を踏み鳴らせば一瞬だけ地震が発生する。
その一撃が地面を揺らすたび、少女は小さな肩をびくつかせたり、一瞬凍りついたりと忙しい。
「こら、びくびくしない」
少年はそんな彼女を窘めながらも、ある程度は仕方ないとも思っていた。
あの拳が地面に降り注ぐ度、何人かは確実に死んでいる。
場慣れしていない彼女にとって、恐ろしいことは間違いないだろう。
ましてや今からその足元に迫ろうというのだから、なおさら。
「むっ、イクトさん!」
「!」
しばらく歩いた所で霧の向こうから獣人が現れ、声をかけてきた。
現れたのは槍を持った虎顔の大男。視界が悪い中で突然猛獣の顔が現れたので、少女は驚き飛び上がって少年の背に抱き着いた。
「うっわ、だから、いきなり抱き着くな……!」
「はは、お嬢さんも無事か。よかった」
少女はそうしてしばらく隠れて震えていたが、現れた虎男は見覚えのある顔だ。知り合いの姿に安心し、溜息を吐いて緊張を解いた。
そんな少女に虎男は一つ笑って、すぐ少年に向き直った。
「狼王様がお待ちです。さあ、こっちへ」
「うん」
見上げると、もう魔神が近い。
間近で見るとまるで巨大な壁が聳え立っているようだ。
虎男に呼ばれ、近づくにつれて圧力を増す威容に、獣人たちは、
「うおおおー!」
果敢に立ち向かっていた。
いよいよ魔神の足下に辿り着くと、そこでは戦士の群れがそれぞれの獲物を手に、大木のような大猿の足へと必死に挑んでいたのである。
彼らの攻撃など、やはり蚊が刺す程度にしか効かないだろうが、それでも同じ場所に攻撃を重ねたり、爪の隙間を狙ったりと、着実に傷をつけていく。
それがどの程度の意味を持っているのか少女には分かりかねたが、よく傷口を見てみると気になる所があった。
「……あぁ、あれ?」
傷口から、血の代わりに何か靄のようなものが漏れ出している。
傷つけられたところからとめどなく漏れ出すそれは、少しずつ辺りを満たし、霧に包んでいくようだった。
「あれは『神気』という。わかりやすく言えば、魔神の力の源だ」
あれこそが魔神の出現と同時に現れ、今も視界を遮っているあの白い霧の正体だと少年は話してくれた。
薄らと発光するそれは、確かに周りを満たしている空気と同質のものだ。
少年曰く、これは見た目こそ霧だが実際は魔神の血に相当するものだという。
「ああやって、魔神に傷を付けて力を……神気を放出させるんだ。生き物が出血したら死ぬように、魔神もああして傷つけ続ければ倒せる」
一見無意味に見える攻撃も、しっかりと敵の力を削っているらしい。
確かに、先に比べると大猿の拳は速さを失っているようで、森を進んでいた時に比べるとそこまでひっきりなしの攻撃は飛んでこない。
ただ、そのための犠牲は少なくなかったらしい。
少女が少し首を回すと、大猿の足元には何か赤いものが見えた。
「!」
先に魔神に挑んだ戦士たちのものだろう。
地面には、夥しい数の獣の亡骸が転がっている。
何せあれだけ大きな敵だ。蹴られたか吹き飛ばされたか、あるいは潰されたのか。
半身が無かったり、腸が飛び出ていたり、少女には直視に堪えない有様の死体がいくつも見え、その衝撃に背筋が凍った。
恐怖で足が竦み、胃液が上がってきて喉が痛む。
その時、
「リズ」
少年が静かに名を呼んだ。
はっとして彼と目を合わせる。
彼の瞳は静かで、何を言わんとしているのかは知れない。
ただ、落ち着け、と。
強くそう言われた気がして、自ずと少女は静かになった。
今はただ、凄惨な獣たちの亡骸に手を合わせるだけ。
そこに、大猿の攻撃を弾いた狼王が飛来した。
「気に病むな。これが、この地に生きる者の宿命。神と付き合い続ける中で、ずっと続いてきたことじゃ」
「……?」
付き合い続ける、とはどういう事だろう。
疑問を汲み取って、狼王は続けた。
「あれは、わしらの守護神なのだ。普段は我らを守ってくれるものだが……訳あって度々暴走してしまうのじゃ」
「フェンリル、後にして。その話は長くなる」
長話が始まりそうな気配を察して、少年が窘めた。
今は長話をしている場合ではない。
白い剣を斜に構え、少年は飛んでくる木っ端や石片を叩き落とす。捌き終えると続いて今度は巨拳が少年を狙って飛んできた。
白い剣は大きく振るわれて拳と拮抗し、払いと共に大猿の拳をはじき返した。
凄まじい衝撃と共に腕が吹き飛び、それに引っ張られて大猿の上体が崩れた。
「リズを頼む」
少年は狼に言うと、生じた隙を見逃すまいと大きく飛び上がった。
一足で周囲に残った木々より高く飛翔した少年は、あっという間に魔神を上空から見下ろし、
「はあっ!」
大猿の脳天目がけ、体ごと剣を思い切り振り下ろした。
白く輝く剣が高速で降り落ちる姿はまるで流星のようで、光と化した少年は大気を割り裂く轟音と共に巨大な魔神に襲い掛かる。
無論、魔神の方も黙ってやられてはくれない。
体勢を立て直した巨大な拳が、今度は下から上へ振り上げるように剣を迎え撃った。
再び、空中でぶつかる拳と剣。
今回は少年もただ吹き飛ばされはしない。
両者の力は拮抗し、互いの攻撃を殺し合い、そして、
「ふんっ!」
下から突き上げられ、上昇したことを利用して、落下の勢いのまま二合、三合、四合、と攻撃の応酬は止まらない。
剣と拳は、一合ごとに勢いを増し、樹海の上空でぶつかり合い辺りに衝撃の烈風を巻き起こす。
常人の身体ではたとえ受け止めても身体が砕けるような攻撃。それを何度交わしても、少年は止まることなく剣を振るい続ける。
少女は隣に座る銀狼が言った言葉を思い出していた。
黒騎士は只人ではない、と。
思えば、山のような大きさの魔神の頭上まで、何の助けもなしで飛び上がり、隕石の衝突のような攻撃と拮抗するなど、とても人間業ではない。そのことを今になって気にする少女の神経も尋常とは言い難いが。
細かいことを気にしている場合ではない筈だが自分の状況を顧みず少年を見守る姿を見て、これまで地上を守っていた狼王は、
「……ふっ」
何を感じたか、一人笑っていた。
「案ずるな、小娘。この戦い、もうそう長くはない……者ども、ここは頼むぞ」
「応!」
己の民に号令すると、狼も相棒が着地した木の上に一足で飛び乗った。
「苦戦しておるようだな」
「そう思うならもうちょっと早く来てよ」
至極もっともな文句を垂れながら、二人は飛んできた魔神の拳を跳躍でかわした。
「……うん、とりあえず上手いこと、僕に注意を引けたみたいだ」
魔神の攻撃が地上を狙うことは少なくなり、そのほとんどが少年と狼に集中するようになっていた。彼らが各々一人で魔神を相手取っていたのは囮の為だ。
それをわかっているのか、地上の戦士たちは上空からの攻撃を気にすることなく大猿の足の相手ができていた。
だが、それももう長持ちはしないだろう。
魔神との戦いは随分と長引き、屈強な獣たちも肩で息をしている。
満身創痍の戦士たち。
その頭上で、二つの星が輝いた。
「……!?」
発生源と見える上空では、大木の頂点に立った少年と狼が群れを見下ろしていた。
突如現れた強い光は二人が放ったものだ。
剣を持っていない少年の左手には、神秘的な青い光が宿っている。
狼王は銀の全身を白く輝かせ、まるで存在を膨れ上がらせるようにその姿を膨張させていた。
「決めに行こう」
「うむ」
魔神も二人も、度重なる衝突ですでに傷だらけだ。
互いに体力の底が見え始めた。勝つにしろ負けるにしろ、これ以上戦いは続けられない。
今が勝負。
二人の様子は同じくそう告げていた。
「この光……」
「お二人がやる気だ」
魔神の足に取り掛かっていた獣人たちがざわめき始めた。
と、同時にじりじりと少しずつ後退していく。
一人置いて行かれることがないように、妖精が急いで少女を促した。
「おねーちゃん、逃げるよ」
「?」
逃げるといわれても、少女は監視対象から離れてはならないはずだ。
腕輪を見ながらそう思っていると、妖精は察して補足してくれた。
「黒騎士様が言ってたでしょ。それは魔王様の監視装置だって。ちゃんと魔王様も見て調整してるから、ちょっと離れるだけなら大丈夫だよぉ」
小さい手で金髪を引っ張り、退却するように促した。
「黒騎士様が、魔法を使いますよぉ」
魔法。
童話や物語の類では欠かせない、超常の力。
空を飛んだり、願い事を叶えてくれたり、少女の空想はそういった可愛らしいものだったが、
「……!?」
樹上の剣士が使おうとしている魔法は、そんな生易しいものではなかった。
傷口から湧き出す霧の中、輝く二人に向け、
「ぐおおぉぉぉ!」
大猿がまたも拳を振り上げ、最後の攻撃に出る。
「援護は頼むぞ、我が息子」
「わかってる」
少年は蒼く輝く左手を胸の前にかざし、指を立て印を結んだ。
迫る大猿の拳。
幾度目かわからない巨拳の猛攻に、少年はまたも飛び上がり単身で挑む。
今度は剣を振ることもしない。
光る左の平手を勢いよく突出し、掌底を以って怪物の巨拳に衝突した。
その瞬間、
「あれが『氷の封印』……イクトさんの得意技。」
蒼い光が消え去り、代わりにぱきぱきと何かが砕けるような音が聞こえた。
音は次第に大きくなり、少年と大猿の手の間に青白い氷の壁が現れる。
山ほど大きな魔神の胴から上をすっぽり阻むような巨大な障壁だ。
氷の壁は見事に巨拳を防ぎきって見せ、さらに、
「ぐががごごご……」
壁に触れた拳を腕もろとも凍り付かせたのである。
氷は拳から腕、肩まで走り、やがて大猿の巨体、その全身を凍てつかせた。
行使する少年曰くこの術は魔神の動きを止め、狼王が止めを刺すお膳立てなのだという。
ただ、この『氷の封印』も魔神が完全に健在なら使えない。
戦士たちの奮闘により魔神が傷つき弱って初めて成功する技であると、妖精は少女に説明してくれた。
「フェンリル」
「応」
白い光を帯びた銀の毛皮が眩く輝く。
銀の狼の体が、光の膨張とともにみるみる巨大化していく。
魔法に見とれていた少女が、次に起こった狼王の変貌に驚愕していると、
「お嬢さん、危ないよ! 早く離れなよ!」
獣戦士の一部があわてて呼びに来てくれた。
どうやら、退却した一団から大きく離れてしまったらしい。
それでもなお、少女は巨大化する狼を見つめ、察した獣たちは彼女を庇いながら説明してくれた。
「……あ、そうか。お嬢さん、王国の人だったね。魔神を見るのも、戦う王を見るのも初めてかぁ」
「?」
きょとんとしている少女に、獣たちは口々語る。
「もう狼王様に聞いたと思うがね……。あれは、我々の守護神様だ。そして王は、戴かれる代わりに俺たち民とともに暴走する守護神を鎮めなければならない。そして、とどめを刺すための力は、魔族の王たちだけが持っている……ごらん」
虎男が指差す先、銀狼の変態はすでに終わっていた。
真っ白に光を放つ、大猿にも負けない巨大な狼の姿。
どこか少年の剣と雰囲気の似た、しかしそれよりも遥かに強い存在感を放つ白い光の獣が現れた。
少女が狼の神々しい姿に見とれていると、辺りの戦士たちも交え話が続く。
「あれが『神化』だ。王たちは、辺りの神気を身に纏って自分の体を一時的に魔神に変じて戦うことが出来る」
「ただ、長くは保たん。せいぜい三分くらいだ」
「だから、俺たちが魔神を傷つけ弱らせる。そして王がとどめを刺す。そうして『魔神』を討ち、『守護神』へと戻す」
「それが俺たち魔族の使命だ」
少年はあれほど強大な魔法を扱って見せながら、止めに加わることなく少し離れた場所で見守っている。
魔神の討伐は魔族の使命だという。
人間である彼はお膳立てをするだけで、最後に華を持つ事はしないのだそうだ。
最も、大猿は凍てついていて動ける様子ではないので、援護の必要もないのだろうが。
「ウオォーーーン!」
日の落ちた森に咆哮を響かせ、光り輝く巨狼が盛大に爪を振り上げた。
一本一本、まるで大木のような長さと剣のような鋭さを持っている爪だ。
凍った体でまともに受ければ、粉々に砕け散ることは必至だが、
「ぐぐ、ぐ……」
やはり、そこは相手も神だった。
「グオオオ!」
氷の封印を内側から砕くと、大猿は巨狼の前足を左腕で掴み、爪を止めたのである。
そして、残った右腕で狼の長い顎を砕かんと拳を振りかぶり、下から突き上げるように殴打を放った。
あわや狼王は痛烈な反撃を受けるところだったが、
「おい」
その刹那。
白い光の剣を携え、漆黒の影が夜空を駆ける。
影は流星となって高速で向かい来る拳に衝突し、そして、
「僕を忘れるんじゃない」
大猿は一瞬にして右手首から先を切り落とされた。
少年の剣によって手と共に威力を失った殴打が空しく空を切り、
「ウオォォォン!」
残る左腕も流星の二撃目で肘から断ち切られ、巨狼が拘束から解き放たれる。
枷の解けた狼王が、腕のない魔神に今度こそ引導を渡す一撃を振り上げ、
「ガウゥ!」
光の爪の一振りを以って大猿を肩口から引き裂き、腰にかけてその体を両断した。
樹海の中に突如現れた大猿と巨狼。
両者は短いながらも激しく攻防し、たった今狼の爪に引き裂かれた猿が、傷口から光の霧を吹き出しながら崩れ落ちるところだった。
巨獣同士の壮絶な決着の光景は、樹海の隅々まで行き届いた。
それは勿論、王国の国境からも望めたものだ。
国境砦では、望楼から多数の兵士たちが怪物の戦いを見守っていた。
「警戒! 警戒!」
勿論、彼らが魔界の事情など知るはずもなく、砦は誰も彼もが緊迫した様相だった。
巨大な怪物同士の激突はこの砦から度々目撃されるものだったので、砲を用意したり防壁を立て直す動きは落ち着いている。
しかし森と草原をまるごと隔てていても、戦いの衝撃波に障壁がなぎ倒されるくらいなのだ。例え襲ってこないとわかっていても、警戒を緩めるわけにはいかない。
猿の怪物が倒れた後も、残った狼の襲撃が無いとも限らない。そう考えて兵士たちは皆厳戒態勢を貫いていた。
実際一度もそんなことは無かったが、彼らの対応はほとんど慣例的なものだった。
そんな中、ただ一人だけ別の物を見つめている人物の姿があった。
誰もが巨大な獣の姿に目を奪われる中、彼だけは見逃さなかった。
大猿の両腕を切り落とした光の軌跡を。
それを携えた漆黒の姿を。
「あれは……?」
小奇麗な服を着た少年が、少しあどけない蒼い瞳で夜空を横切る白い残光を見つめていた。
少女の後方では、大きな勝鬨の声が上がっていた。
大猿が倒れ決着が付くと、巨大化した狼王が光の霧を散らしながらしぼみ、空中で元の姿に戻って群れの中に着地した。
生き残った獣人たちは、王の帰還と共に勝利を喜び合っているようだったが、そんな中で浮かない表情の人物が一人。
「……自分たちの守護神を倒していいのかって、思ってる?」
「!」
背後から突然声を掛けられて、ついでに図星を付かれて、少女はまたも飛び上がってしまう。
いつの間にか戻ってきていた少年が、相変わらずの無表情で立っていた。
「とりあえず、心配はいらない。相手は神様だから、殺しても死にやしない……ほら」
「……?」
促され、振り返ると、そこには。
「!!!」
先ほど倒したはずの魔神が、何食わぬ顔でのっしりと聳え立っていたのである。
大猿は座禅のような格好で座りながら、黒い目でじっとこちらを見つめていた。
倒した筈の敵が何食わぬ顔で復活しているので思い切り慌てふためく少女だったが、獣人たちが変わらず騒いでいるのを見て、何か様子が違うことに気づいたようだ。
「あの守護神……『獣神』は正気に戻った。もう襲ってきたりはしない」
確かに大猿は大人しく座ったまま、暴れ出す素振りも見せない。
魔神は元々守り神だと言っていたが、倒されることで元に戻ったりするものなのだろうか。
少女が疑わしく思っていると、突然、
「その娘、人間の子か……」
「~~!?」
重く太い声が樹海を揺らすように響く。
突然大猿に声を掛けられた少女は思い切り驚いて庇護者の背中に抱き付いた。
「うっわ、こら、離れろ」
いきなり組み付かれた方もたまらない。
半泣きの少女を強引に引っぺがし、少年も大猿に向き合った。
禍々しい緑に輝いていた大猿の双眸は、生物じみた黒い瞳に変じている。
少年の方もいつしか戦士の闘気を収め、自分が連れ込んだ少女の事を大猿に紹介したのだった。
「ごめん獣神。承諾なく連れてきた。魔王には話してあるから……」
「良い、黒騎士。わが子らの友よ。我らは客を嫌わぬ……して」
獣神は変わらず怯えきっている少女を見つめていた。
「人間の娘よ、そなた、我らに縁ある者か?」
「……?」
言われた方は何のことかわからない、という顔をしている。
彼女の反応を見て狼王は微かに目を丸くして少年と目を合わせたが「今はよそう」と彼が首を振るとすぐに合点したようだった。
改めて大猿に向き直り、答える。
「……そんなはずはない。あんたも知っての通り、僕たち人間は遠い昔に魔界と袂を分かった。守護神も失っている。今更縁者なんて……」
「……?」
守護神を失った。
さらりと重要そうなことを口走りながら、少年は厳かな声で語らう獣神と対する。
何の臆面もなく神と呼ばれる存在と会話する少年に、横から狼王が口を挟んだ。
「我が族神よ。話すのもよいが、まずは散った同胞たちを頼む」
「うむ、そうだな……」
大猿が眼下を見下ろすと、そこにはおびただしい数の獣人の亡骸が並んでいた。
無造作に積まれているのではなく、綺麗に並べられている。
生き残った者たちが一人一人運んだようだ。
五体が引き裂け原形をとどめていない者も多かったが、散った体もできうる限り集められ、極力原形を再現するように寝かされている。
仲間の亡骸をこうして集めるのは、肉体的にも精神的にも辛いことだろう。
振り返ると大騒ぎしていたはずの獣戦士たちがいつの間にか静まり返っており、大猿に向かって跪くような格好になっていた。
結跏趺坐した大猿が亡骸たちに視線を向けると、生き残った者たちは揃って平伏した。
挙句一部の者は顔を伏せたまま泣き始めた。先ほどまで浮かれていた様子が嘘のような沈みようだ。
雰囲気からは全く感じられなかったが、集落の男全員でかかり、その半数は死んだ。
黒騎士と狼王の大立ち回りの陰に隠れていても、魔物や神を相手に最も熾烈に戦ったのは彼らだ。
こうして魔神を鎮めたのは、他ならぬ犠牲となった戦士たちなのだ。
きっとその勇敢さは誇るべきことなのだろうが、
「………」
少女は声なく呻いた。
血に慣れていないせいもあるだろうが、心優しいこの少女には彼らが受けた痛みを慮るのが先に立つ。
本人たちもそうだが、集落にて訃報を聞く家族たちはどうなるだろう、と。
そう思うと涙が止まらなくなって、つい少年の服に縋ってしまう。
「……だから、くっつくんじゃない」
少年はそう言いながらも今度は邪険にせず、抱き着いてくる少女にゆっくり語る。
「見て」
少女は促され、顔を上げた。
指す先は獣神と犠牲者たち。
大猿は大きな手を差し伸べ、寝かされた地面ごと亡骸を余さずすくい取っていく。
そしてそれを、
「!」
大口を開けて、一息で飲み込んでしまった。
身を竦ませ涙ぐむ少女に、しかし少年は落ち着いた声で言った。
曰く、あれは戦いで散った者たちの葬儀なのだという。
「何度も言うけど、あれは神様だから。ああして死んだ人の魂を連れて行ってくれる。次の生まれ変わりに、導いてくれるんだ」
「……?」
「……ほら、みんなが逝くよ」
言葉と共に、獣神の姿が薄れていく。
あれだけ大きく、存在感のあった大猿の姿は少しずつ透けていき、同時に周りを満たしていた霧も晴れていくようだった。
視界が開け、戦いに荒れた森がはっきり見えるようになり、代わりにその元凶の姿は夢のように薄れていく。
見守る少女の耳には変わらず淡々とした庇護者の声だけが響いていた。
「ここの神様たちは、ああして死人の魂を引き受ける。そして、次に生まれる体に導いてくれる。その時に記憶を引き抜いて自分の力である神気に変え、糧にするんだ。そうして魔界の……この世界の命は回っている」
「でも」と前置いて少年は振り返り、なぎ倒された森の木々を視線で示した。
熾烈な戦いの痕をまじまじと見ながら、しかしこの光景が魔界ではさほど珍しくないことを語ってくれた。
「……神様も万能じゃない。彼らは定期的に力の消化不良を起こすんだ。守護神が力をため込みすぎると、発散するために暴れ出す……魔神になる」
「そして、わしら魔族が魔神を討ち、鎮める。それがこの魔界の自然であり、魔族の永遠の宿命じゃ」
言いながら、狼王が数歩前に進み出る。
「我が族神よ、民に言伝があれば聞こう」
霞のように消えていく猿の神は、平伏する自分の民たちを見ていた。
しかし、彼らをまっすぐ見据えながらも、時折視線は黒衣の少年と困惑顔の少女の方を気にしているようだった。
「まずはわが子らよ、苦労をかけた。世界の倣いに生きる者らに感謝する。再び我が加護がそなたらを守らん事を……」
これは、鎮められた神が自分の民にかける定例の挨拶らしい。
だが決して形式的なだけではなく、言葉にはしっかりと重み、思いが宿り、声がよく胸に響く。
狼王が復唱すると、平伏する獣戦士たちの中には涙を流す者さえいた。
なので間違っても片手間で話しているわけではないのだが、
「そして、人間の子らよ」
言い終えると獣神は少年たちに向き直った。
「僕たち? ……あまり長居はできないでしょ、早く言いなよ」
神と呼ばれるものに対して随分な態度だったが、消えゆく獣神は気にした様子が無い。
そのまま視線を東へ。
そこには王国の国境砦が聳え、その彼方には王国の首都がある。
大猿は巨大な手でその方向を指さした。
「……呼んでいる」
「なに?」
星空に溶けていく大猿は静かに告げた。
目線は少女の方に向けながら。
「王国に、そなたを呼ぶ声がある」
「……?」
「それは、どういう」
少年が口を挟みかけたが、
「そして、黒騎士よ。そなたが求めるものもそこにある」
「……!」
大猿が言葉を重ねて遮った。
この偏屈な少年が大人しく黙らされたところを見るに、彼にとっては重い言葉だったのだろう。狼王の視線も鋭くなっているようだった。
黒騎士が求めるものといえば、少女に思い当たるのは一つしかない。
出会ってそれほどの時間は経っていないが、彼がどれほど執念深くそれを待っていたのかはわかる。
姿と共に薄れゆく声が少年に命じた。
「黒騎士よ。姫君を守り、王宮を目指せ。王宮にそなたらが会うべき者がいる」
「待て、それは勇者か……!?」
少年は委細を訊ねようと手を伸ばし、強い口調で猿神に問いただす。
しかし大猿の姿は星空に溶け、後には山彦のような声が残るのみだった。
「……今こそ、勇者の使命が動くとき……」
少年は消え去った大猿のいた場所を呆然と見つめている。
少女は困惑した様子で狼王を見たが、狼は一瞬視線を交わして首を横に振った。今は一人にしておこうという意味らしい。
「……帰るぞ」
少女は狼王に連れられ、獣たちと共に集落に足を向けた。
勇者の使命と獣神は言った。
伝承によれば勇者は人類の危機を救うために現れるという。
だが魔界で聞くその名がお伽噺の英雄とは違うものだと、少女にも薄々察しが付いた。
鎮まった森の中に、ここまで進んできた場所の木が倒れてくっきりと道を作っている。
それは王国、ひいては人間が忘れた戦いの痕なのだろう。
立ちすくんだままの少年に後ろ髪を引かれながら、少女は荒れた道に踏み出した。
世界観紹介……『守護神』と『魔神』
この世界の生きとし生けるものには、魂という霊的エネルギーが核として宿っている。
身体と魂無くして命は在り得ず、『守護神』たちは生まれてくるあらゆる生き物の子供たち、芽吹くあらゆる種子に魂を吹き込む存在である。
同時に死者の魂を回収する役目も持っており、彼らの記憶を抜き取って自らの生命力『神気』に変換する。そうして記憶を失いまっさらになった魂を使い、新たな命を誕生させるのだ。
しかし、食事に排泄が必要なように、守護神は定期的に『神気』を溜め込みすぎ、放出のために暴走する。これが『魔神』及び『魔神化』と呼ばれる現象である。
普段は目に見えない守護神の身体だが、魔神となると巨大な姿で実体化し、溜めすぎた神気の力を振るって辺り一帯に大破壊を振り撒く。
魔族たちはそうして荒れ狂う神を止めるため、魔神が目覚める都度それと戦い、多くの犠牲を出しながらも神の力を削ぎ取って鎮めるのである。
この世界のすべての命の親ともいえる存在であり、魔界では信仰の対象であるとともに親しむべき肉親。
各守護神にはそれぞれ直接守護する派閥があり、それが獣族や妖精族のような種族となる。
守護神の庇護化にある種族は天敵を持たず、そのままなら増えていく一方なのだが、定期的に発生する魔神化は彼らの個体数を調整する役目をも持つ。
命を生み出し、間引く、この世界の秩序の象徴であり自然の化身である。
……『魔神』との戦い
魔界を守る『守護神』は定期的に暴走し『魔神』となる。
魔族たちは出現したそれを鎮めるために戦うが、当然の如く相手は神である。一筋縄ではいかない。
まず足元に迫るまでの行程が非常に危険であり、その間戦士たちは反撃もできぬまま巨大な魔神の攻撃に晒され続ける。
その間、戦士たちを守るのは各種族の王たちの役目である。
種族の王は特別に生物の限界を超えた強大な力を有しており、その力を以って魔神の攻撃を相殺し、軍勢を魔神の足元まで守り抜く。そうして戦士たちが足下に迫って、ようやく反撃が始まるのだ。
魔神の足元に取り付いた戦士たちは力の限り魔神の身体を傷付け、反撃を受けながらもその力を削いでいく。
そうして弱った魔神に、強力な王が『神化』という秘術で巨大化し、自らも一時的に魔神となって止めを刺すのだ。
わかりやすくゲームで例えるとRTS。
魔神という『敵城』を目指し、王が『ミニオン(戦士たち、兵士たち)』を守りながら進軍する、言うなれば一本道の『レーン戦(進軍経路を守り、兵士と共に前線を押し上げ攻め上る戦い)』というイメージとなっている。