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Ⅲ勇者クロニクル ~第Ⅰの勇者『黒騎士』~  作者: 霰
第Ⅵ章 温かな冬
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3話


 少年から別れ際に脅しをかけられ、薄ら不安になった少女だったが、いざ温泉に浸かってみると忠告はあっさり頭から吹き飛んでしまっていた。

 一応普通の庶民よりは良い暮らしをしていた少女は、湯浴みくらいはできる家に暮らしていた。

 そんな彼女でさえ、こんなに広々とした風呂は初めてである。

 そもそも王国において風呂とは、薪材や燃料を多大に浪費する相当な贅沢だ。

 一般人がやろうとすれば冬の備えが無くなるし、魔族たちは魔神が出る都合、不必要に木を伐って殺めることをしない。まともに浴場など持っているのはそれこそ人間の王族くらいだろう。

 それだけ湯は貴重なものだが、まさか際限なく地中から湧き出す場所があるなど少女は勿論、この大陸の多くの人間には想像もつかないものだった。


「ふぅ……」


 熱めの湯の中でおもむろに身体を伸ばし、肌が火照ってきたら適当な岩に腰掛けて冷気に身体を晒す。冷えてきたら今度はまた浸かる。その繰り返し。

 だだっ広い湯舟を独占し、思うさまに身を沈めているのは少女にとって生まれて初めての快楽だった。

 単に風呂として快適なのはもちろんだが、魔界の他の場所と同じく眺めもいい。

 尖塔のような鋭い岩壁がぎざぎざと列柱を為す岩山の中で、この温泉は丁度谷に当たる位置にあるという。

 なので開けた場所を見れば真っ白に染まった下界。両脇には気が遠くなるような高さの岩の塔が聳える。


 さながら巨岩の額縁に絵画をはめ込んだような絶景は、思わずため息が出る美しさだったが、


「………」


 頬を上気させながらも、少女の表情はどこか切ない。

 いつもならこんな時、あの少年が見渡す景色についてあれこれ教えてくれたのに、と。一糸纏わぬ姿でそんなことを考えていた。

 一人になるのがとても久しぶりに感じる。

 あの少年は、王国では決して少女を一人にしなかった。

 彼が傍にいられない時でも妖精が見守ってくれていたので、いつでも誰かしらに見守られている安心感があった。

 元々人懐っこく甘えたがりの少女だ。

 敵の心配が無くとも、誰かが傍にいてくれないと心細いらしい。

 ひとしきり湯を満喫した後は何となく物憂げな様子になり、ぼんやりと彼の帰りを待ち惚けるだけになった。


 完全に油断していたので、


「あら、可愛い先客がいますわね」


「!」


 背後からいきなり声がかかると、少女は飛び上がるほど驚いた。

 ぐりんと首を回すと、そこには同じく若い女性が裸で立っている。

 見た目の年齢は少女より多少上くらい、二から三十くらいの女だった。

 この地に住まう竜族の話は聞いていたので彼女こそがそうかと思ったが、どうも様子が違う。

 竜は巨大な蜥蜴のような姿をしていると聞いた。

 しかして女性の白い肌には鱗の一つも生えていない。

 限りなく人間に近いが、髪は翠の飴細工のよう。そして背には硝子細工のように輝く青い蝶の羽。

 こういった形質を持つ種族に、少女は大いに見覚えがあった。


――妖精……さん?


 少女の知る妖精族は、掌くらいの小人たちだ。

 対して目の前の女性は長身で、少女はおろか少年よりも背が高い。

 随分と体が大きいが、特徴を見るに間違いないだろう。

 最も、メモも鉛筆も服と一緒に置いてきているので何者かと問い質すこともできない。

 どうしたものかと悩んだが、


「あぁ、良いのですよ、兄から話は聞いております。黒騎士様の可愛い姫君。さぁ、立っていると寒いですわ。こちらへ」


 大妖精は湯の中に座りなおすと少女をのんびり手招きした。

 丸腰で入浴しているところを見るに少なくとも敵ではないらしい。

 そもそも相手は魔族だ。奇妙な話だが、人間でないなら心配ないだろう。

 警戒を解いた少女は導かれるまま大妖精の前に座り、


「………」


 その絶世の美貌にすっかり見とれていた。

 湯に浸かった白磁の肌は果実のように艶めき、濡れた髪はまるで蜜のように透き通って甘い香気を放っている。

 普通の妖精も可愛らしかったが、この女性は同性であっても胸が高鳴るほど美しい。

 思わずぼんやりと見入っていると、


「……もしもし?」


 苦笑しながら当人が呼び掛けてきた。

 あまりにまじまじと見てしまっていたので、少女は真っ赤になって頭を下げる。

 ひとまず落ち着いた少女は、ようやく相手の自己紹介を聞く余裕ができた。


「改めまして……私はティタルニア=アリアンナ。妖精族の女王です」


 やはり妖精で合っていたらしい。

 しかし女王と聞いて少女は驚いた。

 思えば妖精たちも冬になれば冬眠する種族だ。蜘蛛王と同じく冬場の王は暇なのだろう。

 ただ、王が名乗る時に名前を聞くのは初めてだ。

 普段紹介されるときは肩書だけなので、決まった名前を知っているのは狼王と魔王だけ。

 個人名を教えてもらうのは初めてだった。

 少女は不思議そうな顔をしたが、質問しようにも今は話す手段が無い。

 なので一度風呂から上がろうとしたのだが、妖精女王に止められた。


「ご一緒でないところを見ると、イクト様は竜王様にお目見えですね。隠れ場所に水場を選ばれたの賢明ですわ。出るのはもう少しお待ちなさいな」


 そんなことを言われても、少女は竜に会ったこともない。

 とにかく危険な生き物というのは察せられたが、吠え声一つがそれほど恐ろしいのだろうか。

 首を傾げた少女だったが、魔界の知識に乏しい彼女にわかることは少ない。黙って頷き、従うことにした。

 長湯は不慣れだが、話し相手がいるならそれほど苦でもない。

 どうせ少女は喋れないのでただ話を聞くだけになるし、相手の話をひたすら聞くだけでも楽しめる質だ。

 それ自体はいつもの事なので気にもしないつもりだったが、


「……で、リズ様が私たちの名をご存じないのは、イクト様が特別に親しい人以外は名前で呼ばないからですわ」


「? ……!?」


 魔族王の名前について確かに疑問に感じはしたが、少女はそれを伝える手段が無い。なのに言ってもいない質問の答えが返ってきて驚愕した。

 この少女の初々しい反応は見る側にはいつでも面白いらしい。

 鈴を転がすように笑って、妖精女王はぐいと顔を近づけてきた。


「うふふふ……私には人の考えがわかるのです。高位の術を使う妖精は念じるだけで相手と会話ができるのですよ」


――こんな風にね。


 最後の一言だけ妖精女王は口を動かさなかった。

 それはおろか声すら出していない。

 妖精女王の声が、耳でなく少女の脳裏に直接響き渡るような感覚だった。

 この術は『念話』というらしく、妖精女王が得意とする魔法の一つだという。

 念じるだけで自分の声を相手に届け、また相手の思いを受け取ることもできる魔法。

 口の利けない少女が会話をするにはうってつけの術だ。


「……いつかご指導しましょうね。あなたも魔法が使えた方が便利でしょうから」


 魔法の原理自体は知っていたので、神気と才能さえあれば少女にも魔法は使えるという。

 元々魔法に多少の憧れがあった少女は目を輝かせた。

 だからと言ってすぐに使えるものでもないようだが、ひとまず道具無しでもこの女性相手なら会話は成立するらしい。

 言っていないことまで勝手に聞かれてしまうのが難儀だったが。


「それで、寂しいのは紛れましたかしら?」


「?」


「イクト様がいなくなって心細かったのでしょう」


 少女の顔がまた赤くなった。

 この大妖精が温泉に来たのは少女より後の筈だが、対面する前の思考まで読まれている。

 完全に一人になるのは久しぶりだったので思わず考えてしまったが、他人にずばり言われると気恥ずかしいようだ。


「そう照れることはありませんわ、仲が良いのは喜ばしい事です。後で一緒に会いに行きましょう。私もお話があって来たのですから」


 どうやら偶然居合わせたというわけではないらしい。

 ただ、今の少女に何の用かと訊ねる余裕はない。

 触れられたくない恥部を突かれて慌てふためき、真っ赤になりながら忙しく表情を動かしている。

 少年にとってもそうであるように、少女にとっても彼はただ一人味方と言える同族だ。

 常に優しくされ、旅の中では互いに励まし合ってきた。自然と芽生える気持ちもある。

 ただ、本人はまだそれと自覚していないようで、自分がなぜ慌てているのかもわかっていないようだった。

 傍から見ればそんな様子は実に可愛らしく、


「ふふふ……本当は彼が良かったのでしょうが、私の説明で我慢してくださいませ」


 しかもその考えすべてが筒抜けである。

 面白がっている妖精女王は結局からかい調子のまま、本来は少年が伝えるはずだったこの山の知識を教授した。


「ほら、あちらに切り株のような山が見えますでしょう。あの大きな山が竜の領地ですわ。イクト様はあそこに……」


 指さされた先には確かに切り株型の巨大な山がある。

 周りの列柱のような山々と比べ、明らかにどっしりと胴が太い。一帯の柱状節理が細い木の梢なら、あの山だけは巨木のようなもの。

 周りの細い山は地下の溶岩が隆起したものらしいが、あの山だけは元から聳えていた岩山が雨などの外的要因で削れたものだという。


 山の谷間の温泉からもはっきりとした切り株の形が見えるのだが、それは視界を妨げるものが少ないからだ。

 これまでの道中に聳えていた柱の山が、どういうわけか温泉と竜族領の間では疎らになっている。

 そして、少女が気にすれば次の瞬間には返答が返ってきた。


「あぁ、あれは『竜神』……竜族の守護神が魔神化した時の名残ですわ」


 獣族領や虫族領でも魔神が暴れた痕跡はあった。

 ただ、それらはいずれも局所的な被害だ。

 獣族が群れて狙いを集め攻撃は狼王と少年が凌いでいたように、魔族はできるだけ命が失われないように一箇所に狙いを集めて戦うものだ。

 しかしこの領地の荒れようは随分と広範囲だ。立ち並ぶ岩の梢の中にぽっかりと平原ができている。

 定規で線を引いたような明らかに直線的すぎる川に、まるで斧で切り落とされたように滑らかな断面を晒した山もある。

 魔神の痕跡と言えば力づくで地面を抉ったような跡が主だが、こんなに不自然なものは初めてだ。

 恐ろしく巨大な爪か、あるいは鎌のような刃物を持った魔神なのかと思ったが、


「あれは吐息の痕です」


「!?」


 少女はぎくりとした。

 ただの吐息でこの惨状を招くとは一体どのような怪物なのか。

 魔族の力は魔神の力に比例するというが、こんな惨禍を齎す魔神と戦う種族とはどんなものなのだろう、と。


「竜はこの魔界で最も力の強い種族です。神と魔族の関係は御存じのようなので説明は省きますが……」


 本当に頭の中を細かく覗いているらしい。知識の程度まで察せられている。

 本来なら不気味に思うところだろうが、そこで恐れないのがこの少女の良い所だ。

 素直に首を傾げる姿をにっこり眺め、大妖精は続けた。

 曰く、その爪は人間の剣より長く、鋭く、そして鋼より堅い。

 曰く、その吐息は炎、あるいは衝撃波を纏い、吹き付けた場所を粉微塵に破壊するという。領地の惨状はこれによるものだ。

 尻尾の一撃は戦槌のような強さで人間の城なら礎から打ち崩し、地面を踏みつければ一帯に地震が起こる。

 鱗は鎧の堅さ、角は槍の鋭さと正に全身凶器。

 更にその暴力は目に見える物だけに留まらず、発する声すら破壊を振りまくという。


「竜の咆哮は……あ、来ますわよ」


「むぐっ」


 少女は突然大妖精の胸に抱え込まれ、温泉の中に引きずり込まれた。

 思いがけず大きな胸のふくらみに顔をうずめる形になり、少女は水の中で目を白黒させていた。


 それは少女の耳を塞ぐための行為だ。

 水の中に潜み、そうして守ってもらってもなお、岩山を震撼させる轟音は少女の耳をつんざくようだった。


「グオオオオオッ……!」


 湯水を伝って、雷のような吠え声が聞こえてくる。

 一際大きな一声の後、いくつもの咆哮が後に続くように響き渡った。

 過剰な振動に辺りの岩が軋む音を立て、温泉の水は音の震えに泡立てられて真っ白に染まる。

 水を緩衝材に挟んでなお凄まじい音だ。

 妖精女王に守られながらも、少女はまるで脳を激しく揺さぶられるような衝撃を受け気を失いそうになった。

 吠え声は数十秒に渡り続いたが、


「……ぷは」


 二人は何とか溺れる前に水面に顔を出すことができた。

 辺りを見回すと、岩のいくつかに細かい亀裂が入っている。

 吠え声に紛れて音は聞こえなかったが、どうやら落石もあったらしい。先は無かった岩が新しい断面を晒していた。


「………」


 今の声が竜の咆哮なのは、少女にもすぐにわかった。

 危険とは聞いていたが、ものの数十秒で辺りの景色が変わっている。湯で上気していた顔がすぐに蒼くなるような様相だ。

 その横で、麗しい大妖精は不思議そうな顔をしていた。

 ただし、視線は咆哮が聞こえた方でなく、少女を見つめている。


「……?」


 今度は自分がまじまじと見つめられていたので、少女はきょろりと首を傾げた。


「あ、あぁ、失礼しました。何でもありませんわ。それより今のが竜の咆哮です」


 対して大妖精は何か思い当たったようだが、今は誤魔化した。

 にこにこと秀麗な笑顔を作りながら、集落だという山の方に視線を向ける。


「今のは歓迎です……イクト様、どうやら会えたようですわね。竜王様ったら、あんなに嬉しそうに……ねぇ、リズさん」


「………」


 曰く、先の咆哮は竜たちの歓喜の叫びらしい。

 どうやら歓迎はされているようだが、なるほど近づくだけで危険というのも頷ける。

 これからその相手と対面すると思うと、少女の顔には引きつった笑みが浮かんだ。



人物紹介……ティタルニア=アリアンナ


年齢……不詳

体格……high 170cm weight 65kg

外見……白肌 翠髪 金眼 モルフォ蝶の翅


妖精族の女王。

蝶の翅の生えた絶世の美女。

慈悲深いが悪戯好きな性格であり、リズと知り合って後は彼女をからかって遊んでいる。

魔法に長けた妖精族の中でも特に多彩な術を持ち、戦闘に関わらない術では黒騎士や魔王すら上回る。

世界の理に関わる様々な知識を持ち、時には自ら魔王に知恵を授ける魔界有数の賢者。


ティタルニアは妖精の王の号。アリアンナが本名。

彼女も古くからこの世に生きている魔族王だが、狼王や蜘蛛王と違って名前が失われていない。

それは彼女に名前を呼び合う身内がいるためであり、両者共にイクトとも親しいが、それが誰であるかは今は意図的に黙っているようだ。


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