6話
「医者が言うには、内臓の一部が動いていないと」
「そんな……どれだけもつの」
扉の向こうで、使用人たちがそんな会話をしている。
起き抜けにそれを聞いた幼い少女は、朝食を終えるなり母から隠れ、大好きな『爺や』を呼び出して問い詰めたのだ。
「ねぇ、アイルロ。お母様病気なの?」
「ねぇ、どうして答えてくれないの」
「ねぇってば」
元々、甘えたがりで少しお転婆な子供だった。
住み込みで働く年の近い少女は時に呆れ、母親の方と同年代の侍女は適度に叱った。
だが庭師の老爺は、幼い主人のそんな性質をこそ愛し、実の孫のように可愛がった。少女が一生懸命に口説けば、答えてくれない質問など無かったのだ。
だが、
「……それより、この爺と御本でも読みませんかな、リズお嬢様」
どこか沈痛な顔でそんな返事が返ってきて、結局その日は諦めた。
少女が母の病状について聞いたのは、その死の直前。
いよいよとなってから聞かされた話に、少女は大いに錯乱し、平伏する使用人たちに大泣きしながら当たり散らした。
この頃から、少女は問いに返事が返ってこないのを恐れるようになった。
他者の秘密を嫌い、何でも興味を持って聞くようになった。
なのに、この世は何人にも、あまりに多くの秘密が隠れている。
去って行った使用人たち。
あの少年。
そして自分自身にも、己で気付けぬ無数の謎が詰まっている。
どうして今、過去の夢を見るのだろう。
何か思い出されることがあっただろうか。
そう思った時、誰かの声が遠くに響いた。
――誰かが……お話してる。
あの日と同じように、誰か二人が話をしている。
またしても、自分が寝ているのを良いことに内緒話をしている。
今度は聞き逃してはいけない。
そう思って、少女は薄く瞼を開いた。
「リズさんのお母様は、恐らく内臓の一部を乗っ取られていたのでしょう」
大妖精から粗方の事情を聞いた少年は、顎に手を当て深く考え込んだ。
この少年は『審判者』だ。遠い地で弟が自らの剣を得る遥か前に使命を知り、人間の中では誰よりも深い知識を授かっている。
この現世の理。そして自らが鍵を握り、『黒幕』が潜むという『冥界』の理。
そしてこの世界の命の理。
この世界の生きとし生けるもの全てには、どんなに姿が違えども共通の決まりがあった。
「……体と魂無くして命はあり得ない。神でさえも」
少年が呟いたのは、かつて彼が王国の少女王に告げた事だ。
生き物であれば不変の理である肉体と魂の関係は、守護神のような高位の存在でさえ例外ではない。
身体と魂、どちらが欠けても命は失われる。
といっても守護神たちは魔神化する都度己の種族に討伐されるのだ。そう簡単に死にはしない。
そういった諸々の事情を加味しても、彼にとって守護神の身体と魂が共になかったのは驚きだった。
「魔王の仮説通り肉体が冥界に分かれていたら、いくら神でも死は免れない。この世に居残るには身体がいるけど、こんな形で現世に肉体を残していたのか……しかし人間の体の一部に憑依するなんて」
「憑依ではなく、乗っ取りですわ。死霊が宿るのではなく、生きたままそこだけ己の物としているのです。そうすることでどうにかこの世に留まっていたのでしょうね。でなければ魂も冥界送りですわ」
何はともあれ彼らにとっては降って湧いた幸運である。
ずっと行方を追っていた守護神の手掛かりがまさかこんな近くにあったとは。
ただ、だとすると気付ける状況はこれまでにもあったように思える。
魔界に暮らす住民たちは、神気という形で神の気配を察することができるのだ。
にもかかわらず守護神の宝玉を得た時、少年も一緒にいた妖精カンランも、更に魔王さえも身体の場所を感知できなかった。
それがなぜ今になって、と少年は訝しんだが、
「それこそ私がここに来た理由です」
彼が疑問を口にする前に大妖精が止めた。
「リズさんの声の事、お母様の病の事……お二人が旅立ってより兄から聞いて、少し気になっていたのです。或いは何かの術のせいかもと」
「術?」
要するに、守護神が魔法によって人体を乗っ取っているということらしい。
だが神気の薄い王国で魔法は使えない。技術そのものも失われているはずだ。少女に魔法を施せる人物など、直近ではそれこそ魔王か少年くらいのものだ。
「このコは、最近まで王国を出ていない。西方なら多少の神気はあるけど……まさか、守護神が直接?」
「いいえ、守護神は己の子供たちにこんな呪いじみた術はかけませんわ。恐らくはこれを作った人々のせいでしょう」
言うと大妖精は少女の右手を取り、細指に輝くものを視線で示した。
現王家に連なる者のみが使えるという、守護神の封印を解く指輪。
古の時代の人間たちが秘術を宿したという宝物だ。
「……これは人間たちに魔法の記憶が残っていた時代の遺産。人間の守護神が地上より消えた時代から存在するはずです。リズさんとお母様の間のつながりにもなっていますからね」
少女はこれを母親から受け継いだと言っていた。
彼女が声を失ったのは母親の死後、即ち指輪を継承した直後。辻褄は合う。
ただ、指輪の力を使えるのは王族だけだったはずだ。
少女の母親は妾で、王族と血縁は無い。
大妖精にもそこまで細かい事情は分からないようだが、心当たりはあるという。
「封印解除の術の行使に条件があるだけで、身体の置き換えはそれほど複雑ではないのでしょうね。ただ、守護神本来の身体はやはりこの世にないのでしょう。守護神の信奉者たちがこんな手を打たなければならないのですから」
「……信奉者か。まぁ、明らかに延命措置だからね」
当時の人間たちは守護神を消したが、全員が一枚岩だったわけでもないのだろう。
守護神を守ろうとした一部の人間が、この世にその存在を残すために取った手段がこの指輪なのだ。
そしてその一族が現在の中央王族、ということになる。
「しかし……人間たちは長年同族間で争っていたんだぞ。そんな一族が運よく王座に立てるのか? いくら何でも都合が良すぎる」
「と言うよりも、最初からそうなるように戦っていたのではないでしょうか。私も王国の事情には明るくありませんが」
妖精女王は、少年が持ってきた王国の言い伝えを反復して見せた。
「人間の少女王が語った話によれば、現在の王家の起源は神話の時代の南方の騎士団、その頭目だったのでしょう? そして現王族も北方領との繋がりが深く、西方は私たちを無用に警戒し弱腰です。そして」
「東方領は孤立していて、他の地域が結託すれば簡単に潰せた。どう足掻いても最終勝ち馬には守護神の信奉者の末裔が乗っている、か」
少年はその東方の領主子息だ。自分の故郷の情勢はよく知っていた。
人間同士の争いの事は、魔界側にいる彼らには知りようもない。
人間の守護神が消えてからというもの、彼らは自領内に出現する魔神の鎮圧に手一杯だった。
だが、妖精女王の仮説が正しければ、王国の五つの領の内三つは守護神と繋がりがあることになる。
どんな構造で指輪と使い手を守ってきたのか、詳しい事は定かでないが、
「聞いた所、北方は太后の所領でしたね。南方領主は戦に敗れ、そして中央は魔界を狙ってイクト様に征伐された。特に先王です。これまで魔界と王国は睨みあいながらも戦おうとはしなかった。それが突然魔界に剣を振り上げたのは、考えてみれば不自然です」
「……太后は、先王の妻」
太后が『黒幕』と通じているなら、或いは先王を操った可能性がある、ということだ。
魔界が狙われれば、魔王は動かざるを得ない。
人間の中で覇権を取った勢力であっても、魔族が本気で潰しに掛かれば簡単に滅することができる。
『黒幕』が王族を排除するために、魔族を利用したとしたならそれらの行動も納得がいく。
結果的に動いたのは魔王ではなかったが、同じことだ。
「だとすると……本当に、悪い事をした」
思い至った少年は、俯き加減に呟いた。
王族と言えば、少女の父親の先王だ。
この旅は、魔界を攻めようと戦支度中の王を葬った事から始まった。
それをきっかけに少女の保護も完全に消えたのだろう。彼女は太后の手勢に追われ、王国を追われて少年と出会った。
多少無茶でも何とか生かしておければ、指輪の使い手を少なくとも一人多くこの世に残せたのだ。
王家の直系だけあり、きっと引き出せる情報も多かっただろう。悔やんでも悔やみきれないが、
「……どの道魔界が狙われていたのです。イクト様がやらなければ兄がやっていましたわ。後悔先に立たずです」
気落ちする少年を大妖精は静かに慰めた。
「いずれにせよ、兄の推測に裏付けは取れました。この世にない以上守護神の身体は冥界に封じられている。リズさんがいるおかげで完全に失われてはいませんが、守護神の復活には元の肉体が必要でしょう……守護神を冥界に送って敵はいったい何がしたいのか、それだけがわかりませんが」
「……どっちみち、とりあえず僕がやるべきことは変わらないな」
刻限が来るまで少女を守ること。魔界を守ること。
そして敵が特定出来たら、冥界の扉を開いて討ち入る。
『黒幕』の手先が王国にいることは確定的。
特定には弟勇者の活躍が不可欠だ。
それともう一つ。
「イクト様、わかっておいででしょうが」
「……僕は絶対に審判を起こしてはいけない、でしょ」
大妖精は頷いた。
三年の刻限は、少年の一存で簡単に打ち切れる。
具体的には『斬りたくない人間』が失われれば、少年の意志とは関係なく『審判』は発動してしまうのだ。
そして、彼にとって該当者はたった二人しかない。
その片割れの弟勇者は今に至るまで会えていないし、手も出しようがない。
いずれにしても、守るべきものはただ一つだ。
「リズが死ねば、僕は多分暴走する。人間の守護神も現世での体を失い完全に『黒幕』の手に落ちる。守るべきはリズの命……単純な話だ」
「あら、守るべきではなく、守りたいのでしょう? 必要性はともあれ、リズさんが可愛いなら素直にそう言えばいいのですよ」
大妖精は相変わらずからかい調子で笑い、少年は言葉に詰まった。
いかに義務感が強かろうと、嫌いな相手と長い旅はできない。
結局この少年は素直でないだけだ。
その相棒は対照的に極端な正直者だったが。
「………」
「あ、リ、リズ……起きてたんだ」
大妖精の膝の上で、少女が顔を赤くしている。
狸寝入りをしていたようで、一連の会話は聞こえていたらしい。翠の瞳が薄く開いて、ちらちらと少年の方を見ていた。
「リズさんはずっと帰りを待っていたのですよ。私はここにいますから、二人でお散歩にでも行ってきなさいな」
里に到着した時からそんなことを言ってはいたが。
この大妖精は気を利かせているのか遊んでいるのかわからない。
起き上がった少女は前者と受け取ったようで、大妖精に笑顔で頭を下げたが、
「……本当に、いつか覚えてろよ、兄妹揃って性悪め」
「えぇ、覚えてますよいつまでも。さぁ、行ってらっしゃい」
少年の理解は当然後者である。
苦々しい捨て台詞を笑顔で躱され、少年は相棒に手を取られて竜の集落に引っ張られていった。




