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第三十二話 お嬢様は気づいてない

パラリ、と書類のページを捲りながらリエルは領地経営に関する報告書に目を通していた。


―最近、雨が続いていたから畑が駄目になってしまった村もあるみたいね。一部の水路も壊れてしまったみたいだし、すぐに改修の作業に移らないと。


優先順位を決め、予算を確認する為に別の書類に手を伸ばしたリエルの前にコトリ、と紅茶が置かれた。


「お嬢様。あまり根を詰めすぎても身体に支障をきたします。少し、休憩されては?」


穏やかに微笑むリヒターにリエルは紅茶に手を伸ばした。


「リヒター。ありがとう。」


いつの間にか時間を忘れていたようだ。

リエルは時計を見て、もうこんな時間なんだと思った。

リエルは紅茶を一口、飲むと


「美味しい…。もしかして、これ、蜂蜜が?」


「はい。蜂蜜には疲労回復効果がありますから。」


アッサムティーに濃厚なミルクと上品な甘い蜂蜜が加えられ、まろやかで絶妙な味になっている。

美味しい…。とリエルは顔がほころんだ。

蜂蜜はリエルの大好物なのだ。


「蜂蜜を使ったパウンドケーキもありますよ。よろしければ、お召し上がりになりますか?」


「パウンドケーキ!食べたいわ。持ってきてくれる?リヒター。」


「そう言うと思って、既に用意してあります。」


「まあ、さすがね。リヒター。」


「恐れ入ります。」


瞳を輝かせるリエルにリヒターはいつの間にか切り分けられたパウンドケーキをリエルに差し出した。


「わあ…。綺麗な色…。」


見事な黄金色に彩り豊かなフルーツがちりばめられたケーキだ。

一口食べればしっとりした食感と程よい甘さが口の中に広がった。


「美味しい…!」


リエルは思わず頬を抑える。


「お嬢様は本当に美味しそうに食べますね。」


クスクス笑うリヒターの言葉にリエルは恥ずかしさで頬を赤くする。


「だって、本当に美味しかったからつい…、確かにこんなのは淑女らしいとはいえないかもしれないけど…、」


感情を露にするのは貴族令嬢らしいとはいえない。

人前では取り繕うことはできるが弟や使用人たちの前ではつい気が緩んで素のままで接してしまう。


「恥じることではありませんよ。お嬢様の甘いものを食べた時の表情はどんな美姫の微笑みよりも魅力的です。とても可愛らしいですよ。」


「リヒター…。あなた、視力大丈夫?」


リエルは本気で心配になった。

そういえば、リヒターは社交界でも有名な美女の未亡人や貴族令嬢に言い寄られても決して、靡かない。

それ以上の美しさを相手の女性に求めるのかと思っていたがもしかして、彼はリエルのような平凡な容姿の女にしか興味を示さない特殊な性癖の持ち主かもしれない。


―でも…、それだけじゃないよね。


彼の言葉はリエルの為を思って言ってくれているのだろう。

リヒターの優しさを嬉しく思いながらリエルは感謝を口にした。


「…ありがとう。リヒター。」


リエルの言葉にリヒターは微笑んだ。



―お嬢様は気付いていない。


リヒターはほくほく顔でケーキを頬張るリエルを見ながら瞳を細めた。


彼女は知らないのだ。

自分の放つ魅力に。

人前では貴族令嬢らしく完璧に振る舞い、その立ち振る舞いから大人っぽく隙がないが可愛げのない女として見られている。


だが、それは表面上の姿だ。

五大貴族の娘として生まれ、隙あらばその恩恵を受けようと甘い汁を啜ろうとする輩や取り入ろうとする者、陥れようとする者と接していく中で彼女が身に着けた貴族社会で生き残るための処世術にすぎない。

本来、彼女は華やかさを好まず、甘いものが好きという子供らしい一面を持っているし、感情だって表情豊かだ。


今もこうして、甘いものを食べたら幸せそうな表情を浮かべている。

リエルはそんな子供っぽい自分の姿を見られるのははしたないと思っているがこの表情を見たら、普段のギャップがあって惹かれる男の一人や二人はいるだろうとリヒターは思う。

勿論、心の中では思っても絶対に誰にも教えてはやらないが。


―まあ…、お嬢様がこうなってしまったのはある意味当然なのですが。


リエルが自身の魅力に気づいていないのは実母のオレリーヌと姉セリーナの存在が大きい。

実の母親から容姿について貶され、罵倒され、平凡な容姿のリエルを無価値な存在だと言われ続けてきた。


お前は醜い娘だと何度も言葉の刃で彼女を傷つけた。そして、事あるごとにセリーナを引き合いに出して比べ、リエルを学しか取り柄のない娘だ、美しくもないお前はこの家の恥さらしだ、お前なんて誰からも愛されない惨めな一生を送るだろうと汚い言葉で罵り続けてきた。


その上、貴族とは地位や財産、容姿といった外面しか見ない下らない連中ばかりだ。

地位は高くても美しさのないリエルを影で嘲笑う輩が多かった。

五大貴族の娘という生まれながらにして地位のあるリエルに対しての妬みもあるのだろう。

上っ面のものしか見ず、他人を貶めて憂さ晴らしをする人間の屑以下の生き物の言葉なぞ気に留める価値もないのにリエルは一々、その言葉を真に受けた。


結果、リエルは自分に自信をなくし、自分は女として愛されることがないのだと悟り、誰かに愛されることを諦めてしまった。

あの左眼を失ったあの時からずっとその姿勢を貫いている。

自分は結婚はしないと意思表示し、その代わりに陰ながら当家を支える道を選んだ。


メリル達はいつかリエルを幸せにしてくれる男性が現れると信じているが当の本人はそれを諦めている。

そんなリエルは何処か危うげで見ているとやるせない気持ちになる。


だが、その反面、安堵もしていた。彼女が自分の魅力に気づいていないなら好都合だ。

変な虫がつかずに済む。

大切な恩人の娘であるリエルをどこぞの馬の骨の男に渡す訳にはいかない。


―それに、こうしてお嬢様の笑顔を独占できる権利を持っているのは中々に楽しいものですしね。


そんなリヒターの心の内に気づかずリエルは今日のリヒターは随分機嫌が良さそうだなと思った。

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