終章
魔界の樹海、その南部。
そこは『翼人族』という鳥の姿を持つ魔族が住まう渓谷だ。
魔界の全種族の中でも最も広大な領地であり、北は獣族が暮らす樹海と交わり、西からは豊かな水が流れ込んでくる。
険しい土地柄で農耕には適さないが狩りの獲物は多く、翼を持つ翼人族にとっては大いに住みよい楽園であった。
魔界の自然の豊かさは、しかしそのまま魔神との戦いの激しさの現れだった。
例えば獣族が住まう森は、定期的に暴走した獣神が拳を以って大地を耕す。それによって草木が萌え、それらを餌とする猪や鹿を呼び寄せる。そうして集った実りを受け、獣族は飢えることなく来るべき戦いに備えることができるのだ。
魔族で最も広大な領地。
それはすなわち魔神の被害が他の領地よりも広範囲に及ぶことに他ならない。
この地の特徴となる渓谷もまた、魔神の攻撃が作り出すものだ。
吹き荒れる烈風が、衝撃波が、今この時も大地に新たな傷痕を刻み、この地に新たな山、谷を形作っていた。
「止めろ! 止めろーっ!」
「この先は獣族領だ。絶対に行かせるなぁっ!」
喧騒が響くのは遥か天空。
そこには無数の黒点と、巨大な翼を持つ何かが地上に影を落としていた。
騒いでいるのは小さな点の方だ。
個体によって色の違う羽毛の生えた身体に、筋骨隆々の腕と、逞しい鳥の足、大きな嘴、そして背中に巨大な翼を生やした魔族の群れ。
彼らこそがこの地に住まう翼人族だ。
つまり、いま彼らが対峙している巨大な翼こそ、この地を治める守護神。
金色の羽毛に、孔雀のように鮮やかな尾羽を持った美しい巨鳥『翼神』だ。
魔神と化した翼神は翠に光る瞳を輝かせ、翼にものをいわせて所かまわず飛びながら巨大な鳥足を大きく振りかぶり、激しく暴れ回る。
獣神の拳と同様、鋭い鳥の爪から放たれる攻撃は強烈の一言だ。
正面から立ち向かう翼人族の戦士たちは勿論だが、振り下ろされる鳥の爪は一撃一撃に烈風が伴う。
攻撃が降り注ぐ度、地上の渓谷には線を引くような深い傷痕が刻まれ、崖は轟音と共に細かく裁断されて谷に変じていく。
そしてその中に次から次へと散っていった戦士たちが墜落していく。
日も暮れかけた現在、戦いはすでに終盤であり、黄昏の薄暗さに加えて傷ついた翼神から溢れる神気の霧に光が阻まれ、周囲は随分と暗くなっていた。
「王! 朱雀王はまだ動けないのか!?」
双方すっかり弱っている。戦士は数を減らし、魔神も最初に比べればいくらか動きが鈍い。
本来なら魔神に止めを刺して決着なのだが、それは普通の戦士たちには実行できない。
翼人族の戦士たちの獲物は多くが弓や槍だが、そんなものでいくら突いたとて巨大な魔神には致命傷にならないのだ。他の種族も自前の武器では似たようなものである。
そのため魔族は各種族の王が『神化』と呼ばれる秘術で自らを魔神と拮抗する巨大な姿と化し、その力を以って戦いに決着を付けるものなのだが、翼人族の『朱雀王』アスカ=カトルは傷を負い脱落してしまっていた。
死んではいないが今は地上で手当てを受けていて、すぐに動くことはできない。
止め役の王が戻るまで戦士たちは魔神を食い止めなければならなかった。
魔族の戦士は種族問わず数が少ない。
翼人族は獣族よりは数を保っていたが、それでも空に残っている人数はすでに百を切っている。
魔神戦で王がいなくなった魔族はこうしてじりじりと弱っていくのみだ。
これ以上戦いが長引けばたとえ戦いに勝っても種族には決定的な大打撃が残る。
鳥の戦士たちの間には陰鬱な空気が漂っていたが、
「……間に合った、という事で良さそうだな。辛うじてだが」
「魔王っ!」
霧を割いて現れたのは、刺々しい異形の巨剣を携えた逞しい悪魔の姿。
魔界全土を統括する魔王ゼマデリアは大きな蝙蝠の翼を羽ばたかせ、疲労の色が濃い鳥人間たちの前に悠々と飛来した。
「翼の戦士たちよ、よく戦った! 汝らの王の代理は我が果たそう!」
掲げられる巨大な剣。
それが赤い魔法の光を宿し、刃には辺りの神気が吸い取られるように集っていく。
収束した神気は魔王の術によって天を焼くような巨大な火柱の剣を作り出し、
「……やはり、もう長くはもたん……なぁっ!」
ぼやきと共に翼神の頭上に降り注いだ。
結局、魔王の助け舟によって翼神は討たれ、本来の守護神の姿に戻っていった。
ひとまず壊滅を免れた翼人族は後日、新たな集落の建設に取り掛かったのだが、そんな作業の最中、朱雀王は魔王に乞われて魔王城に参じていた。
「魔王よ。先日は俺が不甲斐ないばかりにご足労をおかけした……いや、面目ない」
全身真紅の羽毛と翼に覆われた細身長身の鳥男は、手当の痕が生々しい有様で頭を下げた。
対して玉座に座る悪魔は傷一つなく悠然としたものだ。
朱雀王の謝辞を前に足を組み、頬杖をつきながら「よい」とだけ言って顔を上げさせた。
「魔王は魔界全土の最終守護者だ、これも役目よ」
魔神を鎮めるのは対応する魔族の各種族。そして止めを刺すのは王の役目だ。
だが激しい戦いによって王が負傷したり死んだりすることはままあることだった。
魔王は魔界中に影響力を持ち、甚大な被害を被った集落には他種族から支援を要請したり、王が倒れた際は自らがその代理となる。
守るべき自分の種族を持たない代わりに、魔界全土の最後の守りを司る。
それこそ彼が魔界の王たる所以だった。
「して、後どのくらいもつのだ」
「……そうだな、あと四戦もすれば限界だろう。俺も最後まで付き合えるかどうか」
朱雀王は猛禽のような嘴に手を当て、答えた。
「もつ」とは、「限界」とは、わかりやすく種族がどのくらい持つかということだ。
魔神との戦いは激しく、被害は大きい。
荒れ狂う神の攻撃は領内を蹴散らし、止めようとする戦士たちにも、避難した民たちにも等しく降り注いでその命を散らし数を減らしていく。
しかも現在、人間の守護神の脱落によって魔神の出現頻度は早まっている。
戦いの頻度が増えたことで魔族の戦士たちは急速に疲弊し、今や全土で絶滅の危機を迎えていた。
芳しくない報告を聞いて、魔王は「そうか」とため息を吐く。
「……要するに、どう足掻いても世界の命運はあやつが握っているのだな。時間にしろ手段にしろ」
「黒騎士殿か。彼が魔界にいれば、もう何戦かは鯖を読めるが……」
「それも最早時間稼ぎ以上にはならん。だから獣神はあやつを行かせたのだろう……で、その黒騎士の件なのだが」
「あぁ、言われた通り連れてきている。入れ」
魔王は、翼神との戦いが終わった直後に翼人族に依頼を出していた。
朱雀王を呼び出したのは近況報告もそうだが、依頼の成否を聞くためでもあったのだ。
赤い鳥男の合図で玉座の間の大扉が開くと、向こうから梟の顔と翼を持った翼人族が入ってきた。腕には何かを抱いているが、ふさふさと深い羽毛に隠れて正体は見えない。
「手間をかけたな、翼の民よ」
「いや、魔王の願いとあらば何なりと……しかしこれはどういうわけなのです?」
魔王の礼を受けて梟男が抱えた荷物を下ろすと、ようやくその全容が明らかになった。
それは、ぐったりと気を失った人間の娘。
赤い髪に、黒装束を纏った太后の暗部。
黒騎士が王国南方領で出会い、捕らえた娘だった。
「あの小僧、我が手下を顎で使いおってな……王国に潜む妖精は少ないというに、かき集めて我に連絡を寄越したのだ。守護神への手がかりを知っているかもしれないから魔界で尋問してくれ、と」
妖精は大陸中に散って各地の様子を魔界に届けてくれる。
王国もその例外ではなかったが、妖精たちの自衛の手段は魔法が主だ。
なので神気の薄い王国には魔界に比べそれほど数がおらず、魔界から遠い中央領の東側や東方領には入れない。
北、南の領地でも多いわけではないので、正に連絡の限界距離から来た報せだった。
「人間の娘は細っこいですが、妖精に運ばせるのは無茶ですなぁ。それでワシが選ばれたのですね」
王国へ入る都合、昼間だと誰かに見咎められる可能性があった。
魔族が迂闊に魔界に踏み入ると王国は無用の警戒をするだろう。
そのため夜中にこっそりと動け、しかも人間に見つからない者が必要であり、翼人族の中でも夜目が利く梟の老戦士が魔王の使いに選ばれたのだ。
梟男は現地の妖精たちから言伝を預かり、それを魔王に伝えるつもりであったが、それにしても、と。
「……黒騎士様が人間を嫌っておるのはワシもよく知っておりますが」
黒い服は胴の部分だけが破れて腹が露出しているが、随分ひどく殴られたのだろう。滑らかな白い肌は打撲傷で青く変色していた。
肩と足首にも傷が見える。
どう見ても刃物で切り裂かれたそれは寸分の狂いもなく腱を断ち切り、腕と足の動きを封じていた。
誰かが魔界に運ぶ手間を考え、黒騎士は律儀にこうして『荷物』が抵抗できないようにしてくれていたのだろう。
味方にとっては心遣いともいえるが、散々痛めつけられたらしい娘にはとんでもない話だ。
止血はされているが、手当てはそれだけ。無論痛むだろう。
娘は意識を失いながらも時折痛みにうなされているようで、それを見た梟男は顔をしかめた。
「これは、酷いのぅ。ワシら魔族にはあんなに優しい子ですのに……」
「なに、この娘はマシな方だぞ。何せ命がある。しかも五体満足だ」
朱雀王が皮肉っぽく笑った。
確かにあの少年の前に立った人間はほとんどが白い剣にかかって命を落としている。その点を鑑みれば命があるだけ儲けものなのだろうが。
悪魔は無表情で満身創痍の娘を見やり、額に手を当てた。
「……あの小僧が絡むと溜息が絶えんな。おい、者ども」
「「「はぁい」」」
魔王の呼び声に、部屋のあちこちから妖精たちが現れた。
色とりどりの翅を輝かせながら寝かせられた娘の周りに集まってくる。
「見ての通りだ、手当の準備をせよ……死に体だからな、無碍にはするな」
「あぁ待て妖精たち。報告が済んだら俺たちが運ぼう、お前たちには大荷物だ」
朱雀王は彼女らに代わり娘の身体を抱き上げた。
そして、手短に報告を済まそうと梟の部下に確認をする。
「で、お前……指輪と言ったか?」
「はいですじゃ。『姫君の指輪』と」
「指輪?」
魔王が聞き返すと、朱雀王はこくりと頷いた。
「黒騎士殿が姫君のことを聞くとそう答えたと。俺には何かわからないが、それを言うなり力尽きたようだ」
「……なるほど」
「ともかく、姫君と関係があるのですな。獣神が反応したという」
魔王は頷いた。
あの少女は確かに指輪を付けていた筈だ。
魔界に来た時、ぼろぼろのドレスの他に唯一持っていたものだ。紫の石が嵌まった不思議な指輪だった。
姫君があの少女で相違ないのなら指輪とはそのことだろう。
そしてそれを知るこの娘も守護神と関わりがあるかもしれない。
黒騎士はそう判断し、まだ聞き出せることがあると思った。
だからこの娘を生かし、魔界に送ったのだ。
魔王は玉座を降り、朱雀王の手から娘を預かった。
「大義であった、翼の民たちよ。こちらの調べは我が付ける故、所領の復興に戻るがいい。雪除けの用意に忙しいだろうし、こちらも事が動きそうなのでな」
翼人族は戦いでただでさえ消耗している。その上冬に凍死者まで出てはたまらない。
鳥人間たちは魔王に一礼すると、玉座の向かいにあるテラスから自領へと飛び立っていった。
彼らを見送ると魔王もまた、妖精に部屋の用意を指示しながら大扉を潜る。
そんな彼の脳裏には絶えず、王国の景色が流れ込んでいた。
「……さて」
あの少女に最初に渡した腕輪は、魔王の監視装置だ。
目を閉じ、意識を集中すれば、少女の腕輪にはめ込まれた無数の『目』から彼女の周囲の様子を伺うことができる。
見える景色は、人間の町の入り口。
雪の降る中、門の前で妖精と語らう少女の前に見慣れた黒い影が近づいてくる。
隠れることもなく堂々とした態度を見るに、刺客ではない。
黒い外套の中には、隠された剣の鞘が見え隠れしている。
言うまでもなくあの少年、噂の黒騎士の姿だった。
「着いたか、中央に」
勇者を求める黒騎士と、彼と共に守護神を求める少女。
二人の合流は、それ即ち衝突の始まりだ。
かくして王宮への道は開かれ、人間と黒騎士の二度目の邂逅が幕を開ける。
大体週に一回の投稿です。
ご愛読ありがとうございます。




