5話
衝突の後、砦の前に敷かれた王国軍の陣営はまさに地獄絵図となっていた。
いたるところに負傷者が寝かされ、天幕の中からも無数の人間が呻き声を上げて、看病する医官たちが右往左往している。
人間たちは魔族の圧倒的な力の前に為す術もなく敗北し、死ななかった兵士たちも多くが重傷を負っていたのだ。
身体的な損傷も勿論だったが、
「む……虫……」
「蜘蛛……でかい蜘蛛、が……」
決定的な止めとなった蜘蛛王の姿は、兵士たちの心に多大な衝撃を与えていた。
始めて見る神化の威力もさることながら、やはり巨大な昆虫の姿は人間にとっては計り知れない嫌悪感を齎すものだった。
力で圧倒的に負け、さらに姿で心を挫かれた兵士たちは完全に怯え切った目で魔界の樹海を見つめていたのだ。
「……本当、圧倒的ね」
せわしなく陣中を歩き回り兵士たちを励ます女王も、誰にも聞こえないところで溜息を吐いた。
陣容は酷い有様だが、犠牲者自体はあまり多くなかった。
魔族たちは確かに多少手加減をして戦ってくれたらしい。
兵士たちは傷付いていても急所を外されており、重傷の者も手足を失うだけで命に別状はない者がほとんど。目立った死者は、最後に蜘蛛王の攻撃を受けた騎士たちくらいだった。
魔族側の思惑は相手を殺すことではなく戦闘不能にすることだ。
手足を虫に貪り食われて気が狂った者もいるし、目視できないほどの速度で翼人族や獣族に身体を刻まれた者もいる。
なので到底無事とは言えないが、それでも継戦能力を断つという意味では魔族たちの働きは最高だ。
誰がどんな権威を振りかざして「戦え」と命じたところで、手足が動かない者は戦力にならない。
かくして王国軍は戦闘不能になり、王国が無事に戦いを終えるための道は魔界との交渉以外に無くなったのだ。
この状況は、両軍の将が最善を尽くしたためなのは間違いない。
死者は少なく、戦争はたった一度の衝突で終結する。
字面だけ見れば理想的な展開ともいえる。
だが、兵士たちが周りで呻く姿を見れば到底喜べるものでもない。
「そもそも戦いにならなければ……こんな事にはならなかったのですがな」
「全くよ。死ななければ慰労くらいしてあげられるけど、無くした手足の代わりなんて用意できないのよ。後で主戦派連中に一発ずつ蹴りでも入れてやりたいわ」
そもそもこの戦い自体が、『黒幕』と結びついた太后たちの陰謀だ。
彼らが適当に理由を作って魔界と戦う状況にしなければ、犠牲は少数から皆無になり、今負傷している兵士たちも五体満足でいられたのだ。
少女王はしばらく愚痴を垂れていたが、ほどなくして大人しくなった。
そして陣中をぐるりと見渡し、最後に振り返って砦の門を見た。
人を探していたのだ。
女王にも、その主戦派連中との間に間者がいる。彼らが戻っていないかと期待したのだ。
だが目当ての姿がないと見るや、少女王はまたも溜息を吐いた。
「……エミルたち、まだ戻っていないのね」
女王の腹心二人は、囚われの姫君を探すために国内に戻っている。
彼女の身柄が戻らなければ魔族たちは王国への敵対をやめられないし、何より恐ろしい黒騎士の怒りが収まらない。
魔界側が交渉を始めたがる前に報せを聞きたかったが、そんな願いも空しく伝令が届いた。
「へ、陛下、魔界から一匹近づいてきます! あれは」
「えぇ、見えているわ……確かにあれは怖いわね」
魔族の陣営から近づいてくる一人は、巨大な蜘蛛の姿をした魔族。
人間たちを恐怖のどん底に叩き落とし、この戦いに終止符を打った終戦の立役者、蜘蛛王だ。
少女王も額に汗していたが、自ら陣営を抜け出て蜘蛛王の前に立ち出迎えた。
「人間の女王よ、お初にお目にかかる。私の事はもうご存じですね」
「はい、魔族の尊き方。あなたは魔王様の?」
「代理兼、停戦の使者です。魔王殿本人でもよかったですが、威嚇には私の方がいいと言われましてな」
周りを見ると、確かに誰もが震え上がっている。
『神化』の秘術がなくとも、巨大な蜘蛛の姿だけで迫力は十分だ。
少なくとも冷やかしたり危害を加える度胸がある者はいないだろう。
この分なら、話し合いに邪魔が入る心配もなさそうだ。
「わかりました、使者殿。こちらへ」
少女王は砦の中の一室へと蜘蛛王を招き入れた。
身体の大きな蜘蛛王が入れる部屋は限られたのでそれは目立ったが、この場にいる隊長格の多くは太后の息がかかった者だ。余人を入れるわけにはいかない。
交渉の場には女王とラモナス将軍のみが出席し、蜘蛛王と対した。
「さて、人間の女王よ。そちらの御仁から我々の手筈はお聞きと思いますが」
「魔界が勇者を返し、その代わりに私たちが姫君を……お姉様を引き渡す、ですね。それで停戦を為すと。それ自体に異論はありませんが、一つ問題が」
「王国に姫君はいないことになっている、ですか」
女王は頷いた。
太后は秘密裏に姫君を攫っており、そもそも兵士の多くは第一王女の存在を最近知ったばかりだ。
出せと言ってもそんなものは王国にいない。第一王女は黒騎士と組んで王座を狙ったものである。国内にいる筈もない、と白を切られるだろう。
その辺りの事情は蜘蛛王もわかっているが、黒い四つの目がにわかに赤く血走った。
虫の表情などわからない人間二人にも怒っていることはわかる。
口調は紳士的なままながら、その語気には得も言われぬ迫力が籠っていた。
「そちらの事情はお察ししますが……急いだほうが宜しい。私も戦士たちも、同胞を殺められて少々気が立っている。たかだか一人とお思いでしょうが、我ら魔族は一人一人が貴重な人材なのです。お早くしていただかないと、私たち魔族の王も戦士たちをいつまでも引き留めてはおけません。それに黒騎士殿がいます」
「……黒騎士」
聞く方の女王たちはすでに大分気圧されていたが、やはりその名は人間の誰にも効く。
魔族にとっても黒騎士は親しみと同時に畏怖の対象なのだ。
あの少年一人の動向は、魔族の戦士たち以上に警戒が必要だった。
「お義姉様の行方は、今部下に探らせています。黒騎士は」
「我ら魔族最強の種族が抑えています。本当ならその戦士たちも加勢に来るはずだったのですが、合流がまだなところを見るに相当荒れてらっしゃるのでしょう。私が『神化』を使ってしまいましたから、そろそろ戦いも感知されているはずです」
魔族王の秘術『神化』は、自身を一時的に神に変じる技だ。
そしてあの少年は魔神の出現を感知することができる。要するにこの地で戦いが起こっていることも察知されているのだ。
自分がいない間に人間と魔族で戦争をしていると知れれば、どんな反応をするか分かったものではない。
「……その魔界最強の方々でも、黒騎士は止められないのですね」
「その気になれば一種族丸ごと滅ぼせる方ですよ。本気で怒らせたら太刀打ちできる生き物はこの世界にいません。絶対に力ずくでは止められないのです。少なくともこの世界の者はね」
蜘蛛王の言い方には含みがあった。
この世の者には黒騎士に太刀打ちできない。
逆に言うと、この世の理外にある存在なら対抗しうるということだ。
「それはつまり『黒幕』とやらは彼にすら匹敵する力を持つ可能性があると」
「……それが本当に魔王殿の危惧する存在であるなら」
彼らの話において、『この世界の者ではない者』とは太后の陣営。それもよりによって黒騎士本人を利用し審判を起こそうとしている。
彼らの思惑通りに現れた『黒幕』が黒騎士をも凌ぐ力を持つのなら、それがこの世に仇なす可能性があるなら、地上にはそれを止める手段が無いことになる。
蜘蛛王はまだその存在の具体的な名を言っていなかったが、
「……一つ確認したいのですが、その『黒幕』候補の名前は『冥界神』で合っていますかしら」
「おや」
少女王がその名を知っていたので微かに驚いた声を出した。
人間たちは己の守護神と共に多くの知識を失っている。
そんな彼らの王がこの世にない神の事を知っていたのは、魔族の王の一人としては意外だったようだ。
当然知識の出処を気にしたものだが、
「………」
「……なるほど、ここでも太后ですか」
女王の表情を見た蜘蛛王はすぐに察した。
例えどんなに不仲であろうと、母子であることに変わりはない。
今母の名を口にすれば、魔族たちが何を要求してくるかは女王にもよくわかっていた。
察してほしい。だからこその沈黙。
だが、だからといって看過するには招いた事態が大きすぎる。
「人間の女王よ。申し訳ないが、あなたの母君を庇いだてはできません。それはあなた自身もわかっているはず」
「……えぇ、勿論。未熟とはいえ私も女王ですから。お姉様と共に、太后は見つけ次第あなた方に引き渡します。聞いた情報も共有しますわ」
優しいが厳格な蜘蛛王の言葉に、若い女王は静かに頷いた。
そして太后から聞いた『黒幕』の情報を流し始めたのだった。
「……要するに『黒幕』は、すべての守護神を冥界に堕としたいのだな。そして『魔神』に脅かされない世界を作ると。そして人間の守護神がその第一号だったわけだ」
「そんなことをしたら、世界中で生き物が生まれなくなるではないか」
「だから代理を『黒幕』がやろうという話じゃろう」
蜘蛛王が持ち帰った情報をもとに、戦場に残った魔族王たちは話し合いを続けていた。
王国軍は戦意を喪失し、ひとまず停戦の目処もたった。
後は勇者を交換材料として返還すれば戦は終わりを見るが、その前に魔界側の条件を考えなければならない。
こちらは戦勝しており、勇者の返還は施しだ。
以前老将軍も言った通り、魔王は多少吹っかけた条件を付けることにした。
「話を聞いた限り、人間たちが内輪で『黒幕』を探しても絶対に見つからんな。交換条件は、一部の魔族が国内の捜査に入ることにしようと思うが、どうか」
「……となると、やはりワシらか翼の民が適任か。忙しいのぅ」
狼王は少し不満そうにぼやいた。
元々ものぐさで通った王である。この反応は自然だったが、そうでなくとも戦働きの後だ。戦士を働かせたくないのだろう。
朱雀王も狼王ほどあからさまではないが、やはり渋った様子だ。
魔王も国境を守る二種族をこれ以上酷使したくはなかったらしい。両種族の王が芳しくない反応をしたのを見て、今度は蜘蛛王に目を向けた。
「……というわけだ、蜘蛛王。蝶なり蜂なり、空を飛べて素早い民を借りられないか? そろそろ起きる頃だろう」
「構いませんが、我々が王国で飛び回ると騒ぎになりますよ」
「それがいい。魔族が人間どもに脅しをかけるには虫族が最適任だ。今回の戦でそれがわかった」
「……虫の姿は生きて戦うための形態であって、恫喝に使うものではないのですよ」
他の表情はわからないが、怒ればわかりやすいものである。
目を血走らせる大蜘蛛を、他の魔族王は戦士たちと共にからかい笑った。
「さて、では朱雀王。勇者に迎えを寄越してくれ。ひとまずこの場を納めなければ」
「魔王様ぁ……」
そうして話が纏まったところに、緩い声が響き渡った。
陣営の外から飛来してきたのは小さな影。見るからに戦士ではない。
美しい緑の翅を輝かせた姿は、冬眠から明けたばかりの魔王の側近だった。
「カンラン、起きたのか。どうした」
起き抜けで調子が出ないのか、妖精はふらふらしながら飛んできて何とか主人の掌にとまった。
妖精族は体が小さいため、虫族ほど初春の冷気に強くない。
魔王城にいたはずのこの妖精が、無理を押し急いでここまで飛んできたのは何か不穏だった。
妖精たちの主な使命は魔族間の伝令だ。
大声を出すのは辛いだろうとの事で、魔王は側近を耳元に近づけて報告を聞いた。
報告は一言。
短かったが、それだけで魔王の顔色が変わった。
「……皆、急いで済ませるぞ。我が妹から伝言が来た」
「それは」
魔王の妹、妖精女王は竜族領に向かったはずだ。
そこからやってくる火急の報せと言えば、魔族たちにはすぐにわかる。
「竜王が抜かれた。あの小僧、今に姫君を取り戻しにやってくるぞ」
恫喝においては虫族以上の恐怖の化身。
姫君を奪われ怒り狂う黒騎士が、竜たちの制止を振り払ったとの報せだった。




