1話
王国の領地を一歩外に出ると、そこからは果てしない樹海が広がっている。
人々が『魔界』と呼ぶ領域である。
人間の勢力圏の外であり、彼らを脅かす『魔物』たちが支配する世界。
鬱蒼と茂った森は人間の侵入を許さず、人間側も自らの領内に『魔物』の侵入を防ぐ城壁を作った。以来、魔界の住民達が王国に入ることはできなくなり、逆もまた然りと言った状況が長きに渡り続いていた。
しかし、今日はどういう訳か、様子が違っていた。
魔界の森の入り口には、いない筈の人間の姿があったのだ。
数にして五人。
一人はどう見ても野外での活動には向いていない薄手のドレスの少女。
着の身着のまま家から出てきたという様子で、木の枝や根に引っかかったのか長いスカートがあちこち破れている。
長い金髪を乱し、翡翠の瞳には微かに涙を浮かべながら、荒れた道行を必死で走っていた。
後を追う影は四つ。
こちらは対照的に森の中でも動きやすい軽装の男たちである。
黒頭巾で素顔を隠した様子はどこからどう見ても刺客の風情だ。
どうも追手らしい男たちは、必死に逃げる少女を弄ぶように、短刀をぎらつかせながらわざと少し距離を置いて走っている。
追いつこうと思えば少女の足如きに負ける筈がない。
要するに、疲れ果てて倒れるのを待っているのだ。
「……っ!」
その時は思いの他早く訪れた。
足が利かなくなったところで、スカートが木の根に引っかかったのだ。
走り続け、疲れていた少女には踏ん張る力などない。
華奢な身体が思い切り前方に浮き、腐葉土に顔から身を打ち付けた。
「……!」
倒れた少女の背中に、刺客達はのっそりと近付いていく。
ほとんど遊んでいたのだ、こちらは息を整える必要すらない。
動けない彼女の周りを、男たちは四人がかりで悠々と取り囲んで、
「悪く思わないでいただきたい、リズお嬢様」
「太后様の思し召しなのです」
「ここで死んでいただく」
「お覚悟を」
順番に言うと、ゆっくり短刀を構えた。
相手は見た目も中身も素人だ。全員でかかる必要も無い。
少女の正面に立った一人が無造作に歩み寄り刀を振り上げた。
喉笛への一撃を以って、か弱い彼女に何の苦も無く引導を渡す。
そのつもりで短刀を振り下ろしたが、
「ぐあっ!?」
どういう訳か倒れたのは男の方だった。
短刀が少女に当たる前に、何者かが男の脇腹を思い切り蹴り飛ばしたのだ。
油断していたところに強烈な一撃を貰って吹き飛び、男は背中から木の幹に打ち付けられた。
「何者だ!?」
少女を囲んでいた刺客たちは直ちに闖入者へと視線を向けた。
と、同時に戦慄した。
「く、黒騎士……!」
そこにあった漆黒の剣士の姿は、今や人間たちの間では語り草となっていたのだ。
目元は仮面に隠れ表情は見えない。
そのせいで艶やかな黒い長髪だけがやたらと目を引き、声を聴かなければ女と誤認してもおかしくない程に優男の風情を漂わせている。
とりわけ剣は目を引く姿をしていた。
まるで空間を剣の形に切り抜いたような、物質感のない姿。例えるならば白い霧や霞が剣の形を取っているかのような、幻想的で不気味な剣だった。
不思議な剣と、言葉や佇まいから発される殺気が近寄りがたい男性的な雰囲気を醸し出し、妙な均整を保っている。
謎の剣士は感情の無い声で、少女を含めたその場の人間全員に問うた。
「お前たち、人間だろう。何故魔界に人間がいる」
かく言うこの剣士も人間であろうが、そんな指摘をするほど呑気な雰囲気でもない。
言葉遣いは随分と尊大だったが、声を聞けば剣士が年若い少年であることはわかる。
そんな小童に余裕の態度を取られるのは、熟練の暗殺者である彼らにとって屈辱も良い所だ。
「おのれ!」
「見られたからには生かして帰さん!」
一触即発、そもそも会話にさえならない。
この手の仕事を持つ者が第三者に現場を見られたとあれば、速やかにその抹消を考える。
暗殺者は、当然の如く後ろめたい事の塊のような商売だ。依頼主、標的、人数構成等々、持って帰られると困る情報はいくらでもある。
四人の刺客は一斉に、謎の剣士目がけて襲い掛かった。
先ほど吹き飛ばされた男も、落ち葉を頭に付けながら体勢を立て直し、四人がかりの総攻撃。
勿論、ドレスの少女は座り込んだままだ。
刺客に迫られながら、剣士は一人動けない彼女を見て、
「……なるほど」
合点がいったというように頷いた。その間にも刺客の凶刃が迫っているというのに余裕そのものである。
無論、剣士がよそ見する隙にも刺客たちは突撃は続いている。
「舐めおって!」
先頭の男が剣士の喉笛に短刀を突き立てようと迫る。
剣士は盛大によそ見をしていたので、あっさりと間合いに入られてしまっていた。
そのように隙を晒した相手の始末は、暗殺者にとっては本分も本分だ。
「死ねぃ!」
剣士の首筋を目掛け、男が短刀を振るった。
仮に初撃を躱しても他三人の追撃までは防ぎようも無い。
素人目にも剣士の末路が見えて、ドレスの少女は硬く目を瞑った。
だから、その瞬間を見る事は叶わなかったのだ。
黒い剣士は初撃を躱しさえしなかった。
ただ剣を横薙ぎに一閃しただけだ。
「ぐお」
それだけで、先駆けの男は胴から上と下を分断された。
「ごっ」
怯んだ二人目は首をはね飛ばされ、
「ぎゃ」
三人目は心臓を一突きにされた。
勿論、全員即死である。
「……? !?」
少女がいざ目を開けてみると、そこには想像とは真逆の図が出来上がっていたのだ。
剣士は傷一つ無く、無造作に剣を構えた格好のまま。
逆に、全員一刀の下に呆気なく斬殺された刺客の亡骸は、無残の一言だった。
一人は胴の上下が寸断され、一人は首が飛び、一人は穴の開いた胸から噴水のように血を吹き出している。
一瞬目を離した隙に三人前の死体が出来上がっていたのだ。
流血沙汰に慣れていない者には刺激の強い景色だろう。
急な運動で紅潮していた頬はさっと蒼ざめ、小さな肩が細かく震えた。
「ば、馬鹿な」
一方、最後尾にいたことで難を逃れた最後の一人も顔色を変えた。
少女と違い、この男は仲間が斬られる瞬間をしかと見ていたのだ。
幸か不幸かこの男は手練れだった。だからこの剣士の力量にも見切りが付いていた。
目の前の小柄な剣士が振るった恐るべき連撃を目の当たりに、男には彼我の実力差の目算がすぐに立ってしまったのだ。
「くっ」
とても敵わない。
早々にそれを悟った男は直ちに踵を返し、逃げの一手に走った。
戦いとは勝てる時にするものである。
まして暗殺者とは、本来正面からの戦いは専門外だ。
素人相手ならともかく、れっきとした戦士を相手にするのは分が悪い。
不利を悟ったなら戦いを避けるのは道理だった。
勿論、相手がそれを許してくれるかはまた別の問題だが。
「な、なにぃっ!?」
森の入り口へ向けて駆けだした瞬間、黒い剣士が殆ど瞬間移動のように目の前に現れたのだ。
いとも容易く退路を塞がれ、男は見るからに狼狽えた。
必死に逃げ道を探すものの目の前の剣士には一切の隙が見えない。下手に動けばそれこそ殺されるだろう。
こうなると最早取れる手段は一つしかない。
逃げ道がないなら力づくでまかり通るだけ。できなければ死ぬのみだ。
「かくなる上はっ!」
ろくに整地も為されていない足場の上で軽やかに跳ねながら、刺客は軽業師の如く俊敏な動きで黒い剣士に襲い掛かった。
残像が残る程の素早さ。
端から見ている少女には到底見切れない動き。
動き回り死角から急襲するにも、見失った隙に逃げるにも使える暗殺者の体捌きだ。
しかし、
「馬鹿が」
「なっ……ぐふぅっ!?」
剣士が白い剣を突きだすと、男の身体はいとも容易く串刺しになっていた。
「何故……見切れ、る……」
「何故も何もあるか、のろまめ」
なんの事はない、剣士はただ刺客の動く軌道に剣先を置いておいただけである。
詰まる所、刺客の男は自分から相手の剣にその身を突き刺したのだ。
腕に自信があるはずの暗殺者だが、その技はどう見ても二十歳かそれ以前くらいの剣士に完全に筒抜けだった。
「ありえ……ない……」
明らかな実力差に打ちひしがれ、男は剣に吊り上げられたまま息絶えた。
突然現れては男たちを皆殺し、圧倒的な力の差と絶望感を突きつけた謎の剣士。
血に濡れた森の景色の中、しかし当人は何の感慨も沸かない様子で、
「………」
まるで屑を扱うように刺客の亡骸を投げ捨て、剣士は少女に目を向けた。
刺客は全滅し、残ったのは少女のみ。
どう見ても場慣れしていない様子で、あっという間に出来上がった殺人現場に震え上がっている。
或いは次に斬られるのは自分かもしれない。
そんな恐怖感からか、少女は座り込んだまま動くことが出来ずにいる。
黒い剣士は得物を握ったまま、そんな彼女にゆらりと歩み寄った。
「!」
不意に近寄られ、少女はすっかり怯えていた。
肩を震わせ死の予感に涙すら流して仮面の剣士を見つめている。
そんな少女に黒い剣士は冷たく一言。
「……素人か」
無論、戦いの練度を指しての言葉である。
動けない少女は服装が少々上等なことを除けば完全に一般人だ。
既に剣士は構えを解き、隙だらけの格好をしているが、この相手はそれもわからない。
二人は会話も無いまま視線だけを交わし続けていたが、
「……はぁ」
剣士の方は埒が明かないことを悟ったらしい。
溜息と共に不思議な剣を鞘に納め、少女の横をすり抜けた。そしてそのまま背を向け、剣の間合いの外まで歩き離れていく。
「……?」
剣士からするとこれは「敵意は無い。何もしない」との合図だった。
少女にはそれもわからない。
突然得物を納めて背を向けた人物を、座り込んだまま不思議そうに見つめるだけだった。
それに対して剣士は振り向き、やはり一言だけ、
「……来い」
そんなぶっきらぼうな言葉と共に、相手を待たずに歩きだす。
これまた素人には訳が分からないが、こんな森の中に置いて行かれるわけにもいかない。
少女は慌てて立ち上がり、その背を追うのだった。
世界観紹介……『大陸』
この作品の舞台。特に名前は無くただ『大陸』と呼ばれている。
ひし形の陸地の上で大きく三つの勢力に分かれており、北東部に『王国』、北西部に『魔界』、そして中央から少し南に『大砂漠』という広大な砂地があり、そこを超えた先に『境界』の荒野が位置している。
王国には人間たちと少しの動物、魔界には彼らが『魔物』と呼ぶ種族が暮らしており、仲の悪い両者は長年争いが絶えなかった。
そんな戦いに疲れた者や、故郷を無くした者は境界に安住を求めることがあるようだが、多くは大砂漠で力尽き目的地にたどり着くことはないという。