第二百八話 ルイーザside
ルイーザはコンコン、と扉を叩き、声を掛けた。
「マダム。ルイーザです。」
「お入り。」
マダムに呼び出されたルイーザは許可を得て、部屋に入った。
部屋に入ってすぐ、目の前の光景にルイーザは目を見開いた。
そこには短い髪の女が猿轡をされ、縛られた状態でベッドに座らされていた。深緑の目が涙で滲んでいる。赤い髪が特徴的な綺麗な娘だった。
「マダム…?あの、この子は?」
「ルイーザ。お前にこの子の世話を任せたいんだよ。手始めにこのみっともない髪を整えておくれ。」
「は、はい…。」
「その子はオーナーが直々に目を掛けている子だ。逃げ出さないようにしっかりと躾けるようにとのお達しだ。」
マダムの言葉にルイーザはギクリ、と顔を強張らせる。
オーナーが…。それはつまり…、
「意味は分かるね?」
マダムの鋭い眼差しにルイーザは頷くしかできなかった。
ルイーザはオーナーを知っていた。
黒百合の館は表向きマダムが取り仕切っているように見えるが実際は違う。この店を動かしているのはオーナーだ。マダムはオーナーの指示で動いているに過ぎない。
オーナーはあまり表には顔を出さない。そして、彼の正体は謎に包まれている。
いつも仮面を被るか、フードで顔を隠している。
最初、顔を隠しているのは顔に醜い傷跡があるのだろうかと思っていた。
だが、オーナーの素顔を初めて目にした時、ルイーザはあまりの美しさに見惚れた。
そこには、醜い傷跡も火傷の跡もなかった。
美しい金髪に黄金と真紅の瞳のオッドアイをした神秘的な容貌にルイーザは息を呑んだ。
この世の者とは思えない美しさにルイーザは時間が止まったように感じた。
それ程、オーナーは美しかった。
オーナーはとても美しい。だけど…、あの男は見た目とは裏腹に誰よりも残虐で恐ろしい人だった。
娼館ではマダムが一番怖いと娼婦の間ではいわれている。でも、本当に怖いのはマダムじゃない。
本当に怖いのは…、オーナーだ。
そうルイーザは確信している。
オーナーの恐ろしさをルイーザはよく分かっていた。
今までもオーナーは阿片を使って多くの女の命と人生を奪ってきた。
そして、今回も…、同じことをするのだ。
つまり、オーナーはこの子を…、阿片を使って薬漬けにして一生、飼い殺しにしろということだ。
今までもルイーザは店の裏の仕事を手伝わされてきた。
断れば、殺される。
無理矢理阿片を吸わされ、彼女達の様に使い捨ての玩具の様に捨てられてしまう。
嫌だ…!あんな風にはなりたくない!わたしは死ぬわけにはいかない。絶対に!
ルイーザの脳裏には病気の母親と幼い弟妹達の姿が思い浮かんだ。
私が死んだら…、家族が飢え死にしてしまう。
ルイーザは助けを求める少女の視線から逃れるように鋏と布を手にすると、髪を切り揃えた。
ルイーザは彼女の世話係を命じられた。そのため、何度も目を背けたくなるような光景を見せつけられた。
「放して!嫌ー!」
「この…!暴れるな!」
「もっと強く抑えてろ!」
男達に押さえつけられながらも抵抗する少女にルイーザは目を逸らした。
「フフッ…、」
その横で笑みを零すオーナーにルイーザは表情が凍り付いた。どうして、笑っていられるの。
「ん、グッ…!?」
少女の口に無理矢理煙管が突っ込まれ、阿片を吸わした。涙を流しながら、阿片を吸わされる少女にルイーザは胸が痛んだが止めることはできなかった。
「ゲホッ…!ゴホッ…!」
咳き込む少女はキッとオーナーを睨みつけた。
「この…、悪魔!」
少女の罵倒にもオーナーはニコニコと笑みを絶やさない。それがかえって不気味だった。
「ルイーザ。」
名を呼ばれ、ルイーザはビクッとした。
「今日からこの子に客を取らせろ。」
「え…、」
「いいな?」
仮面の奥の目は冷ややかでまるで喉元に鋭いナイフを突きつけられたかのような恐ろしさを感じた。
ルイーザは反射的に頷いた。
「は、はい!」
「嫌ッ…!止めて!それだけは…!」
少女の悲痛な声が聞こえた。ルイーザはその声を聞こえない振りをして、そのまま部屋から出て行った。
「…助けて…。」
ルイーザはその日、少女の髪を梳かし、化粧をしてあげていた。少女が客を取るからだ。
か細い声にルイーザはビクッと手が震えた。縋るような目を向けられる。
「ねえ…。お願い…。助けて…!」
「…。」
ルイーザは黙ったまま髪を梳かした。
「私…、婚約者がいるの…!」
「っ…、」
「会いたい…。彼に…!約束、したの…。初めては彼に捧げるって…。」
ルイーザは震える手をギュッと握りしめた。何かを言おうと口を開きかけるが…、結局何も言う事ができず、そのまま顔を背けると、逃げる様に部屋から出て行った。後ろから泣きながら、縋りつく声が聞こえたが振り返らなかった。
リアーヌの初めての客は娼婦達の間でも評判の悪い客だった。
見た目も最悪だが、その中身も腐ったような男だ。
女を道具か家畜の様に思っていて、変態行為ばかりを強要する男だ。
よりによって、どうしてあの客なんだとルイーザは内心思ったが、マダムの決定には逆らえない。
ルイーザは何も言えなかった。
客の男がリアーヌのいる部屋に入るのをマダムと見届け、上機嫌なマダムと一緒に部屋を後にする。
ルイーザは立ち止まり、振り返った。
「ルイーザ。何してんだい。早く来な。」
「あ、はい。」
マダムに急かされ、ルイーザは慌ててマダムの後に従った。
「マダム!大変よ!マダムの部屋から煙が…!」
その時、従業員の一人が慌てた様子でマダムに報告した。
どうやら、マダムの部屋が燃えていて、火事の騒ぎになっているらしい。
「な、何だって!?あの部屋には大量の金が…!」
マダムは顔色を変え、大急ぎで部屋に向かった。ルイーザも急いで跡を追った。
結局、火事は消火活動をしたおかげでおさまったが、マダムの部屋は所々が黒焦げになり、マダムが大切にしていた札束は半分以上が灰になってしまった。それを見たマダムは怒り狂い、泣き叫んでいた。
犯人を八つ裂きにしてしまいそうな程に殺気立つマダムにルイーザ含め他の従業員は恐ろしくて近寄ることができなかった。
火事の原因は不明で犯人は見つからなかった。
マダムは用心深いし、あの部屋に入れるのはマダムだけだ。それに、金に人一倍の執着がある。
そんなマダムが不注意で火事を起こすとは考えられない。
一体どうして…?と疑問を抱く間もなく、数人の男がマダムの下に駆け込んだ。
「た、大変だ!マダム!」
彼らはオーナーの手下達だった。
「何の用だい!?あたしは今、猛烈に腹が立ってんだ!つまんない用事だったらしばき倒すよ!?」
超絶不機嫌なマダムは男達に話しかけられ、睨みつけた。
今はあまりマダムを刺激しない方が…、そんな気持ちでルイーザはハラハラした。
「それどころじゃないんだ!あ、あの女が…、」
マダムに近付き、男達がヒソヒソと小声で何かを言っている。
すると、マダムがカッと目を見開き、
「逃げたあ!?」
そう叫ぶと、男達と一緒に大慌てでどこかへと向かった。
マダムが向かった先はリアーヌを監禁している部屋。まさか…、まさか、リアーヌが…?
気になったルイーザは急いでマダムの後を追った。
ルイーザはリアーヌのいた部屋に飛び込んだ。
そこには…、リアーヌの姿はなく、拘束されていた手錠が外れ、鉄格子は壊され、窓が開いていた。
「な…、」
ルイーザは愕然と呟いた。
火事の騒ぎですっかり忘れられていたが、リアーヌの部屋に籠ったまま客が出てこないので不審に思ったオーナーの部下達が様子を見に行ったら、客の男が両手両足を縛られ、猿轡をされた状態で床に転がっていたそうだ。
その時には既に手錠は外されてて、窓が開いていたという。リアーヌの姿はどこにも見当たらなかった。
恐らくは窓から逃げたのだろうというのが男達からの報告だった。
「馬鹿を言うんじゃないよ!この高さからどうやって逃げ出すっていうんだい!」
ルイーザは思わず窓から下を見下ろした。ここは四階といっても、土台が高く建てられているのでかなり高いのだ。
下を見下ろすと、他の建物の屋根が下に見える位には高い。
まさか、あの子はここから飛び降りたというの…?
「下の様子は!?」
「そ、それが…、あの女の死体らしきものはなく…、」
「はあ!?じゃあ、あの女はここから飛び降りて無事だったってことかい!?お前達、ちゃんと捜したんだろうねえ!?」
「捜しましたよ!ただ、夜なので暗かったので…、」
マダムの叱責に男達は竦みながらも弁明した。
「これだけ捜してもいないってことはあの女は死んでないってことです!きっと、逃げたんです!」
「あの身体でどうやって逃げるっていうんだい!あの小娘は自力で逃げられる程の体力は残ってない!
阿片のせいで身体も中毒症状に侵されてるっていうのに…。」
マダムは苛立たし気に爪を噛んだ。
そうだ。リアーヌは阿片のせいで逃げられるほどの体力はなかった。
男ならともかく、あの子は女の子だ。窓から飛び降りてそのまま逃げるなんてできっこない。
それに、あの子は両手を拘束されていた。一体、どうやってあの手錠を外して、男を撃退したというのだろう。
あの子の出自は知らないが多分、貴族の娘だ。
容姿や立ち振る舞いを見れば分かる。間違いなく、あの子は上流階級の娘だ。
荒事に慣れていない貴族の娘がここから逃げ出すなんてできるわけがない。
とすると…、考えられるのは一つだけ…。
「もう一回捜してきな!くまなく、隅から隅まで捜すんだ!近くの店や家で匿われているかもしれないし、隠れているだけかもしれない!そっちも念入りに捜すんだ!」
マダムの命令に男達は慌ただしく動いた。
ルイーザはそんな彼らを見やりながら、そっと心の中で祈った。
―リアーヌ。もし、あなたが生きているなら…、どうか無事に逃げ切って…。
ルイーザは彼女を助けることはできない。ルイーザができることはただ祈るだけだった。