8話
逃げた人間の軍勢に、凍てつく魔矢が放たれた直後、少女の脳裏に無数の声が響く。
多くは男の声で、女の声はごく少数だ。
それが何なのかは、彼らが発する言葉ですぐにわかった。
多くが同じような趣旨の台詞だったのだ。
なぜ自分がこんな目に遭わなければならない。
自分は何も悪いことをしていないのに、なぜあんな『化け物』が現れる。
何故に俺を、僕を、私を殺した。
「……!」
それは『フィンヴェルス』に、審判に掛かって死んだ者たちが少年に向ける怨嗟の言葉。
彼らはこの地上から追放されたのだ。
審判者の剣に掛かった生き物は、守護神を通じた輪廻転生の枠から弾かれ、冥界へと堕とされる。
少女に聞こえる無数の声は、たった今冥界に堕ちていく魂たちの断末魔の叫びだった。
先に放たれた一矢は確かに人間の軍勢に届き、恐らくはそのほとんど、もしくは全ての命を奪ったのだろう。
となると、彼らの魂が向かう先には、待ち受けている者がある筈だ。
少女は恐る恐る後ろを振り返り、そして戦慄した。
「……剣は死人が戻ることを許してくれなかったか」
狼王の呟きは冷静だが、余裕がある風でもない。
それも当然だろう。
先までフィンヴリルが振るわれていたことで池くらいの規模になっていた冥界の扉がいつの間にか湖のようになり、その岸は今や少年少女の足下から魔界の森の入り口まで広がって、国境全体を飲み込もうとしていた。
そしてついに現れた『黒幕』が、湖面からおぞましい老爺の顔を出し、枯れ枝のような細い腕を天に向かって伸ばしていたのだ。
みすぼらしい姿に金の王冠を被った巨人は、すでに肩まで地上に現れていた。
かつて守護神を冥界に堕とし、魔神の犠牲を排して自らが神になり替わろうとした、古代の王の成れの果て。
現世に現れれば地上の守護神をも取り込み、最早手の付けられない存在になるという。
少年は自由にならない身体で後ろを振り向きながら、ぎりぎりと歯噛みをした。
「あれが『冥界神』……フィンヴリルを、止められなかった……!」
少年は剣を手放し、その動きはすでに止まっている。
だが冥界の扉はすでに剣と少年の制御を離れているようだった。
漆黒の湖面はなも広がり続け、魔王が倒れていた位置はすでに飲み込まれている。
本人は竜に咥えられ、空に逃れていたため無事だったが、そうしている間にも老いた巨人は少しずつ浮上し、その全容を現そうとしていた。
どこからどう見ても邪悪な姿。
他の神々を押しのけ、人間だった自らが地上を唯一統べるという野望。
それだけ聞けば、あの老神が地上にあってはならないモノだというのは簡単に理解できる。
だからこそ守護神たちは外法に手を染めてまで少女を生き返らせ、審判を止めるためにこうして少年の傍まで引き戻したのだ。
しかし、このままでは『冥界神』は地上に這い出し、彼らの想いは水泡に帰す。
何とか少年は正体を取り戻したが、それで剣の暴走が止まらないというのなら意味が無い。
世界に害為す人間を滅しようとするフィンヴリルの意志は、最早主である少年にも止め処ないものになっている。
この世界の理を守る勇者、その武器である『勇者の剣』が、神々の采配とはいえ外法により復活した命を認めてくれる由もないのだ。
『フィンヴェルス』が放たれた東の彼方、再び蒼白い光が見えた。
「リズ、離れろっ!」
少年は鋭く叫び、自由にならない身体を無理やり捩って背中の少女を振り落とした。
直後、寒風と共に先ほど投げ打ったフィンヴリルが、西方領の方向から自ら飛んできたのだ。
矢のような速さで飛来した水晶氷の柄は狙い過たず主の手の中に戻り、再びその身を操って構えを取らせた。
「う、嘘だろ、剣が勝手に戻って来たぞ!?」
「当たり前じゃ。投げ捨てたくらいで剣を放棄できるなら、勇者は誰も苦労しておらん」
驚愕する弟勇者の前で、小さな兄勇者が再び動き始める。
抵抗しているようで全身がぶるぶると小刻みに震え、振り返る足の動きも遅いが留めきれていない。
そしてあろうことか、その刃を少女に向けて振り上げたのだ。
「フェンリル! シグニールッ!」
あわやその刃が少女を捉えようとした時、少年の叫びに応えた狼王が少年に体当たりを加えて軌道を逸らし、竜王が少女の服を口に咥えて体ごと空中に持ち上げ、逃がした。
主の抑制を受けながらも、フィンヴリルは幼い身体を操って杓子定規に人間を斬ろうとする。
人間としては特異というだけで、少女には目立った知識も能力もない。
それでも何とかしなくてはならない。
でなければ自分は何のために戻ってきたのだと、空中にぶら下げられながら少女は必死に頭を回した。
「………」
一方の少年もまた、何とか気力で身体を留めながら、自由になった思考で打開策を探っていた。
審判のタガは付けなおすことができず、冥界の扉はすでに制御不能。
今に『冥界神』が現れ、かつて人間の守護神にそうしたように魔界の守護神たちを取り込み、いかな力を持っても抑えられない脅威として地上に君臨するだろう。
それを防ぐには、何とか冥界の扉を再び閉ざすしかない。
「……まだ、手はある」
思い至った少年は、自分より大きくなった弟にはじめて目を向けたのだ。
「……お前は、ルカなんだよね? 久しぶりだ」
「あ、ああっ、そうだよ兄貴! ずっと会いたかった……!」
少年が知る弟は、まだ自分を慕って後ろをついてくるような幼子だった。
それがいつの間にか逞しい騎士の姿になっていたので、今まで声をかけにくかったのだ。
逆に弟勇者にとって、目の前の兄は別れた当時の姿のまま。
懐かしい姿を見て、忘れられない声を聞いて、今にも涙がこぼれそうだった。
泣きだしそうなその姿に、やっと目の前の勇者が弟であると確信を得た少年は、そこでようやく家族へ向ける表情を浮かべた。
「そうだな……ずっと探して、やっと会えた。なのにこんなことを頼むのは嫌だけど……聞いてくれ」
少年が寂しそうに笑うと、小さな体の周囲には再び蒼い光が纏い、風雪が渦巻き始める。
魔界の黒騎士、得意の冷気の魔法だ。
『氷柱針』、『氷の封印』、『蒼月』と、先まで数多の技を受けてきた弟勇者は思わず身構えたが、
「……兄貴っ!?」
冷気が牙を剥いたのは他ならぬ術者本人だった。
全てを凍てつかせる風雪の力はどこへ向かうでもなく留まり、その渦中にある少年自身の身体を少しずつ氷に覆っていく。
剣の方は相変わらず人間を狙うようだが、柄を握る手は凍り付き、力んで震えるだけで動かない。
踏み込む足も氷で地面に張り付けられ、少年は剣を振り上げたまま氷像へと変じていった。
「リズが戻ってきてくれて本当によかった。魔法は魂で使う力……身体が自由にならなくても、意志が自由なら術は使える。守護神たちの判断は間違いなかった……だから」
魔法で己の身体を封じ、剣の暴走に抗いながら、少年は目の前の弟に告げた。
「剣が消えれば扉も消える……フィンヴリルは僕の意志を無視して暴れているけど、こいつの行動原理は結局僕の気持ちだ。いま世界に起こっている危機は、どこまでも人間のせいに違いない。だから裁かれるべき……そう思う僕の気持ちが消えればいい」
勇者の力は気持ち次第。
フィンヴリルは弁護できない人間という種族を正しく裁くために暴れている。
その気持ちが消えれば剣も扉も消え、『冥界神』の危機も去る。簡単な話だ。
だが、どう考え方を改めても事実に変わりはない。
人間はかつて世界に覇を唱え、その理を捻じ曲げようとし、現在に至るまで魂の負担を魔界に押し付け、犠牲を強い、更には同族で相争って無意味な死を世界にばらまいていた。
どんなに温情に判決を下しても今の事態を引き起こした犯人は変わらない。
事実を知る心ある者は誰一人、人間という種族を許してはくれないのだ。
弁護人である弟勇者もそれは変わらず、ならば裁きが始まった瞬間から人間に勝ち目は存在しない。
だから彼が提示した方法は誰もが拒み、恐れた事。
この少年を愛し守ってきた人々が、決して彼に迎えさせたくなかった結末だった。
「……僕を、殺せ」
かくして、一つの旅がここに終わろうとしていた。




