第二百十六話 ゾフィーside
「この部屋を使え。」
「あ、ありがとうございます。」
峠は越えたという事でゾフィーはやっと地下室から出ることを許された。
後、数日間は様子を見た方がいいと言われ、黒猫はゾフィーが寝泊まりする部屋を用意してくれた。
案内された部屋は狭いが寝泊まりするには十分なスペースだった。部屋にはベッドと棚、机といった必要最低限の家具があった。簡素な部屋だ。
黒猫の行為はとてもありがたいがゾフィーは迷っていた。
どうしよう…。本当は未婚の身で若い男の人と同じ屋根の下で暮らすなんていけないのだけど…。
でも、この人は親切心でやってくれていることだし…。彼は男の人だけど私に乱暴するような真似をする人じゃない。だけど、そうだったとしても、やっぱり男の人の家に寝泊まりするのは…。
ゼリウスが聞いたらどう思うだろう。
「何だ?気に入らなかったのか?」
「ち、違います!そうじゃなくて…、あの、ただ…、その…、婚約者以外の男性と一緒に住むのは…、」
「ん?あー、そういえば、貴族のお嬢様って結婚前に身持ちは固くしなくちゃいけないんだったな。貴族の女って人前では上品ぶっても裏では遊んでいる女が多いから忘れてた。」
黒猫は頭を掻きながら、そう呟くと、
「けど、それなら心配無用だ。若い男と同じ屋根の下で暮らすのは問題かもしれないが同性相手なら何も問題はないだろ?」
「そ、そうですけど…、でも、黒猫さんは男の人ですから…。も、勿論!黒猫さんがそんな事をする人でないことは知ってますけど…、」
「…何か誤解しているみたいだけど、俺は女だぞ。」
「はい?」
ゾフィーは目が点になった。一瞬、聞き間違いかと思った。
黒猫は気まずそうな表情を浮かべ、溜息を吐いた。
そして、おもむろにゾフィーの手を取ると、自分の胸を触らせた。ムニュッとした柔らかい感触が手に伝わった。
「!?!?」
ゾフィーは声にならない叫びを上げた。何度も黒猫と身体を見比べる。う、嘘…!黒猫さんって女性だったの!?
「これで信じたか?」
「あ、あなた…、女性だったの!?」
確かに黒猫の容姿は中性的だ。そういえば、声も男性にしては高い。体格も男性にしてはスラッとしていて、細いなと思っていたけど、線の細い男性なんて貴族の世界にはたくさんいるから特に違和感を抱くことはなかった。でも、よく見れば男性の象徴である喉仏だってない。
だけど、背も高いし、言葉遣いもまるで男性のようだったからてっきり男の人なのかと…!
しかも、黒猫は強い。あの軽やかな身のこなしと腕っぷしの強さを見たら、とても女性だとは思えない。
ゾフィーは衝撃のあまり、パクパクと口を開けたり閉じたりを繰り返した。
「何だよ。その顔は。俺が女だってことが信じられないのか?…じゃあ、今すぐ服を脱いで見せるから、その目でちゃんと俺が女だって確かめ、」
そう言って、黒猫は何の躊躇もなく、服の釦に手をかけ、脱ごうとするのでゾフィーは慌てて止めた。
「い、いいです!いいです!もう十分です!黒猫さんが女性だってのは分かりましたから!だから、ここで脱がないでください!」
「あ?何だよ。その反応。別に女同士だからそこまで恥ずかしがることじゃないだろう。」
「い、幾ら同じ女性だからといって、他人の前で肌を晒すのははしたないです!」
「…そういうもんなのか?貴族ってのは色々と面倒臭いんだな。でも、俺は庶民だし、そこまで気にしなくても…、」
黒猫はその時、ピタッと口を噤んだ。
「……。」
「黒猫さん?」
黒猫は動きを止め、何かを考え込むような仕草をした。その真剣な表情にゾフィーは首を傾げた。
「な、何でもない。…貴族の事情というのはよく分からないけど、要は男と一緒に住むっていうのが問題なんだろ。まあ、結婚前に婚約者以外の男と同じ屋根の下で暮らしていたなんて知られたら、浮気だって思われても仕方ないかもだしな。けど、俺は女だし、間違いなんて起きないだろ。」
黒猫の言葉にゾフィーは頷いた。黒猫が女性なら安心だ。何の問題もない。
あ。そういえば、私、まだ黒猫さんの名前を聞いていない。
「あ、あの…、黒猫さん。」
ゾフィーが話しかけると、黒猫は視線を上げた。
「黒猫さんのお名前を教えて下さいませんか?」
「ああ。そういえば、あの時、言いそびれていたんだったな。俺の名前はクレアだ。」
「クレアさん…。」
「クレアでいい。見た所、俺と年齢変わらなさそうだしな。」
「は、はい。じゃあ、クレア。私の事もゾフィーって呼んでください。」
「ああ。分かった。ゾフィー。」
そう言って、口角を上げたクレアの目は優しい色を宿していた。
それから、二人の奇妙な同居生活が続いた。クレアと一緒に暮らしていく内にゾフィーはクレアがどんな人なのかを知るようになった。
細いのによく食べる事。実はかなりの甘党だという事。意外と手先が不器用だという事。美人なのに流行やお洒落には無頓着でどちらかというと、身体を動かしたりする方が好きだという事。それから、猫好きである事。冷たそうに見えるけど実はお人好しで情に厚い所。
「お帰りなさい。クレア。あれ?随分、たくさん買ってきたのね。」
ゾフィーは買い物から帰ってきたクレアを見て、予想以上に多い荷物に驚いた。
買い物は小麦粉と砂糖、卵を買ってくるようにお願いしただけなのにクレアの両手には大量の紙袋があった。
「俺が買ったんじゃない。何でか店の売り子の女にサービスだって押し付けられたんだ。」
「あー…。」
ゾフィーは何となく状況を理解した。クレアは美人だが言動や立ち振る舞い、服装からよく男に間違えられる。そのせいか近所の女の人達からクレアは大層モテている。
よくクレアの家に女の人が押しかけて、料理を差し入れに来たりするし、隙あらば家に上がり込もうとする。
…貴族令嬢も庶民も異性に対して積極的なのは共通しているのだとゾフィーは新たな事実を知った。
基本的に面倒くさい性格のクレアは説明するのが面倒なのか女達の誤解は解かず、適当に彼女達をあしらっていた。
ちなみにゾフィーは来客の対応は一切していない。それらはクレアが全部対応してくれるし、ゾフィーはあの娼館から逃げた身だからまだ身を隠していないといけないし、どこからか情報が漏れるといけないのでできるだけ家から出ないようにしている。
「モテるって、大変ね。」
「女にモテても嬉しくねえよ。」
ゾフィーはクレアが持って帰ってきた紙袋を受け取る。中には、パンや果物等の食料が大量に入っていた。
「後、さっき、菓子屋の女からケーキを貰った。」
「わ!ケーキ。良かったね。クレア、甘い物好きだものね。何のケーキを貰ったの?」
「アップルパイだって言ってたぞ。」
「アップルパイ!確か、アップルパイはクレアの好物だったわよね?」
「…まあな。」
クレアは甘い物は基本的に何でも好きだが、中でもアップルパイが一番の好物なのだ。
ゾフィーはお茶を淹れて、パイを切り分け、クレアと自分の分を用意する。
ゾフィーはクレアと向かい合って座り、アップパイを口に運んだ。
「美味しい!」
サクサクして、美味しい。ゾフィーは久しぶりに食べるアップルパイの味に口元が綻んだ。
クレアは無言でパイを咀嚼している。そのままフォークを置くと、紅茶を口にする。
それ以上、パイに手をつけずにいるクレアにゾフィーは不思議そうに声を掛けた。
「…クレア?どうしたの?食べないの?」
珍しい。クレアはいつも甘い物はすぐに食べてしまうのに…。パイを一口食べただけで手が止まっている。いつもはこんな事ないのに…。大体、いつもはホールのケーキを半分以上は一人で平らげてしまうのに。
「もしかして、口に合わなかった?」
「いや。そういう訳じゃない。…普通に上手い。けど…、」
クレアは少しだけ躊躇するように言葉を濁し、
「母さんが作ったアップルパイの方が上手かったなと思っただけだ。」
「へえ。クレアのお母さんは料理上手なのね。そういえば、クレアはお母さんと一緒に暮らしていないの?」
ゾフィーの何気ない質問にクレアはスッと目を細めた。
「…もういない。母さんは俺が十歳の時に死んだからな。」
「え…。」
ゾフィーは目を見開いた。
「ご、ごめんなさい。」
「別に。もう十年も経っているからな。昔の話だ。」
そう言ったクレアだがゾフィーはすぐに嘘だと分かった。多分、クレアは今でも母親の死を忘れられないのだろう。だって、クレアの目を見れば分かる。無表情だけど、その目は深い悲しみと苦しみの色が浮かんでいる。
…この目、見たことある。確か、リエルが過去に大切な親友を亡くした時の事を話してくれた時、同じ目をしていた。
「クレアって…、リエルと似ているのね。」
「は?」
無意識のうちに出た言葉だった。ゾフィーの言葉にクレアは不快気に眉を顰めた。
「あ、ごめんなさい。私の友達とあなたがよく似ているなって思って…。」
「俺があの片目の女に似ているって?どこが似ているっていうんだ。外見も中身も全然似てねえだろうが。」
「確かにあなたとリエルは全然タイプが違うけど…、」
さすがにさっきの表情がリエルと同じだという事は言えなかった。だから、ゾフィーはもう一つの似ている点を挙げた。
「リエルもアップルパイが好きなの。クレアと似ているわね。」
リエルの事を話しながら、ゾフィーは思った。
リエルは元気かな?手紙を書いたから、私が無事であることは知っている筈だ。今、どうしているだろう。早く会いたいな。
ゾフィーの言葉にクレアはピクッと反応した。
「あの女…、アップパイが好きなのか?」
「ええ。リエルもクレアと同じで甘い物が大好物なの。中でも一番好きなのはアップルパイなんですって。リエルにも食べさせてあげたいな。」
「けど、そいつ、フォルネーゼ家の令嬢だろ。こんな庶民臭いアップルパイなんか口に合わないんじゃないか?」
「そんな事ないわ。リエルはアップルパイは素朴な味の方が好みなの。特にシナモンたっぷりのアップルパイが好きなんだって言ってたわ。」
「…へえ。じゃあ、あれは、嘘じゃなかったんだな。」
クレアがぼそり、と何かを呟いた。
「え?」
小さくて、よく聞き取れなかった。首を傾げるゾフィーにクレアは、
「いや。別に。そもそも、何で貴族の女が庶民の味を知ってるんだ?」
何だろう。クレアはリエルの話をすると、機嫌が悪くなり、空気が冷たくなる。
だけど…、言葉の裏には好奇心が見え隠れしている。リエルを嫌っている様に見えるけど、同時に知りたいとも思っている様に見える。クレアはどうして、そこまでリエルの事を…。ゾフィーはそう思いながらも、あえてその事には触れず、
「リエルが初めてできたお友達のお母さんが作ってくれたアップルパイの味が忘れられないんですって。」
「友達?貴族って料理しないんじゃないのか?」
「普通はそうだけど、その友達は貴族じゃなくて、平民の子だったらしいの。」
「は?平民?」
「近くの村に住んでいた女の子で、その子がリエルにとって初めての友達だったって。すごく綺麗な子で明るくて、優しくて太陽みたいな子だったらしいわ。」
「だった?何で過去形なんだ?」
「その子、悲しい事件があって亡くなってしまったみたいなの。村が盗賊に襲われて、家が焼かれてそのまま火事に巻き込まれて…、リエルが駆けつけた時には村はもう火の海だったみたい。」
ゾフィーは一度だけリエルからその子の話を聞いたことがある。
その時のリエルはとても悲しそうだった。きっと、リエルは今でもその友達の事が忘れられないのだろう。クレアが母親の死を忘れる事ができないのと同じように…。
その友達の死はリエルにとって、心に大きい傷を残しているようだった。
「リエルは今でもその子の墓参りを欠かさないの。自分が育てた薔薇を持ってその子の墓に供えているんですって。」
「……。」