第八十二話 リーリアの死
リエルはルイとチェスをしていた。そこでルイから聞かされた。あの夜会でリエルを襲った某伯爵の処罰を…。
「あの男には慰謝料を請求することにしました。」
「慰謝料?」
「ええ。姉上に手を出そうとし、それによって傷つけられた姉上への慰謝料に五大貴族への侮辱に無断で他家の名を出しての悪用…、
これらを含めた慰謝料を請求します。
まあ、既にあの男は廃嫡・爵位剥奪され、一市民でしかない。
実家はあの男を見放したのであの男の代わりに慰謝料を肩代わりする気はないでしょう。
何せ、あの男のせいで実家は爵位降格、領地の一部返還を命じられた。
家族には相当恨まれているでしょうね。
僕としては、爵位剥奪にして、国外追放にして頂きたい所でしたが…、」
「い、いえ。さすがにそこまでは…、でも、それだとあの男はどうやってお金を工面するつもりなの?市民になっても貴族が生活できるとは…、」
「ご安心を。あの男には鉱山の強制労働を命じました。今頃、護送馬車に乗せられている頃でしょう。」
「え…、」
鉱山の強制労働ということはほぼただ働きで奴隷のような生活を強いられるという事だ。
鉱山の仕事は肉体労働で屈強な男達が働く場所だ。
甘やかされて育った貴族令息が耐えられるだろうか。
「例え、怪我をして病気をしてもそれは全て労働で補って貰いましょう。」
サラリ、と言うがつまり、治療費も全部その労働で稼いで返済しろということだ。
多分、あの男は十年以上はそこから出られないだろう。下手したら一生出られないかもしれない。
―暴行未遂でこれだけの目に遭うなんて…、これ、仮に事後だったらどうなっていたんだろう?
そんな目に遭うのは御免だがつい想像してしまうリエルだった。ルイが駒を動かした。
「それから…、もう一つ気になる事が。
リーリア・ド・ブロウが亡くなったそうです。」
「え…、リーリア嬢が!?それは、本当なの?ルイ。」
「ええ。服毒による自殺、だそうです。」
「自殺…。もしかして、彼女は…、」
「口封じに殺されたのでしょう。何者かに。」
リエルはふと思い出した。
リーリアが言っていたあの人、という誰かを指す言葉…。もしかして、その人が…?
―何だか…、嫌な予感がする。
「俺と婚約を破棄してくれ。」
「…理由をお聞きしても?」
「俺とお前はこれから先、一緒になっても幸せにはなれない。お前は俺を愛していると言うが…、お前のそれは愛じゃない。」
リエルは気が付いたら、暗い場所に佇んでいた。
そして、数メートル先にアルバートの姿が見えた。
彼は誰かと話している様子だった。
アルバートと話している相手はこちらに背を向けているので顔が見えない。
長い髪にドレスを着ているので相手は女性だろう。
「あなたが私にそんな事を言い出すなんて…、以前のあなたはそんな事絶対に言わなかった。…何故なの?アルバート。」
「それは…、」
「あの女のせいなのね。」
女の声は自分によく似ていた。
静かな口調なのに低く、ゾッとする程に冷たい声。
「あの女と出会ってから、あなたは変わった。
あの女に何か言われたのでしょう?
そうなんでしょう?
…彼女にはお仕置きが必要みたいね。」
「やめろ!彼女は関係ない!
リーリアに何かしたら、俺はお前を許さない!」
アルバートの怒声に目の前の女は一瞬、息を呑んだ。そして、そっと俯くと
「…そう。私よりもあの女を取るのね。
子供の頃からずっとあなたの傍にいた私よりもあの女を…、私を捨てるのね。アルバート。」
泣き叫ぶこともなく、取り乱したり、縋った様子も見せない。
ただ、ぽつりと呟かれる声。
だが、それがより不気味さを増していた。
「いいわ。あなたを解放してあげる。アルバート。」
「え…、」
アルバートはあっさりと女が頷いたことに驚いた様子だった。女はアルバートを見上げ、
「あなたが私を愛していないことには気づいていたわ。あなたはただ同情で私の傍にいてくれただけ。
…あなたは両親に愛されていない私を不憫に思っていただけ。
それでも良かった。例え、同情でもあなたが傍にいてくれるなら…、私はそれでよかったの。」
「…ル。俺は…、」
アルバートは苦しそうな表情で女性に何かを言いかけるがすぐに口を閉ざした。
「分かっていたわ。あなたがいつか私から離れる日が来ることは。
…だから、決めていたの。あなたがその選択をした時は私は潔く身を退こうって。」
「ッ…、すまない。
これは、俺の我儘から言い出したことだ。
できるだけの償いはする。
勿論、慰謝料も払うし、今後の縁談にも…、」
「…アルバート。だったら…、最後に私のお願いを聞いてくれる?」
「お願い…?何だ?」
「私を抱き締めてくれる?」
女はその場からは動かずにスッと両手を伸ばして、小首を傾げた。
「お願い…。最後にあなたのぬくもりを感じたいの。もう…、この先あなたの熱を感じることはできないから…。」
懇願するような声には切なさが入り混じっていた。
アルバートは躊躇しながらもやがて、意を決したように唇を引き結ぶと
「分かった。それがお前の望みなら…、そうしよう。」
アルバートはそのまま女の背に腕を回し、そっと抱き締めた。
「ああ…!アルバート…!」
女は彼に縋りつくように背に腕を回した。
きつくきつく、離さないと言わんばかりに。
女はアルバートの胸に顔を埋めた。
聞こえない距離の筈なのに、リエルにはしっかりと聞こえた。
「…あなたは、私の想いを理解していない。あなたが私を捨てるなら…、いっそ…、」
「…?何を…、」
アルバートが訝し気に眉を顰めた。
女はアルバートを抱き締めたまま、そっとその耳に囁いた。
「手に入らないのなら…、壊してしまえばいい。この手で。」
リエルはその時、女の手に何かが握られているのに気が付いた。
銀色に鈍く光る刃にリエルは叫んだ。
―駄目!
「それはどういう…、ッ!?」
アルバートが女に言葉の意味を聞き返すより早く、ドスッと鈍い音を立てて、女がアルバートの腹に短剣を突き刺していた。
アルバートが目を見開いた。
女は一気にナイフを引き抜いた。
「うっ…!?」
ガクッと膝をつき、刺された腹を抑えて呻くアルバートはハアハア、と荒い息を吐きながら女を見上げた。
「私の物にならないのなら、殺してしまえばいい。そう決めていたの。」
「な…、お前…、」
アルバートは愕然とリエルを見上げた。
リエルは必死に走って女を止めようとするが身体が動かない。
声も出ない。
ただ目の前の惨劇を見つめる事しかできなかった。
「フフッ…、フフフッ…!アハハハハ!
これで…、これで…!あなたは一生、私の物よ!」
女は血塗れのナイフを手にして、ケタケタと笑い出した。狂っていた。
「大丈夫…。あなたを一人にはしないわ。
すぐに私も逝くから…。」
女はそう言って、アルバートに止めを刺そうとナイフを掴む手を握り直した。
―止めて…!
リエルが心の中で叫んだ瞬間、身体の呪縛が解けた。動ける!リエルは必死に駆け出し、女の肩を掴んだ。
「止めて!」
グイ、と女をこちらに振り向かせる。女の顔が露になった。
「え…?」
リエルはその顔に愕然とした。
茶色の髪に薄紫色の目を持つ凡庸な容姿の女。
そこにいたのは自分と瓜二つの顔をした女だった。
まるで、鏡を前にいるかのように何から何までそっくりの女。
違うのは、その目と表情位か。
目の下には隈が走り、肌は青白く、落ち窪んだ目をしているのにギラギラと異様な光を放っている。
その口元には歪んだ笑みが浮かんでいる。
リエルは息を呑んだ。
「貴方は一体…、」
その時、フッと女の姿が消えた。
リエルはえ!?と辺りを見回した。
女の姿はどこにも見当たらない。
何が起こったのか分からず、呆然としているとピチャリ、と足元が濡れている感触に見下ろせばそこには、血の海に倒れているアルバートの姿があった。
「…あ…、アル、バート…?」
ピクリとも動かないアルバートの姿にリエルは震えた。
アルバートに手を触れようとするがリエルはふと自分の手に何かが握られているのに気が付いた。
見れば、それは血に濡れたナイフだった。
「ヒッ…!?」
リエルは慌ててナイフから手を離す。
カラン、と硬い音を立てて落ちたナイフは血で染まった床に沈んだ。
「どうして…?」
これはさっきの女が刺したナイフだ。
何故、それを私が手にしているの?
リエルはふと自分の手を見下ろした。
その手は血で真っ赤に染まっていた。
手だけじゃない。ドレスも全身が返り血で染まっている。
「あ…、あ…、」
リエルはガタガタと身体を震わせ、頭を手で覆った。ガクン、と糸が切れた人形のように床に膝をついた。
「私…、私が…、」
私が彼を刺したのだ。
漸くリエルはそれに気が付いた。
その事実にリエルは堪らず泣き出し、絶叫した。




