5話
かつて、先王の統治がまだ生きていた頃。
人間の国々が現中央領を中心に『王国』という名に纏まってもなお、自治を叫んでそれを実践した国がいくつか存在した。
それが現東方、及び南方領の国々であった。
両勢力はそれぞれ強兵を誇り、東方領は単体で高い戦闘力を誇る軍を保有していた。
東方領主は優れた統治の手腕と用兵を以って中央から自領への介入を許さず、王国の発足後も長年にわたって自治を守り、王国の中にあってさながら陸の孤島の如く一個の国として存在し続けたのだ。
それが崩れたのは南方領の瓦解がきっかけだった。
南方領は当時から王国の転覆を狙っており、密かに西方領と通じていた。
自らの娘を西方領主の子息と婚約を結ばせて関係を作り、東方領の静観を確認すると二勢力を以って中央と北方から成る王国の中枢を打ち砕かんとした。
しかし西方領主が保身に走り、先王の口車に乗って南方領を裏切ったことで『騎士団』は敗走。国土は現在に至るまで荒廃の一途を辿ることになった。
かくして東方領は王国の中で唯一王の意向に従わないことで孤立を深め、更には南方領を平らげた中央軍に包囲される格好となった。
やがて東方領は王国に従わぬ人間の逆徒と呼ばれるようになり、武力による制圧を受けることとなった。
精強な『武士団』と呼ばれる兵士たちを抱えていた東方領も、時と共に数の力で押され始め、そして。
「お父様に敗れた東方領主は討死。あなたとルカは捕らえられ、反乱分子への見せしめのために処刑されるはずだった」
一般人にも多大な被害を与えた先王が、敵の首魁の血族を見逃すはずはなかった。
しかし、そんな先王にも迂闊に手出しができない相手がいたのだ。
それは王国、ひいては大陸中で救世主と崇められ、民衆の信心を一身に集める存在。
「処刑場に引き出される日……あなたは『剣の天啓』を受け、勇者となった。そしてその力で執行人や兵士たちを、民たちの目の前で蹴散らしたわ」
「………」
剣の天啓。
勇者たる資格ある者にのみ下る不思議な夢。
それをきっかけとして勇者は目覚め、使命を履行するための力を得るという。
神気や魔法の存在が忘れられた王国において、幼い子供が並外れた力を発揮するのは勇者の証とされた。
多くの人々が集まった処刑場。その中であろうことか死刑囚が勇者として覚醒し、隠しだてができない状態で強大な力を振るった。
兵士たちの胸までしか身長の無い子供が、小さな拳を血に染めながら暴れまわったその姿は恐ろしくも紛れもない勇者の証だったのだ。
救世主の信仰がある王国において勇者を殺すわけにもいかず、ひとまず処刑は中止となった。
事態の収拾を付けなければならなくなった先王は当時十歳の少年を呼び、弟の命を交渉材料にこう言ったのだ。
「魔王の首を取ってくれば、弟の命を助けてやる」
「!」
女王の声が父王の言葉を再現すると、少女の首がぐるんと回転して庇護者を見た。
怒り狂っていた先とは違い、口元は無表情だ。
一方、話す女王の方は慙愧に堪えない顔をしていた。
「あなたは選択肢もなく旅立った……そして、あなたが魔界に出たところでお父様は始末のために刺客を送り、勇者が死んだことにした。理由は、あなたにはわかるはずよ」
少女がどこかで聞いた話だった。
魔界の住民は、勇者とは戦わない。
それを知った勇者は、魔界と敵対していたい王国にいずれ消される。
だから急いで保護したい。
魔界に来るならすぐに会いたい、と。
「……こういう事なの」
妖精の声が耳元で聞こえて、少女は全てを悟った。
彼は人間に対して辛辣だった。それはかつて彼自身が受けた仕打ちのせい。
彼は弟の命を人質に魔界へと渡った。
しかし先王は約束を果たすつもりなどなく、彼を手ずから殺そうとしたのだ。
勿論、彼の手にかかれば人間の刺客など物の数ではなかったのだろうが、その事は幼い彼の心に浅からぬ傷を付けたはずだ。
生き物の犠牲が魔神を呼び覚ますという真実を知ってからは、猶更。
「イクトさんは人間の過ちを知ってからずっと、罪滅ぼしのために魔界で魔神と戦ってきたの。弟さんを想いながら、人間を恨みながら……ね」
彼の父親は戦達者な人物だったという。
それはつまり敵に多くの犠牲を出したという事でもある。
魔神の脅威を知った後、彼は父をどう思ったのか。
それを知らずに王国に囚われたままの弟を、どんな気持ちで思っていたのか。
その心は少女は勿論、他の誰にも察するに余りあることだった。
「あなたが弟を取り戻そうと躍起だったのは、お父様がルカにあなたと同じことをするかもと、そう思ったからね? でも消されたはずの自分が生きていて、弟を取り戻そうとしていると知れればルカがどうなるかわからない」
「………」
「だから、あなたは正体を隠し『黒騎士』となった」
女王が語った核心に、言われた黒騎士は沈黙したままだ。
無言は肯定の証だろう。
彼は人間と必要以上の言葉を交わしたがらないが、払拭すべき誤解まで放置はしない。
女王はそう判断してもう一度提案した。
「さっきも言った通り、私たちには勇者が必要よ。少なくとも……お父様と同じことはしない。だから、あなたの弟に命の心配はないの。だからルカの事は諦めて」
「ふざけるな……すべて貴様らの都合だろう」
「えぇそうよ、これは人間の都合。でも、話を聞いた限りあなたたち魔界も無関係ではいられないはずよ。王国で起こった犠牲は、魔界にも悪影響をもたらすのでしょう?」
「………」
勇者が王国から消えれば女王は求心力を損ね、力の衰えた中央を巡って王国では内乱が起こるだろう。
元々先王を失って国は傾きかけていたのだ。それを何とか勇者の名前でもたせていただけに過ぎない以上、瓦解も早いのだろう。
そして王国内で犠牲が増えれば、魔界の守護神たちの負担はさらに増す。
勇者を取り上げれば、魔族が犠牲になる。
要するに二重の人質。
それを理解した瞬間、少女はぞくりと怖気に震えた。
嫌な予感がしてちらりと横を向くと、いつの間にか少年が席を立っている。
その右手には、いつの間に抜いたのか白い剣。
耳元で妖精の声が聞こえた。
「……おねーちゃん、イクトさんを止めてっ!」
慌てて少年の腰に抱き着いた時にはもう遅い。
白い剣が彼の頭上に高く掲げられ、
――イクト、ダメっ!
声なき制止を振り切って揺らぐ斬撃が閃いた。
剣の間合いには誰もいない。
だが神速の一閃は切り裂いた風を衝撃の刃と変え、間合いから遥かに離れた女王に向かってその威力を飛ばしたのだ。
薄く輝く衝撃波の刃は一瞬で円卓を真っ二つに叩き割り、そして、
「血は争えないな……父親と同じ卑劣な真似をする」
斬撃は女王の目の前でかき消えた。
だが、ティアラが割れ、露わになった広い額からは一筋の血が流れ落ちる。
明確に主君に危害を加えられながらも両脇の騎士二人は動くことができず、額に汗しながら黒騎士を見つめていた。
衝撃波だけで王国の中心を殺しかけた黒騎士が、憤怒に揺れる瞳で女王を睨んでいたのだ。
「貴様らはずっとそうだった。口では奇麗事ばかりをほざく分際で、いざ実行に移してみれば弱い相手には権力を振りかざし、強い相手には人質を取って、抵抗できなくしてから飲むしかない要求をする……自分の保身のために」
表情は見えないが、軽蔑と非難に満ちた言葉だ。
しかし直ちに噛みつきそうな側近の騎士も、殺気にあてられて声が出せない。
そんな状況にありながら、
「……自分だけではないわ。国に生きる皆のためを思うからこそよ」
「なら国から追われた僕やこのコにその理屈は通じないことになるな」
「より多くを守るために犠牲が必要なことはあるわ。ゼロにならないのは私たち指導者の未熟のせいよ。私やお父様の事は好きなだけ罵ればいい……でも」
女王は、なおも勇敢に黒騎士を睨み返す。
自分が血を流すことも構わず、相手の怒りを買うのも承知。
魔界を含めた全世界。そんな大それた物が天秤に載った交渉だ。引けないのは女王も同じことだった。
「そもそも、お父様を殺したのはあなたよ。王国を守らんとした沢山の兵士たちも、その気味の悪い剣の前に散っていったわ。そのせいで王国は勇者の力なしでは崩れるような傾き方をしたんだから、この状況は巡り巡ってあなたのせいではなくって?」
「貴様は最初の話を聞いていなかったのか。先王が魔界の恵みを欲しがって戦いなんか画策しなければ、僕は勇者を探すだけで奴には手を出さなかったかもしれないんだぞ」
「えぇ、そうね。あなたは魔界に迷惑をかけられない。何より人間を守る勇者『だった』。だから争乱の元となるお父様を放置できるはずはない。それについてだけは謝るわ……『だけ』はね」
女王は席を立ち、真っ二つになった円卓を回って黒騎士の目の前に立った。
勿論護衛二人はついていこうとしたが、主君に止められてまた仁王立ちした。
いや、若い方はそれだけでは止まれなかったのだが、
「止まれ、エミル……!」
「しかし! あんな怪物に陛下を近づけるわけには」
「だからと言ってわしらが行ってもどうにもならんのだ。黙って見ておれ」
「……っ!」
老将軍に留められて歯ぎしりしながら踏み留まった。
それから、憎悪を隠そうともしない表情で黒騎士を睨み、それも窘められて顔を伏せた。
そういう意味で、黒騎士に対する王国の心は一つなのだ。
まさに不倶戴天の解り合えない敵。
それと対等に交渉しなければならないのは、一騎士としては我慢ならないことなのだろう。
そんな臣下の憤りを背中で感じながらも、若き女王は黒騎士に歩み寄った。
「それでも、あなたは父と……臣下たちの仇。逃がしたままでは彼らに申し訳が立たないし、いつか必ず倒すわ」
「僕からしてもそれは同じだ。貴様らは僕たちの故郷を焼き、僕を欺き、このコを追い出し、更には魔界、ひいては世界を脅かしている。その落とし前は付けてもらう」
多くの仲間を手にかけた仇敵。
女王の視線にも少なからず臣下と同じ炎が宿っていた。
奇しくもそれは、黒騎士の仮面の向こうに輝くものと同質。
復讐心の、危険な光。
だが、
「……でも、何度も言うように今は交渉よ。私たちは守護神の捜索に協力する。あなたはリズさんを渡し、勇者を諦めて魔界を出ていく」
その上で、女王の声は冷静そのものだ。
剣を抜いたままの黒騎士を鋭い目つきで見上げながら、女王は彼に向かって右手を差し伸べた。
表情だけは物騒だが、それは握手を促す仕草。
和平の申し出だった。
「誰が良かったとか悪かったとか、状況はそんなことを議論する時を過ぎているはず。過去にこだわっている時間は無いわ。守護神が戻らなければ魔神の暴走で王国も世界もいつか滅びる。そして王国で内乱が起こればいつかは今になるのでしょう?」
「………」
少女の耳元で、妖精が小さく口笛を吹いた。
「やるねぇ、人間の女王様」
少女は咄嗟に頷いてしまったが、姿の見えない声は騎士二人の耳を掠めていたらしい。厳つい彼らに睨まれて少女と妖精は口を押えてしらばっくれた。
一方、対峙している二人は他の音など耳に入っていなかったようで、相変わらず睨みあいを続けていた。
しかし、
「……っ!?」
突然、黒騎士の手から白い剣が消えた。
かと思えばあらぬ方向から呻き声が上がり、そこでは若い騎士が壁を背に呆然と突っ立っていた。
少年は剣を棄てるついでに、少女を保護する予定だった騎士を試したらしい。
投げ撃たれた剣にマントを射抜かれ、壁に縫い付けられた格好の若い騎士。
その気さえあればすでに死んでいた姿を見て、少年はため息を吐いた。
「……一つ目の条件は却下だ。そんな雑魚では到底この子を守れない。あんたの母親の側近はそいつよりも強い」
「……!」
張り詰めていた空気が、殺気と共に霧散した。
空いた少年の右手が、渋々ながらといった様子で女王の右手と握り交わされる。
そして、やはり彼は不遜な態度のまま、
「二つ目の条件だけは飲んでやる、卑怯者め。だから守護神の手がかりを寄越せ。それから……自分で言ったことは守ってもらう。このコの事は教えてもらうぞ」
互いの約束を守るようにと念押しして、女王も少女もようやく肩の力を抜いたのだった。
世界観紹介……王国における『勇者』
勇者とは、世界に危機が訪れるときに現れる救世主だとされている。
そこまでの見解は王国、魔界に関わらず『大陸』で共通だが、人間が言う世界とは自分たちの社会の事であり、他種族の事には触れていない。
そのため、勇者という存在は必然人間のための救世主だと伝えられており、例えば人間から離反したイクトはその時点ですでに勇者とは目されない(彼は王国においては死んだことになっているが)。
逆にルカのように各地で慈善活動をする勇者はその鑑とされ、現人神のように王国中からの崇拝を集めている。
総じて信仰の対象として扱われるが、守護神と共に多くの伝承を失った人間たちは彼らの真の使命を知らずにいる。




