第二百十三話 無事で良かった‥!
そこには、路地裏から走ってくる臙脂色のフードを被った女性がいた。
まさか…!リエルは思わず立ち上がった。女性はフードを深く被っているせいで顔が見えない。
走ったせいか息切れをした女性はリエルの数メートル先で止まると、肩を上下させながら、頭に被っていたフードを外した。
「リエル…。」
そこには、ずっと捜し求めていた人がいた。
長かった髪が切られ、少し痩せていたが間違いない。ゾフィーだ。リエルは数秒、信じられない思いで固まったままゾフィーを見つめたが、幻ではないと気づくと、
「ッ、ゾフィー…!」
リエルは弾かれたように走ってゾフィーに抱き着いた。
「ゾフィー…!ゾフィー!」
何度もその存在を確かめるようにゾフィーの名前を呼んだ。リエルはボロボロと涙を流した。
「リエル…。」
ゾフィーはそっとリエルの背中に手を回した。ゾフィーの身体は細くて、今にも折れてしまいそうだった。
それでも、生きているだけで…!
リエルはゾフィーが今、目の前で息をして無事だったことに心の底から安堵した。
「信じられない…!本当にゾフィー!?無事だったのね!」
「心配かけてごめんね…。リエル…。」
「いいのよ!そんなの…!無事でよかった…!ずっと気が気じゃなくて…!ゾフィーに何かあったらどうしようって…!」
「ありがとう。ずっと私の事、探してくれたんだよね?私はもう、大丈夫…。この通り、無事だったから。」
ゾフィーもリエルと同じように泣きながら笑顔でそう言った。その顔に陰りはなく、行方不明になる前のゾフィーの笑顔と変わりなくて…、心まで壊れている訳ではないことにリエルはホッとした。
「ッ、クレア!?」
不意にゾフィーはクレアの様子に目を向け、慌ててクレアに駆け寄った。
「ゾフィー嬢!?無事だったのか…。」
「どうやって、ここまで…?」
「クレアの事が心配で…!何があったんですか?」
苦しんでいるクレアを見て、ゾフィーは心配そうな表情を浮かべた。
「クレア!大丈夫!?」
「ゾフィー嬢。あなたはこの者に酷い目に遭わされたのでは?」
クレアを心配するゾフィーにルイが疑問を投げかける。
「酷い目?まさか!この人は私の恩人です!私はクレアに助けられたんです!」
「!?それは、本当なの!?ゾフィー!」
リエルは思わずゾフィーに聞き返した。
ゾフィーは頷いた。
「美味しい…。」
「本当?良かった。たくさん、食べてね。」
「ありがとう。リエル。」
ゾフィーは笑顔で料理を口に運んだ。ゾフィーの好物を揃えた料理ばかりだ。
ゾフィーを保護したリエルは詳しい事情を聞く前にまずはゾフィーに食事と入浴をさせるのが先だと思い、屋敷に連れ帰った。湯浴みをすませ、着替えはリエルのドレスを貸すことにして、着替えをすませたゾフィーは料理を堪能している。美味しそうに料理を口にするゾフィーを見て、リエルはホッとした。
良かった…。ゾフィーが笑っている…。想像していたよりもゾフィーが酷い状態でなくてリエルは安心した。それでも、痩せたゾフィーを見ていると、胸が痛む。
「ゾフィー!無事だったんだな!」
その時、ノックもなしにバン!と扉が勢いよく開いた。
いつも身なりを整えているゼリウスの髪は乱れ、息は切れ、相当急いで来たのだということがよく分かる。
「ゼリウス…!」
ゾフィーは驚いて、ナイフとフォークを手に置き、立ち上がった。
ゼリウスはゾフィーに一目散に駆け寄り、ゾフィーを抱き締めた。
「ゾフィー!」
「ゼリウス…。」
「すぐに助け出せなくて、ごめん!怖かったよな?辛かったよな?本当に…、ごめん…。」
ゼリウスの声は震えていた。ゾフィーはそんなゼリウスに優しく抱き締め返すと、
「いいの。リエルから聞いたわ。私がいなくなった後も必死に寝る間も惜しんでずっと諦めずに探し続けてくれたって。…嬉しかった。ゼリウス。ずっと会いたかったの…。」
「俺を…、許してくれるのか?ゾフィー。」
「当たり前じゃない。」
「ゾフィー…!」
「…お取込み中、申し訳ありませんがゼリウス。ゾフィー嬢はまだ食事の途中です。レディの食事の時間を邪魔するなんて無粋ですよ。」
「る、ルイ…。もう少しだけ二人をそっとしておいても…、」
ダイニングルームにいたのはゾフィーだけじゃない。リエルとルイ、アルバート、給仕をしているリヒター達もいたのだ。ルイに声を掛けられ、人前だったことに気付いたゾフィーは慌ててゼリウスから離れた。その顔は真っ赤だ。
「これ位、いいだろう!ゾフィーは今までずっと行方不明だったんだぞ!一体、俺がゾフィーに会えなくてどれだけ経っていると思っているんだ!奇跡的に助かったゾフィーに会えたんだ。再会を喜ぶのは当然だろう!」
「ゾフィー嬢は今まで碌な食事も摂ることができずにいたんですよ。彼女の痩せ細った身体を見れば分かるでしょう。彼女の身体を気遣うのならば、食事を摂らせるのが最優先するべきなのでは?」
「うっ…、」
ルイの指摘にゼリウスは反論できずに言葉に詰まった。そして、ゾフィーに向き直ると、
「す、すまない。ゾフィー。食事中なのに邪魔をして…、」
そんなゼリウスにゾフィーは微笑んで首を横に振った。
「ゾフィー。もっと、肉も食べた方がいい。」
それから、ゼリウスは甲斐甲斐しく、ゾフィーの世話を焼いている。
これも食べろ、あれも食べろ、と言われ、ゾフィーは戸惑いながらもゼリウスに促されるままに食事をしている。
「ゼリウス。あなたもちゃんと食べて。」
「俺の事はいいから。そういえば、ゾフィーは白身魚のムニエルも好きだったよな?これも食べるといい。」
そう言って、ゼリウスはまた次の料理をゾフィーに差し出した。
「そ、そんなに食べられないわよ。」
あんな風に女性に優しく接しているゼリウスを見るのは初めてだ。
リエルは微笑ましい気持ちで二人を見つめた。良かった。ゼリウスもゾフィーも幸せそうに笑っている。
きっと、この二人なら大丈夫。二人を見ていると、そんな風に思えた。
夕食を終えると、リエル達は客間に移動した。
リヒターがお茶を淹れ、落ち着いた所でリエルはゾフィーに訊ねた。
「ゾフィー…。その、何があったのか話してくれる?でも、もし、話したくないのなら無理に話さなくても…、」
「大丈夫よ。リエル。…あの日、何があったのか全部話すわ。」
ゾフィーは話した。妹のソニアに一服盛られ、そのまま意識を失い、気が付いたら娼館に売り飛ばされたこと、オッドアイの美しい男に囚われ、その男の命令で阿片を無理矢理吸わされたこと、逃げられないように監禁されていたこと。
そして、あの日…、あのオッドアイの男の命令でゾフィーは客を取らされ、ベッドに拘束されていた。
豚のように太った醜い男にそのまま犯されそうになり、ゾフィーは恐怖と嫌悪のあまり、泣き叫んだ。
「嫌あああああ!」
もう、駄目だと思った。目の前が真っ暗になって絶望に染まった。その時…、
「うっ…!?な、何、だ…?身体、が…、」
急に男の動きが止まった。そのまま男はドサッと音を立てて、男がゾフィーの身体の上に倒れ込んだ。
「え…?」
ゾフィーは涙を流した態勢のまま固まり、思わず男に視線を向ける。
先程、ゾフィーを犯そうとした豚のような男は…、目を閉じて、気絶していた。
さっきまであんなに鼻息荒く、興奮していたのに…。
ゾフィーは何が起こったのか分からず、呆然とした。ふと、ゾフィーは目の前に誰かが立っていることに気付いた。室内が薄暗いせいで気付かなかった。ゾフィーは思わず目の前に立っている人物を見上げた。
そこには…、白い仮面を被り、全身黒ずくめの格好をした男が立っていた。
「あ、あなたは…?」
誰…?ゾフィーは涙で濡れた顔を拭くこともせずに目の前の仮面の男を見つめる。
仮面の男はツカツカとゾフィーに近付くと、ゾフィーの上に覆いかぶさっている男の首根っこを掴んでゾフィーから引き剥がし、そのまま塵でも捨てるかのように床に投げ落とした。
「…この、屑野郎が。反吐が出る。」
ベッドから落ちても男は起きない。ぐおー、と豚のような鼾をかいて寝転がっている。
どうやら、ただ寝ているみたいだ。彼がこの男に何かしたのだろうか?でも、殺したわけじゃなさそうだ。一瞬の事だったから何が起こったのか全然分からなかった。
仮面の男はゾフィーに目を向けた。ビクッとするゾフィーに仮面の男は手を伸ばした。何をされるのか分からず、身を強張らせるゾフィーだったが…。仮面の男はゾフィーの拘束された手錠を掴み、鍵を取り出して、手錠を外してくれた。足首の鎖も同じように外してくれる。
「え…?あの…、」
もしかして、この人…、私を助けに…?信じられない思いで呆然と男を見上げる。
「立てるか?」
「あ、は、はい…。」
状況が理解できずにいるゾフィーに仮面の男は手を差し出した。戸惑いながらもゾフィーは差し出された手を取り、ベッドから降りて、立ち上がった。
ど、どういう事なんだろう…?そんなゾフィーに仮面の男はゾフィーを見下ろすと、一度手を離した。
そのままバサッと外套を脱ぎ、それをゾフィーに羽織らせた。
「これで我慢しろ。悪いが着替える時間はない。」
「!?」
ゾフィーは自分の格好を見下ろし、恥ずかしさのあまり真っ赤になった。さっき、客の男に服を破かれたせいで半裸に近い姿になっていたのだ。慌てて、黒い外套を引き寄せ、胸の前に手繰り寄せる。
「あ、ありがとうございます…。あの、あなたは一体…?どうして、私を…、」
「説明は後だ。とりあえず、ここから逃げるぞ。」
仮面の男はそう言いながら、既に窓をこじ開けていた。鉄格子が嵌められていた窓は彼の手によってたやすく壊された。
「わ、私を逃がしてくれるの?」
「ああ。そうだ。じゃなければ、わざわざこんな所まで危険を冒してまで来る訳ないだろ。ここで薬漬けにされて娼婦になりたくなけりゃ、黙って俺に従え!」
仮面の男はゾフィーに手を差し出した。
ゾフィーは本能的に差し出された手を取った。
助けてくれる理由とかこの人が信用できるのかとかそんな事はどうだっていい。ここから、逃げられるのなら何だってよかった。
ゾフィーの手を取り、男はゾフィーを背中に抱えた。
「しっかり掴まれ。振り落とされるなよ。」
「は、はい!」
ゾフィーは男の首に手を回し、ギュッとしがみついた。
「舌を噛まないようにしっかり口を閉じろ。」
ゾフィーは言われた通り、口を閉ざした。男は窓枠に足をかけ、そのまま外に躍り出た。
ゾフィーは悲鳴を上げそうになりながらもそれを堪えて男にしがみついた。
仮面の男はゾフィーを抱えているにも関わらず、屋根へ屋根へと飛び移りながら軽やかな身のこなしで走り続ける。その足取りは軽く、足場が不安定なのにも関わらず、そんな気配は微塵も感じさせない。まるで平坦な道を走っているかのようだ。
ゾフィーは恐る恐る目を開け、次第に彼に対して、妙な安心感を抱いた。
窓から飛び降りるなんて正気じゃないと頭のどこかで冷静な自分が叫んでいたがこの人なら、大丈夫だという気持ちになってきた。
普通の人間だったら、即死する。失敗すれば足を踏み外して転落してしまう。
でも…、彼の運動神経は普通じゃない。異常な程に優れている。だからこそ、この無茶な逃走を可能にしているのだ。この人…、凄い。ゾフィーは目の前の彼に感嘆した。
程なくして、屋根から飛び降りて、地面に着地した男はゾフィーを地面に降ろした。