第三十三話 ある男爵令嬢の噂
リエルは流れる白い雲を眺めながら、空を見上げていた。
―綺麗…。澄み渡った青空がどこまでも続いているかの様…。
いつまでも見続けていられる。
そんな思いで飽きることなく、リエルはのどかな午後を過ごしていた。
「また、青空を眺めているのですか?本当にお嬢様は青空が好きなのですね。」
「だって、こんなに綺麗なんですもの。特にこの青と白の色がとても合って…、」
リヒターの言葉にリエルは答えながらも青空からは視線を外さない。
「お嬢様は…、今も青空が好きなのですか?」
「…うん。今も変わらず好きだよ。」
リエルは目を細めて優しい表情を浮かべてそう答えた。
「お嬢様…、」
リヒターが何かを言いかけるが
「今度の相手はユーファイス家の御子息ですって。」
「ええ?だって、昨日はドーリヴァス家の若君と逢引きしていなかった?」
侍女達の噂話が聞こえた。
バルコニーでお茶をしているリエルに気が付いていない様子だ。
「セリーナお嬢様ったら、相変わらずね。次から次へと相手をとっかえひっかえして…、」
「でも、お嬢様の男遊びは前からだけど最近は激しくなってない?前は最低でも同じ相手と一週間か数か月は続いていたのに。」
「そういえば、最近、お嬢様機嫌が悪いわよね。よく物に当たり散らしているし。」
侍女達はリエルが聞かれているとは知らずに好き勝手に噂話をしている。
―お姉様…。まだそんな危険な遊びを…、
リエルはずきりと胸が痛んだ。
姉は年頃になると、その美貌で男を虜にし、不特定多数の男と遊び歩くようになった。
その行動は淑女らしいといえず、リエルは姉に忠告したことがある。
家の評判を傷つけない為と言うのもあるがリエルは姉の事を案じた上で言ったのだ。
姉に自分をもっと大切にして欲しかった。
だが、姉はそんなリエルを邪険に扱い、自分に指図をするなと言い返し、聞く耳を持たなかった。
リエルはその事を思い出し、目を伏せた。
「不機嫌な理由はアルバート様が原因でしょう。」
「そういえば、最近一緒にいるのを見ないわね。」
「何でも、最近のアルバート様はある令嬢と親密になっているらしいわよ。自分の一番のお気に入りが他の女に夢中だからそれでセリーナお嬢様は機嫌が悪いのよ。」
「へえ。あのアルバート様が夢中になるなんて、よっぽどの美女なのね。また、どこぞの未亡人とか?」
「それが今までのタイプと違って可愛い系の美少女らしいわよ。しかも、身分はただの男爵令嬢。」
「ええ!?何それ、それだったら、あたしにもチャンスあるじゃない!」
侍女の一人が悔しそうに言った。
ここで働いている侍女の中には下級貴族出身の娘もいるのだ。
「いや。あんたの顔じゃ無理でしょ。あのセリーナお嬢様に勝てると思う?」
「でも、アルバート様って一時期はリエルお嬢様の婚約者だったんでしょ?リエルお嬢様と比べたら、あたしの方が断然…、」
「…勤務中にお喋りとは感心しませんね。」
侍女達の間に割って入った低く、艶やかな声。侍女達はバッと見上げる。
「り、リヒター様!?」
真冬の寒空の下にでもいるかのような冷ややかな視線に侍女達はサア、と青ざめた。
「当家に仕える身でありながら、そのように下賤な話題でぺらぺらと好き放題に喋るとは…、マーサ。特にあなたの発言には目に余る。…後で私の部屋に来るように。」
「ヒッ…!」
リヒターの人形のように完璧な美貌で凄まれれば整っている分、余計に恐怖感を与える。
しかも、使用人の間ではリヒターは鬼執事と噂される位、規則に厳しい。
少しのミスや遅刻等をすれば数か月分の減給を食らうのだ。
犯した罰則によっては最悪、解雇される可能性もある。
実際にその結末を辿った元使用人たちがいるのだから決して誇張なのではなかった。
ちなみにマーサとは先程、アルバートを狙ったかのような発言をした少女でリエルよりは自分が可愛いと言いかけた侍女だ。
「リヒター。」
あんまりにも青ざめる侍女が気の毒になり、リエルは彼を窘めた。
リヒターは数秒黙ったままだったがハア、と溜息を吐くと、
「…今回は見逃しましょう。お嬢様の寛大な処置に感謝するように。」
「は、はい!」
侍女達は慌てて頭を下げてその場を足早に立ち去った。
ホッと安堵の溜息を吐くリエルにリヒターは
「お嬢様。何故、庇うのです?あのように仕えるべき主君を軽んじる様な態度をとる使用人など当家に仕える価値はありません。」
「彼女を雇ったのはルイよ。私じゃない。それに、彼女だって軽い気持ちで言っただけ。それを責めるのはあまりにも可哀想ではないの。」
「甘いですね。お嬢様は。」
「でも、あなたはちゃんとあたしの意思を汲んでくれたわ。…ありがとう。」
リエルは彼に礼を言うと、紅茶を飲んだ。
もう紅茶は飲み終わってしまい、リヒターが紅茶を注いでくれる。
―そういえば、さっきの侍女達が話していた令嬢って…、
「気になりますか?」
リヒターに図星を突かれ、リエルはどきりとした。
「よく分かったわね。」
「何年お嬢様の執事を務めていると?主人の意を汲めないのであれば執事失格です。」
リエルは優秀な執事も考え物だと思った。
「リーリア・ド・ブロウ。」
リエルは顔を上げた。
「例の男爵令嬢の名です。」
「リヒター。あなた、どうしてそんな事知っているの?」
「彼女は有名人ですから。」
「有名?」
「ええ。元は愛人の娘でしたが母親が亡くなった際にブロウ男爵に引き取られたそうです。それまでは市井で暮らしていたそうです。」
「そうなの。それは、苦労しているのでしょうね。貴族は身分や出自に敏感だから。」
「…どうでしょうね。」
「リヒター?」
何処か冷めた言い方にリエルは訝しんだ。
「お嬢様。リーリア嬢にはあまりお近づきにならないほうがよろしいかと思います。」
「え?どうして?」
「よくない匂いがするのですよ。」
「リヒター。もしかして、リーリア嬢に会ったの?」
「会ったと言いますか…、先日、実家に帰った際に何故か件の令嬢がいたのですよ。その際に妙な事を口走っていましてね…。少々、思い込みが激しいといいますか…、あまり関わり合いになりたくないタイプの令嬢でした。」
「そうなの?」
「ええ。ですから、お嬢様もお気をつけ下さい。彼女は少々、面倒臭い性格をしているように思いますので。」
「リヒターがそう言うのなら…、」
そもそも相手は男爵令嬢。リエルは伯爵令嬢だ。接する機会もないだろうと思った。




