第二百十二話 このブローチは!
知っている。私はこのブローチを知っている。
だって、このブローチは…!
『オレ、貴族のお嬢様なんて初めて見た!』
『え?いいのか?こんな綺麗な石のついたブローチ。』
『すっげー嬉しい!』
忘れもしない。森で出会った一人の子供。道に迷ったリエルを案内してくれ、林檎をくれた子。
リエルがあげたブローチをとても喜んでくれ、宝物のように大切にしてくれた。
あれから、あの子はブローチを肌身離さず身に着け、リエルと会った時はいつもそのブローチをつけていた。
『このブローチはオレの宝物なんだ。だって、リエルがオレに初めてくれた物なんだからな!』
そう言って、太陽のような笑顔を浮かべていた。
リエルがあげたブローチは琥珀の宝石を使って作られた物だった。
偶然にも、あの子と同じ目の色をしたブローチ。この形…、間違いない。私があげたブローチと同じものだ。
『オレの名前はクレアって言うんだ!よろしくな!リエル!』
艶やかな黒髪に琥珀色の瞳をした美しい子だった。
可愛いというよりも綺麗や美しいという言葉が似合う子だった。
凡庸な容姿をした自分とは比べ物にならない位に綺麗で…、お姉様と同じくらい美人な子に会ったのはクレアが初めてだった。
でも、綺麗なのに気取ってなくて、気さくで優しい子だった。
女の子なのに、男の子のような喋り方をしていたがそれもクレアの魅力の一つだった。
着飾ればきっと誰よりも美しいだろうにクレアは自分の美しさを鼻にかけることなく、見た目で人を判断することなく、リエルを慕ってくれた。
家柄や身分ではなく、リエル自身を見てくれる子はクレアが初めてだった。
それが…、泣きそうになる程、嬉しかった。
これは、私があの子に…、クレアにあげた物だ。どうして、これがここにあるの?
リエルはゆっくりと黒猫を見つめ、呆然と呟いた。
「クレア…?」
信じられない気持ちでリエルはふらふらと黒猫に近付く。
「リエル?」
アルバートが訝し気に名前を呼ぶがリエルは真っ直ぐに黒猫に近付いた。
「姉上?どうしましたか?」
ルイが様子のおかしいリエルに気が付いた。が、黒猫に対しての拘束は緩めていない。
リエルは無言で黒猫を見つめる。黒猫の琥珀色の目と薄紫色の目が交差する。
同じだ…。クレアと同じ黒髪に琥珀色の目…。
「あなた…、クレアなの?」
「はあ?何で俺の名前を…、」
どうして、気付かなかったんだろう。よく見たら、面影がある。
それに、クレアのお母様にそっくりだ。
『いらっしゃい。リエル。丁度、アップルパイが焼き上がった所なの。』
そう言って、ふわりと優しく微笑んでいつも温かく出迎えてくれたあの子の母親…。
『美味しい?』
春の木漏れ日のような女性。クレアの母親はそんな人だった。
きっと、母親ってこういう人みたいなことをいうのだろうと思った。同時にこんな素敵な人が母親でクレアが羨ましいとリエルは思った。リエルは母親に手を握られたことも頭を撫でられたこともない。
クレアの口元が汚れているのを見て、窘めながらも、ナプキンで口元を拭ってあげている彼女の目は娘への愛情に満ち溢れていた。
愛情深くて、穏やかで温かい女性…。同じ美しい女性でもリエルの母親とは正反対だった。
そんな母親に育てられたせいかクレアも母と同じ目をしていた。一見、性格や雰囲気は真逆に見えるが二人はよく似ていた。クレアもその母親も…、優しくて温かい目をしていた。
でも…、この人とクレアは似てない。リエルは黒猫を見て、そう思う。
顔がそっくりでも、今の黒猫はあのクレアと雰囲気が全然違う。だから、気付かなかった。
クレアもその母親もこんな冷ややかで昏い目をした人じゃなかった。
日の光が似合うそんな温かい人達だった。
愕然とするリエルの手の中にあるブローチを見て、黒猫がハッと目を見開いた。
「ッ!その、ブローチ…!返せ!返せよ!それは俺のだ!」
返せ!と叫ぶ黒猫にリエルは震える手でスッとブローチを見せた。
「あなた…、本当にクレア、なの?この、ブローチ…。私があげた物、だよね?ずっとこれを持っていたの?」
「はあ!?何の話だよ!お前なんかに物を貰った覚えはない!」
リエルは黒猫を見て、戸惑った。
クレアが私を忘れる訳がない。だって、私とクレアはあんなにも仲が良くて…、私達は親友で…、私とクレアの間には間違いなく、強い絆があった。だけど…、この人は今まで私を見ても何の反応も示さなかった。
どういう事?目の前にいる黒猫は本当にあのクレアなの?それとも、本当にただ似ているだけの別人?
いや…。そんな訳ない。例え、よく似ている人がいたとしても、私があげたブローチを持っているなんて有り得ない。じゃあ、やっぱり、黒猫があのクレアだった?そんな事が本当に有り得るの?
だって、クレアはあの火事で亡くなった筈。…でも、遺体は見つからなかった。まさか、生きていたの?
「何とか言えよ!さっきから、ジロジロ見やがって…、気色悪いんだよ!フォルネーゼの女なんかに見られていると思うと、虫唾が走る!」
「さっきから黙って聞いていれば、言いたい放題…。よくも、姉上にそんな口が利けますね。やっぱり、少し位痛い目に…、」
「待って!ルイ!…剣を退けて。」
「姉上!?」
「リエル!何言ってんだ!」
「お願い!確かめたいことがあるの!」
ルイは数秒迷ったがスッと剣を引き、後ろに下がった。が、ジッと黒猫を注意深く観察し、いつでも動けるように身構えた。リエルは黒猫の目の前まで近付いた。
「返せって言ってるだろ!」
黒猫はそう叫びながら、リエルの手からブローチを奪い返した。しかし、勢いよく動いたせいか傷口が痛み、黒猫は苦痛に顔を歪めた。それでも、そのブローチからは手を離さない。
痛みで汗を流しながらもリエルを睨みつける黒猫はまるで大切な物を奪われまいとする子供のようだった。クレア…。本当にこの人があのクレアなの?そんな…、そんな事が…、
「クレア…。あの、」
「さっきから、何なんだよ!俺はお前なんて知らない!俺がお前の顔と名前を知ったのはあの夜会の日が初めてだ!それまではお前の顔と名前も知らなかったんだからな!」
黒猫が私を見る目は本当に何も覚えていないように見える。
「大体、何でお前は俺の名前を知ってるんだよ!俺はお前に名前を教えたことはないぞ!」
リエルは恐る恐る黒猫に手を伸ばした。
「な、何しやがる!」
リエルは黒猫の腕を掴むと、そのまま袖を捲り上げた。確か、ここに…!
『あれ?クレア。その腕の痣、どうしたの?』
『ああ。これか?これは、生まれつきある痣なんだ。よく見たら、月みたいで格好いいだろう?』
『うん!格好いい!』
クレアの二の腕には生まれつきあるという不思議な形をした痣があった。
まるでお月様のような三日月の形をした痣が…。
黒猫の袖を捲り上げると、そこには…、三日月形の痣があった。形も痣がある位置も全く同じだ。リエルは息を吞んだ。
「クレア…。じゃあ、本当にあなたが…、」
リエルは黒猫…、クレアを見つめる。視界が涙で滲んだ。
「生きて、たの…?」
「あ?」
リエルは思わず黒猫…、クレアを見つめる。あの火事で死んでいたかと思っていた。
でも、生きていた!生きていたんだ!いきなり、泣き始めたリエルにクレアは驚いた。
「い、いきなり何で泣いて…、うわ!?」
「クレア!」
リエルは思わずクレアに抱き着いた。
「クレア…?クレアって確か姉上の…。そういえば、どことなく面影が…、」
「クレアって…、あのクルソ村に住んでいた…!?けど、あいつは火事で死んだって…!」
ルイとアルバートはクレアという名前に段々と思い出したように呟いた。
「クレア!クレア…!生きていたんだ…!良かった…!」
「ッ、は、離れろ!」
クレアはリエルを突き飛ばした。リエルはそのまま尻餅をついてしまう。
「なっ…!?姉上!大丈夫ですか?」
「な、手前!何しやがるんだ!」
ルイは突き飛ばされたリエルを助け起こし、アルバートは剣の柄に手を掛けた。
クレアはリエルを睨みつけた。
「な、何なんだよ!お前!意味が分からねえよ!何でお前がフォルネーゼの女なんだ!
貴族の女なら、もっとそれらしくしろよ!貴族の女ってのは傲慢で我儘で…、平民なんて虫けらだって思ってんだろう!平民に触るのだって汚らわしいと思ってんだろう!なのに、何で自分から俺に触ろうとするんだよ!どうして、俺をそんな目で見るんだ!どうして、平民なんかに優しくできるんだよ!何でお前が…、フォルネーゼの女なんだよ!」
リエルは目を見開いた。初めて…、本心を聞けた気がする。
クレアの叫びはまるで助けを求めているかのようで…、苦しんでいる様に聞こえた。私が典型的な貴族の女だったら良かった。その言葉の意味は恐らく…、いや。それよりも…、
「クレア。私の事…、分からない?私だよ。リエルだよ!昔、よく一緒に遊んだ…。私の事、覚えてないの?」
「何の話だよ?お前なんて知らないし、リエルなんて名前も知らない。」
「…!」
本当に…、本当に忘れてる。ど、どうして?どうして、私の事が分からないの?
リエルはクレアを縋るように見つめた。その目にクレアは一瞬、怯んだ。
「クレア!私達、昔、よく一緒に遊んだのよ!あなたの村で。あなたの弟のリシールも一緒に!」
「ッ!何で弟の名前を…!?」
「友達だったからに決まってるでしょう!ううん。ただの友達じゃない。私とあなたは親友だった。
忘れてしまったの?クレア。私はずっと覚えていた。あなたの事を忘れたことなんて一度もなかった!
あなたと交わした友情の誓いも覚えてる!一緒に遊ぶときに二人で決めた合言葉だって忘れてない。」
「……。」
クレアはリエルの言葉に戸惑ったように瞳を揺らした。
何を言っているのか分からない、とでも言いたげな目だった。
「私だけじゃない!ルイとアルバートとも一緒に遊んだこともあった。これでも、まだ思い出せない?」
「し、知るか!俺は平民でお前らは貴族だろうが!子供の頃に会ったことがあるなんて言われても信じられるか!貴族と平民じゃ住む世界が違うんだろう!?大体、貴族のお嬢様が俺みたいな平民を友達何て思う訳…!」
「嘘じゃないわ!私にとって、あなたが初めての友達だったのに…!どうして、そんな事を言うの!?
確かに私は貴族でクレアは平民だった。でも!身分は違っても私達の間にはちゃんと絆があった!少なくとも、私は本気でそう思ってた!」
リエルは泣きながら、クレアにそう言った。そんなリエルにクレアは口を噤んだ。
「クレア!お願い!思い出して!本当に…、何も覚えてないの?」
リエルはクレアの手を掴み、縋るように見つめた。クレアは一瞬、ビクッとしたがその手を振り払う事はしなかった。
「お、俺は…、」
「一緒にルクソ村で遊んだじゃない!川で遊んだり、木登りをしたり、鬼ごっこをしたり、結婚式ごっこをしたり、ピクニックをしたり…!たくさん遊んだじゃない!あなたの家に遊びに行った事もある。あなたのお母さんがアップルパイを焼いてくれて、あなたはいつもそれを美味しそうに頬張っていた。あなたはシナモンたっぷりのアップルパイが大好物だった。」
クレアは目を見開いた。どうしてそれを…、と呆然と呟く。
「私は全部覚えている!私は覚えているのに…、クレア。あなたは忘れてしまったの?」
「ッ…、し、仕方ないだろう!本当に覚えがないんだ!確かに俺はルクソ村に住んでいたし、母親と弟がいたけど、貴族のお嬢様と友達になった記憶なんてない!俺はいつも弟と村の餓鬼どもと遊んで…、?」
クレアは不意に口ごもった。
「あれ…?俺は…、子供の頃、誰と遊んでたんだっけ…?」
クレアは頭を押さえながら、呆然と呟いた。
クレアのこの反応…。もしかして、何かを思い出そうとしている?リエルは唇を引き結んだ。そして、口を開いた。
「林檎。林檎は甘い。大好物はアップルパイ。」
「林檎…?それに、その言葉…、どこかで…、」
これは、昔私とクレアが決めた合言葉だ。もしかしたら、これで何か思い出してくれるかもしれない。
リエルはそう思い、合言葉を口にした。
クレアが何かを思い出したように呟くが
「うっ…!」
クレアは呻き声を上げて、急に頭を押さえた。
「グッ…!あっ、うっ…!」
「クレア!?」
「あ、頭、痛…!ああ…!」
「クレア!クレア!しっかりして!」
尋常ではない位に苦しみ出し、クレアは頭を押さえたまま崩れ落ちた。リエルは倒れたクレアに駆け寄り、必死で呼びかける。
「この、反応…。」
アルバートが不意にクレアに近付く。
「クレア…!大丈夫…!?」
「リエル。少し退いてろ。」
アルバートはそう言い、クレアの顎を掴んで顔を覗き込んだ。アルバートは息を吞んだ。
「こいつは…!」
「アルバート…?何か、」
「ぐっ…、ああああああああああ!」
突然、クレアが苦しみ出した。リエルは慌ててクレアの名を呼んだ。
「クレア!」
「あ、頭が割れる!…うああああ!」
ど、どうしよう!どうして、急にこんなに…!原因が分からないからどう対処していいかも分からない。
どうすれば…!
「クレア!」
その時、リエルは聞き覚えのある声が聞こえた。この声…、リエルは思わず顔を上げた。