3話
まばらに色づき始めた樹海には生き物たちの気配が盛んだ。
風が寒々しくなるこの頃、獣たちは人間よりも早く冬支度に勤しみ始める。
寒風の一陣を合図に木の枝に付いた実は赤く熟れ、鳥たちや虫がそれをつついて巣に持ち帰る。根元に生えた苔や茸は猪や鹿が掘り起こし、冬の絶食に備えて目一杯に腹を膨らませている。
今は緑豊かな森も、あと二月もすれば雪に閉ざされる。そうなれば貯えのない者は飢えて死ぬのみだ。
なのでこの森に住む誰もが森の豊穣を頼り、我先にとそこら中で食物を漁っていた。
しかし、
「……?」
木立の影から、足元から。
森の中を歩む者たちの一部が、小さなささやきに手足を止めた。
他の獣たちよりも一際大きな彼らは、手に魚や猪や、採取した獲物を引っかけながら耳を澄ます。
――お客様。お客様。
魔界中くまなく、ほとんど同時にささやき声が響く。
空を飛ぶ者にも、水の中で暮らす者にも、遥か極地に暮らす大いなる者たちにもその声は届き、誰も皆大小さまざまな耳を傍立てて報せを聞いていた。
「……人間のお客様?」
聞き返す彼らに、小さな声は詳細を語る。
最後まで事の次第を聞いた彼らは誰もが徐々に表情を歪め、
「皆、歓迎だ! 客が来るぞ!」
揃って快哉を叫んだものだ。
「我らが黒騎士が、姫君を連れてきた!」
魔界の一角の開けた場所に、木の家と畑の立ち並ぶ大きな集落がある。
石造りの重厚な建物の多い『王国』に比べ、魔界の民家は木の壁と干し草の屋根から成る簡単なものだった。
特に区分けされるでもなく立ち並ぶ家々は、しかし自然とそれぞれがもつ畑に隔てられて上手く住み分けができているらしく牧歌的で穏やかな風情がある。
そんないたって平凡な集落に連れてこられた少女は、中に入るなり大挙してきた住民に取り囲まれた。
二人を囲んでいるのは、獣の群れだ。
狼、獅子、虎、他にも様々な動物の毛皮を纏った住民たち。
動物と一口に言っても、種族、見た目は多種多様だ。いずれも異形と言っていい。
四足のものもいれば、二足で立つものもいる。
ほとんど実際の動物と見た目が違わないものもいるし、同じように限りなく人間に近い者もいる。
彼らこそが、この魔界の住民。
王国において『魔物』と呼ばれる生き物たち。
なのだが。
「違う。正確には『魔族』」
少女の手には、小さな手帳とペン。
そこに記された質問に、少年は簡潔に答えた。
書かれている内容はこうだ。
――この人? たちは魔物ですか?
「がははははは!」
「ぎゃはははは!」
そんなに少女の質問が面白かったのか、よく言えば豪快な、悪く言えば粗野な笑い声が周囲から響く。
はるか昔から王国からは隔てられた勢力である魔界の住民たち。
彼らはかつて大軍を以って王国に攻め入り、国家存亡の窮地に陥れた仇敵と伝承されている。
そのようなわけもあって『魔物』は侵略者だの、脅威だのと、人々から嫌われているものなのだ。
勿論、少女も彼らについては悪しざまに語られる言い伝えの上でしか知らない。
ここに暮らして長いらしい少年は、魔物ではなく『魔族』と呼んでいた。
言い回しにさしたる違いはないが、わざわざ訂正するということは重要なのだろう。
あるいは、魔物という呼び名が蔑称なのかもしれない。
だとすると相当失礼なことをしたかもしれないと少女は肝を冷やしたものだが、
「まぁ、イクトさん、手加減してあげなよ。人間のお客さんなんかあんた以来なんだから、俺たちだって大目に見るさ」
獣たちは別段気にした様子もなく、鋭い犬歯をむき出しながら大口を開けて豪快に笑う。
どうにも魔王といい彼らといい、初対面の少女に対してやけに友好的だった。
度が過ぎるほどに。
「お嬢ちゃん、王国から来たんだって?」
「あんたも追い出されてきたのかい?」
「口が利けないんだってね、人間なのに可哀想」
魔王城を出たのはついさっきの筈なのに、何故か彼らは客人の事情を事細かに知っているようだった。
内容を確認したり、自分から他愛のないことを訪ねたり、まるで子供を囲む親戚のような態度だ。
何故か誰もが盃を片手に少年少女を囲み、原料が分からない酒を呷りながら四方からつまみを差し出して、やりすぎなまでに客人を歓迎しもてなしている。
彼らにもみくちゃにされて、困惑気味の少女は唯一頼みの少年のほうを見たが「助けて」と語る彼女の視線を、しかし仮面を外した少年は背中であっさりと断ち切った。
「別に取って食われやしない。このくらいは慣れてくれないと困る」
言葉は冷たく、表情はさめざめと続ける。
「だって君、僕の監視役なんでしょ」
大きなため息とともに言った視線の先、少女の左手首には不思議な銀細工の腕輪がはめられていた。
再び魔王城まで話は遡る。
王国を追われた少女が魔界で保護される運びとなり、その代償として魔王は彼女に一つの提案を持ち掛けた。
豊かだが厳しい自然が広がる魔界で、非力な少女にできることは限られる。
何を任されるのかと少年少女は揃って首を傾げていたが、いざ内容を聞くと少年の方が見るからに怒って魔王に食ってかかったのだ。
「おい魔王……いったいどういうつもりだ」
「お前を野放しにしておいては、いつまた王国に攻め入るとも知れん。その点、非力な人間の小娘なら足枷にちょうどよかろう」
「馬鹿な! こんなもやし、戦いに巻き込まれればすぐに死ぬぞ!」
「ならば戦いを避ければよかろう。第一貴様が他人をもやしと呼ぶか」
にやにやと笑う魔王と、ぎりぎりと奥歯を噛む少年。
話の見えない少女は相変わらず目をぱちくりさせて二人の会話を聞いていた。
そんな彼女に、嫌に優しそうな態度の悪魔は「さて」と一拍の後再び告げた。
「この小僧は少々事情があってな。この通りのじゃじゃ馬だし、訳あって魔王たる我の命をも受け付けん。故に無茶ができぬようこれを監視してほしいのだ」
「……?」
とにかく見張っていればいいのだろうか、と少女は監視対象をじっと見つめだした。
馬鹿正直な反応に少年は心底頭が痛そうだ。
素直で天然な所は扱う側には有り難かったらしく、玉座の悪魔は面白そうに笑っている。
「ふ……まずは、これを持て」
魔王はそんな少女を手招きして玉座の前まで呼び寄せると、小さな手の上に銀の腕輪を載せてやった。
それは針金のような金属を曲げて環状に加工したような腕輪で、全体に円陣のような恐ろしく精緻な細工が所狭しと施され、それぞれの円の中央には小さな水晶が星のように青白く輝いている。
素材は豪勢なようだが、品が良く美しいそれに少女は頬を染めて見惚れていた。
装飾品に目を輝かせる辺り健全な少女だ。
手付金のようなものだと思った少女は魔王に促されると、全く無警戒なまま腕輪を手首に嵌め始めた。
そんな時、腕輪の正体に感づいた少年の方は、
「うわっ馬鹿、つけるな!」
遅きに失した叫びを上げたのだった。
腕輪をぐいぐいと引っ張り、外そうと奮闘するも、不思議な模様の刻まれたそれは少女の腕から離れる気配がない。
軽く、着けていても特に害を感じない腕輪なのだが、外すことだけができないのだ。
「君さ、本当に王国の人間だよね? 何だって魔王が寄こしたものを躊躇いなく身に着けたりするんだ」
早い話がこの腕輪はある種の罠だったのだ。
要するに二重の意味で魔王にはめられたのである。
黒い少年が忌々しそうに腕輪を見つめているのを見て何かまずいもの感じたのか、少女はすっかり怯え顔になっていた。
仕方ない、といった風に説明が入る。
「……その腕輪がある限り、君は魔王の言う通り僕の監視をしなければならない。それはあいつの監視装置みたいなものだ。それを通じて君の様子はあいつに筒抜けだから、逆らえば多分……ちょっとした天罰が発動する」
少女が一瞬にして紙のような顔色になる。
余りにも彼女が哀れな表情をしていたので少年はまた一つ溜息を吐くと、渋々といった様子で励ました。
「……逆らえば、ね。要するに、言うことを聞いていればいい。抵抗さえしなければ痛いだけで済むし、どうせ帰るところもないんでしょ? 仕方ないから」
少年は、群がる魔族たちの方に初めて目を向けた。
「まずは、ここに慣れてもらう。どうせしばらく動くことはないから……魔界の事、彼らの事、少しは知っておくといい。僕はちょっと用事があるから……」
人は悪くないが元々そこまで面倒見が良いわけではないらしい。
住民たちが彼女に食事を運んでくると、助けもそこそこにその場を辞そうとした。
その時、
「ーーっ!?!?」
去ろうとした彼の後ろで、急に少女が倒れて苦しみだした。
「うおっ、お嬢さんどうしたんだ……あががが!?」
心配して手を差し伸べた住民たちも、彼女に触れた瞬間同じように奇声を上げる。
揃い揃って体を痙攣させながら苦しみだし、一瞬にして集落は騒然となった。
さて、何が起こっているのかと言うと、だ。
「……魔王、わかったからもうちょっと許容範囲広げて。これじゃ身動きが取れない」
少年は溜息を吐くと少女の傍に歩み寄り、腕輪に向かって話しかけた。
よく見ると腕輪がぼんやりと光り、周りには小さな稲妻が走っている。どうやらここから電流が発せられているらしい。
光と稲妻は少年が声を掛けると消え、電撃を喰らっていた少女も住民たちも解放された。
「面倒な天罰を仕込んでくれたな、あの悪魔め……」
腕輪に仕込まれているというちょっとした天罰とはこれの事らしい。
監視対象から距離が開くと腕輪が反応し、持ち主の身体を電撃で苛むようになっているようだ。
確かにこれなら彼女の存在は大きな足枷だろう。死ぬような威力ではないだろうが、お互いに離れることが出来ない。
最も、少年の方には特に障害があるでもないので、彼女を見捨てていけば良いのだが、厳格に見えて彼は案外甘い所もあるらしい。
「……厄介な連れは一人で間に合ってるんだけど」
「聞こえておるわ」
少なくとも少女の耳には入らない呟きに返答するものがあった。
その直後。
「!?」
ガンッと甲高い音が集落に響き、驚いた少女が肩をびくつかせた。
それはいつの間にか鞘から放たれていた白い剣と、獣の爪がぶつかる音だった。
爪の主は一頭の狼。
他の獣よりも一回り大きな体。
冬の野を思わせる白銀の毛皮を持つその姿は獣だらけの集落の中でも一際目立つ。
集落の獣たちは全員ではないが多くが二本足で立っていたり、前足に道具を持っていたりと人間に近かったがこの狼は完全な獣の姿だ。
村人は皆少女を取り囲んでいるし、こんなに目立つ姿の者もいなかった。
襲撃者は茂みの中から奇襲を仕掛けてきたのだ。
「ーっ! ーっ!?」
「……いつもの事だから。このくらいであわあわしてたらもたない……ぞっ!」
あたふたしている少女をたしなめるついでに、少年は大きく剣を振って銀狼を払い飛ばす。
吹き飛ばされた狼も、空中で身をひねって華麗に着地し、再び躍りかかってきた。
やはり当たり前のように喋りながら。
「そ奴か。魔王の言っていた小娘というのは」
「耳が早くて何より……で、何て聞いたのさ」
「忘れた」
「あっ、そう」
親しげに話しながら、爪と剣の二合目。
大柄な白い剣と銀狼の爪が踊り、集落の一角を舞台にぶつかり合う。
素人の少女などは呆気にとられているのだが、
「おお、始まった、始まった!」
「狼王様のお帰りだ!」
「皆、酒と肴持って来い!」
村人たちはどうにも慣れた様子で、どっかり腰を下ろして観戦が始まった。
彼らにとってはいつものことのようで、突然始まった決闘にも別段驚いていないようだ。
気づくと周りから獣たちがはけてしまった少女は、所在なさ故仕方なく傍にいた犬顔の魔族に視線を向けてみた。
どうやら中年女性らしい犬女は、人間と変わらない調子でやんわりと話す。
「あぁ、あの方ねぇ? あの方は狼王フェンリル様。私たち『獣族』の長で、イクトさんの育ての親よぉ」
目線から質問を察してくれたらしい。
犬顔の魔族はやさしく説明してくれた。
獣族との言い回しからして、どうやら魔族にも人種のようなものがあるらしい。
この集落の住民たちは皆獣の特徴を持っている。それ故に獣族なのだろう。安易だがわかりやすい。
そしてあの銀の狼は、彼ら獣族の族長だという。
ただ、あの少年の育ての親、というのが引っ掛かった。
そもそも魔界に人間が暮らしているのがおかしなことの筈なのに、彼はいったい何なのだろうか。
疑問は尽きないが、今は長く続かない。
義理の親子だというあの二人は、時折ああして気まぐれに鍛錬をするのだという。
他の獣は皆勝負の方に夢中で、少女も質問はそこそこに息を飲んで剣士と獣の攻防を見つめていた。
狼王フェンリルの動きの速さはまさに風のようで、輝く銀の体毛も相まってまるで吹雪のようだった。
剣士の周囲を円形に回り、背後から、側面から、縦横無尽に狼の爪と牙が襲い掛かる。
対する少年も負けてはいない。
撹乱と急襲の獣の戦法に対し、黒騎士たる彼は一か所に陣取りそこを動かない。
無抵抗という意味ではない。
どうせ人間が獣と駆け比べをしても勝負にならない。無駄に動く必要が無いのである。
「!」
爪牙が襲いくる場所をいち早く察し、その場所に刃をあてがえば、次の瞬間にはぴたりと爪を止められた銀狼がそこにいる。
そうして隙を晒した横腹目がけて剣を振っているのだ。
その反撃が早い。
反攻の瞬間だけ彼自身も獣のように素早くなり、足で敵わない筈の狼に追い縋って猛撃を浴びせる。
俊敏に攻撃を仕掛ける狼と、器用に動きを止めて的確な反撃を繰り出す剣士。
素人にはもはや認識できない次元の戦いだった。
少年が動きを止めてくれないと、銀狼の姿は碌に見えないくらいだ。少女を襲った刺客と比べても全く格が違う。
幾度攻撃を止められても、反撃が飛んできても、俊敏な狼は素早く身を翻し、絶え間なく襲い掛かる。
素人目にも見どころのある、息を呑むような試合だった。
しかし耐える少年の方は、しばらく経つと大分億劫そうな様子になってきた。
疲れだけが理由ではないらしく、攻撃を器用に捌きながらも急に観念したような口調になる。
「あのさっ、フェンリル……」
「なんじゃ」
「その、悪かった。素通りして魔王に相談しに行ったの、謝るから……っ、そろそろ、勘弁して。これ八つ当たりだよね」
「……ふん」
苦笑交じりに交渉すると、ひっきりなしに響いていた金属音がようやく止み、森の集落は嵐が去ったように静かになった。
瞬間、
「っ!?」
余波のようにもう一陣の風が吹く。
正に瞬きの瞬間だった。
少年と干戈を交えていたはずの狼は、気付くと少女の目の前にいて、その細首に鋭い牙をあてがっていたのだ。
何が起きているかを理解するのにたっぷり一秒。
やっと恐怖を感じた頃には、すでに狼が背を向けていた。
「……本当にただの小娘とはな」
鋭い目を少し見開きながらの言葉は、ただの感想か、それとも嫌味なのか。
どちらとも取れる台詞を投げつけて、銀狼は少年の傍にのそのそと戻っていった。
「お主が連れてきたというから堅気の者ではあるまいと思っていたが……よもやあの魔王が真実を申すとはのぅ」
「まぁ、もっともな意見なんだけど、成り行きだから、この件は許して……あ」
振り返ると、ポツンと少女が取り残されていた。
見物人の獣たちは、試合の終わりとともにさっさとはけてしまったらしい。
住民に世話を任せるつもりでいた少年だが、結局は自分で話すこととなった。
「そんなつもりはなかったけど、紹介はする。この狼はフェンリル。この地の王で、僕の義父」
「………」
「……?」
呼びかけても、座り込んだまま返事がない。
目の前で手を振ってみても反応がない。
どうやら、
「……フェンリル、脅かしすぎだ」
気を失った少女を背負いながら、少年はため息と共に自宅へ歩き出した。
世界観紹介……魔族
この大陸に住まう人間以外の知的生命体。王国では『魔物』と呼ばれ蔑まれている。
人間に僅かに劣る程度の知能と、人間をはるかに凌ぐ身体能力を持った、言うなれば喋る動物。
獣、鳥、魚、虫、妖精、そして竜族の六種族があり、それぞれが狩りや採集、農業を以って生活している。
姿はそれぞれの種族由来の者がほとんどだが種類等に統一性はなく、例えば獣なら猫だったり犬だったりする。
さらに顔は動物にもかかわらず人間のように二足歩行をしたり、獣耳や尻尾、翼などが生えているだけで他はほとんど人間と変わらない者もいるなど形質は多種多様。
全体に仲間思いで、他種族相手であっても子供には優しい温和な性格。
古の時代より人間と相対してきた仇敵であり、かつては人間の版図を狙って大侵攻を企てた……と王国には伝わっているが実際のところ彼らにあからさまな戦意は見えず、イクトとは仲が良さそうでリズの事も歓待しているなど、人間側の伝承と事実とは大きな乖離を起こしているようだ。
彼らはこの世界において重要な役割を持ち、かつては人間もその輪の中にあった。
人間たちが袂を分かったその使命こそ、この物語の根幹を為す存在となっているのだが、現状真実を知るのは魔族以外だとイクトただ一人だけである。