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第六十六話 黒猫とローブの男

「今回は失敗か…。まあ、いい。次の手がある。」


焦る必要はないと男は呟いた。

手には一本の瓶が握られている。

灰色のローブを被った男の周りにはガラスの破片や埃が散らばり、元はきちんと配置されていた椅子も薙ぎ倒され、至る所に蜘蛛の巣が張られている。

そこに人が住んでいる形跡はなく、無人の建物だった。元は教会だったのだろう。

祭壇と女神の像が祀られ、当時の王の肖像画が床に落ちている。ナイフか刃物で切り裂かれた肖像画…。

それに男は近づき、壁に立てかけた。

ほとんど原型を留めていない肖像画のかろうじて残されている目の部分…、それに男はそっと手を触れた。


その時、古びた扉を開けた音がした。男は振り返り、入り口に佇んだ人物に笑いかけた。


「何とか無事に逃げおおせたみたいだね。」


「かなり、ギリギリだったぞ。」


長い黒髪を靡かせ、全身を黒装束の衣装で身を包み、白い仮面をつけた謎の人物はあの怪盗、黒猫だった。


「そんなに怒るなよ。

ちゃんと手筈通り、手駒を用意しておいただろう?」


「つーか、何だよ。あの馬車に乗っていた女は。

こっちを舐める様に見てくるわ、身体に触ってこようとするわで俺がどんだけ我慢したと…!」


「仕方ないだろう。君の美しさはそれだけ魅力的だということだ。

何なら、この際あの貴婦人のお気に入りになってみたらどうだい?きっと、たくさんの贅沢ができるよ。」


「冗談じゃない!誰があんな香水臭い婆なんて…!」


「まあ、とにかく君がちゃんと大人しくしていたみたいで良かったよ。

もし、騒がれて気が付かれていたら君はあっさり薔薇騎士に捕まっていただろうね。」


「その代わり、俺は精神がぼろぼろになったぞ。

あの女にべたべたくっつかれている間も俺がどれだけ…、」


「それより、いつまでその仮面をつけているつもりだい?いい加減、外したらどうかな?」


怪盗はスッと手を伸ばして白い仮面を外した。その素顔はあの侵入者だった。


「世間を騒がしている怪盗の素顔がこんな美形だと知ったら、世の女性達は喜ぶだろうね。」


「…気色の悪いことを言うな。」


琥珀色の瞳をした華やかで艶やかな美しさのある容姿だがその口調はかなり辛辣で毒のある言葉しか吐かない。


「もう少しであの女に恥をかかせられる所だったのに…、あの白薔薇騎士が邪魔しやがって。」


苛立たし気に怪盗は歯軋りした。


「何だい。凄い変わり身だね。

君、最初はリエルを気に入っていたじゃないか。」


「それは、あいつがフォルネーゼ家の女だと知らなかったからだ!」


ギロッと男を睨みつけ、怒りを顕わに怒鳴り散らした。


「あの女がフォルネーゼ家の女だと知っていたら…、あの場で逃がすんじゃなかった。苦しめて苦しめて、捻りつぶしていたところだ。」


琥珀色の瞳を憎悪の炎で燃やし、怪盗は敵意を露にした。


「ふうん。それで?

二回目に会った感想はどうだった?

君は最初、あの子を面白い娘だと言っていたけど…、」


「あいつは、フォルネーゼ家の女だ!

憎い以外の何があるっていうんだ!」


「そう。決心は鈍ってないようだね。安心したよ。」


「当たり前だろ!十二年前のあの日から…、

俺はずっとフォルネーゼ家への復讐だけを生き甲斐に生きてきたんだ!

あいつらへの復讐を果たすまでは絶対に死ぬものか!」


男はおかしそうに笑い声を立てた。


「素晴らしい!素晴らしいよ!

家族への復讐に燃える苛烈な君はどんな貴婦人よりも美しい!さすがはわたしが見込んだ人材だ。」


怪盗はそれを無表情に見やる。


―私は…、シナモンがたつぷりきいたパイの方が好みだなって…、


不意にリエルの言葉を思い出す。

偶然か自分と同じ好みを持つ女。

五大貴族という貴族の娘として生まれた女が平民が食べる様なパイが好きだなんて思いもしなかった。

そもそも、貴族の女がそんなものを食べる機会なんてない筈だ。


だって、あの女は今まで貧しさとは無縁のありとあらゆる贅沢をして育ったおめでたい女だから。

平民の気持ちもどんな生活をしているかも知らないお気楽な女…。

民の血税を湯水のように使い、市民を虫けらの様にしか思っていないそんな女の癖に…。

怪盗はギリッと苛ただし気に唇を噛み締めた。


―気に入らない…。


「ああ。そういえば…、あのブロウ男爵のところの娘…、薔薇騎士に捕まったらしいよ。」


「リーリアが?」


怪盗はリーリアを知っていた。

何というか、強烈な女だったからだ。

一応、協力者ってことで対面したがやたらと距離感の近い馴れ馴れしい女だった。

正直、苦手だが仮にも手を組んでいる相手だ。怪盗はリーリアの身を案じた。


「じゃあ、すぐにでもあいつを助けないと…、」


「その必要はないよ。」

「は?」


怪盗は男の言葉に戸惑った。


「最近のあの娘は調子に乗り過ぎた。

全然、言う事を聞いてくれないし、使い物にならないからいらないかなって思っていたんだ。」


「まさか…、あいつを見捨てるのか!?」


そう怪盗が詰め寄ろうとした瞬間、男がこちらに顔を向ける。

フードの隙間から見える赤い瞳に口を噤んだ。

ぞっとする程に冷酷な色を宿した視線に凍り付いた。


「あれは、もういらない。

役に立たない手駒は必要ないんだよ。黒猫。

…分かるね?」


そう言って、男はニタリ、と口角を上げ笑った。

怪盗はそれにゴクリ、と息を呑んだ。


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